取引
『少し話せませんか』
ぼくが送ったメッセージにリュック・ルノワールから返事があったのは、クリスマスリサイタルの前日、シャルル・ド・ゴール国際空港に着いてからのことだ。
『せっかくなので会いましょう』
ぼくとしてはメッセージで事足りたのだが、一方的に場所と時間を指定してきたきり音信不通になってしまったので、致し方なくセーヌ川のほとりのカフェにいる。
それも、二時間も前から。
日も暮れたテラス席とあってピアノ弾きでなくとも手袋必須、マフラー無しには異端者扱いという寒さだ。
視線を上げた先にあるクリスマス仕様に着飾った眩いエッフェル塔もいい加減見飽きたし、やんわり雪まで降り始めている。
にも拘わらず、とにかく人が多い。
みながみな着込めるだけ着込んでいるので、通りを行く人々はみっちりひしめき合っているように見える。カフェも大盛況。
アジア人のお一人様というだけで目立つのに、クリスマスシーズンという条件も重なってあわや不審者だ。
とにかくきつい。人目が苦手なぼくでなくともたぶんきつい。
それでも話を持ち掛けたのがぼくの方であるからには待つしかない。
ぼくにはどうしても、彼から聞き出さねばならないことがある。
「ジョワイユノエル、白先生。お元気でしたか?」
フランス語のメリークリスマスを携えた待ち人は、ダークグレーのチェスターコートに臙脂のマフラーという気取った格好で現れた。
「ジョワイユノエル、ムッシュ・ルノワール。
ええ、お早いご到着のおかげで氷像にならずに済みました」
「それは残念です。ぜひ拝見したかったですよ、氷像。
いやあ、明日のリハーサルでてんやわんやでしてね。ちょっと失礼」
現れたばかりのルノワール氏は人がごった返す店内へと姿を消し、オレンジとシナモンが添えられた二杯のヴァン・ショーをトレイに乗せて戻ってきた。
ほかほかと立ち上る白い湯気は見ているだけでほっこりする。
もちろん遠慮なんかしない。
手袋を外し、礼はスマイルで、乾杯は無言で済ませ、ほかほかのヴァン・ショーでかちかちに冷えた身体を温める。
寒さに震えながら肩身を狭くして長時間待たされたのだ。
このくらいの埋め合わせはあってしかるべきだろう。
ぼくはテーブルにグラスを置いて口を開く。
「お忙しい中足を運んでいただいたことには感謝しますが、どうしてわざわざ会おうなどと?」
「遠路遥々パリまでいらしたのに、つれないことをおっしゃる。
こちらにも事情がありましてね、お気になさらないでください。
それで、アンリの母親の連絡先……でしたっけ? そんなものを手に入れて何を企んでおられるのやら。
あの女とアンリを引き合わせるおつもりですか? それとも、子供を捨てた母親にお説教でもされますか、先生?」
「……そういうことも無いとは言い切れませんが、目的は別です。
どうしても個人的にお目にかかりたい事情がありまして」
「個人的に、ねえ……。まあいいでしょう。
ところで先生、明日のリサイタルのチケットはもちろんお持ちですね」
ぼくはグラスに口をつけながら懐に意識を向けた。
「ええ、まあ。パリには元々、そのためだけのつもりで参りましたから」
「でしょうとも」
ルノワール氏はにこりと笑みを深めた。
その笑顔に反比例するみたいにぼくの顔から作り笑顔が消え、ヴァン・ショーで温まったはずの全身に悪寒がはしる。
「では先生、そのチケットをここで私に渡してください。
さすらば私は、貴方にアンリの母親のフルネームと住まいの情報をお渡ししましょう。いかがです?」
「ムッシュは相変わらず取引がお好きなようですね。いかがも何も、理解いたしかねます」
ぼくは服の上から懐をおさえ、やや語調を強くした。
「どうしてぼくのチケットが取引の材料になり得ますか?
いくらでも席を都合できるお立場にあるあなたにすれば、紙切れも同然でしょう」
「ええ。ですから、私に渡すのが癪なのであればこの場でバラバラに引き裂いて、セーヌ川にばら撒いていただくでも結構ですよ。
さきほども言いましたが、私にも事情がありましてね。
あの女にアンリを引き合わされるリスクを負う以上に、明日、貴方に来られては困るのです。
さあ先生、どうなさいますか?」
唇を真一文字にして黙り込むぼくに彼は
「ちなみにですが、彼女は明日にも地方へ引っ越される予定です。
引っ越し先は私も聞き及んでいませんし、他の連絡先はとっくに変えられてしまって私にも分かりません」
と追い打ちをかけた。
脅しかもしれないが、ぼくには判断する方法がない。
「その、事情というのは?」
「知ればなおさら、大事にされているそのチケットを手放せなくなりますよ。
お困りになるのは先生の方では?」
ぼくは吐き出しかけた汚い言葉を温かいヴァンショーで胃に流し込み、酔わされて愚かな判断をしようとしていないか、何度も自身に問いかけた。
そして、言い聞かせた。
アンリがぼくにくれたチケットは確かにこの一枚だけだが、リサイタルは来年もある。再来年も。そもまた次の年も。
そしてこの機を逃そうものなら、ぼくはともかく、アンリが待ち侘びた母親との対面を果たせる機会は、もう二度と訪れないかもしれない。
ぼくはグラスに口をつけようとしていた氏の前に、命より大事に思っていたチケットを差し出した。
テーブルに押しつけた手のひらにはまだ、さらさらしたチケットの感触がある。
その状態で何秒か睨み合い、身から魂を引き剝がす思いでチケットから手を――そう、確かにぼくは手離そうとしたのだ。
「やっぱり……これだけはどうしても渡せません。
取引なら、どうか他の物にしていただけないでしょうか」
もしこれが自分で手に入れたものであったなら、ちゃんと離せていたと思う。
けれど、これは違う。アンリがくれた、宇宙一特別なチケットなのだ。
たとえこの指を失ったとしても、絶対に手放すわけにはいかない。
「この通りです」
チケットを引き寄せ、額をテーブルに押しつけて懇願するぼくに、彼は言った。
「見てください。先生」
伏せていた顔をそろりと上げる。彼のくらい瞳が捉えているのは、数え切れないほどの星芒でノエルを祝福するエッフェル塔か、その先端を静かに見下ろす満月か。
彼は視線をぼくに戻して続ける。
「私はね、他人の才能にあやかろうとする、あなたのような凡人がこの世で一番嫌いなんです。
他人の光を浴びて自分まで輝いていると錯覚するその浅ましさ。虫唾が走る」
軽蔑ばかりのその言葉を、ぼくは驚くほど冷静に受け止めていた。諦観とも違う。
彼のぼくを見ているようで見ていない、哀れみの目を見て確信したのだ。
ぼくは言った。
「まるでご自身におっしゃっているかのようですね、ムッシュ」
氷の刃のように冷たく、鋭い視線が突きつけられる。
ぼくは怯まずに続けた。
「ムッシュ・ルノワール。あなたがそうして必死に守っておられるのは、本当にアンリですか?」
「……黙りなさい」
「あなたがアンリの中に閉じ込めた、あなたご自身なのでは?」
「黙れ……っ!!」
ルノワール氏が激昂したその瞬間、彼が薙いだグラスから赤黒い液体が放たれ、裾を広げるドレスのように宙を舞った。
幸い大事なチケットは手の内にある。
守りきれる。
そう確信したはずが――見下ろした卓上、血溜まりのように赤く広がるヴァン・ショーの中に、見るも無残なチケットが沈んでいる。
いったい、何が起こったというのか。
くく、とルノワール氏が喉を鳴らす。
「見直しましたよ、白先生!」
高々と笑う声を聞きながら、宙に浮いた何も掴んでいない両手を見つめ、ぼくはやっと理解した。
咄嗟のぼくが守ったものとは、命より大事に思っていたはずのチケットではなく、この、いたって凡庸な両手だったのだと。
はっとしてチケットの救出にかかる。
チケットを浸しているヴァン・ショーが痛いほど冷たくて、ああ……今にも泣き出してしまいそうだ。
「おみそれしました先生! いやあ、これは認めざるを得ません。
確かにあなたは、音楽の才に恵まれなかった私とは違う、立派なピアニストであられるようです」
ルノワール氏は皮肉たっぷりにそう言って、ぼくが救出に難航しているふやけきったチケットをスマホのカメラに収めた。
事態に気が付いて駆けつけたカフェのスタッフらしき女性が憐れむような目でぼくを見る。
彼女だけではない。
少し周りを見渡せば、何人もの人が同じ目でぼくを見ていた。
それもそのはず、ヴァン・ショーの流れ弾をくらったぼくのコートとマフラーは、返り血を浴びたみたいに真っ赤になっていた。
ぼくは深々と彼らに頭を下げ、後始末を引き受ける。
本来謝罪すべきであるはずのルノワール氏はといえば、他人事のように椅子を引いて距離を取り、名刺の裏に何かしたため始めた。
憎々しくて堪らない、それはもう愉快な笑みを浮かべて。
「今日はお会いできて本当によかった。
貴方のその顔、実に見物ですよ」
鞄を手に立ち上がった彼は、床に跪いていたぼくに裏を向いた名刺を差し出して言った。
ぼくは黙って受け取り、そこに書かれた名前を食い入るように見つめる。
「それは私からのお詫びの気持ちです。
アデュー、白先生。チケット代とクリーニング代の請求をお忘れなく」




