日常
早いもので、CMVでの日常が戻ってきて丸一週間が経とうとしている。
アンリが現れる前とほとんど変わらない、雑用を集めてこなす日常が。
「おおー、白君! 久しぶりー! また来てくれてホント嬉しいよ。
いい加減、院生のバイトを増やそうか悩んでたとこだったんだよね。
ここだけの話、助教があんまり使えなくってさあ……」
雑用はここしばらくサボっていた、というか、演奏会の準備の方を優先していたので、ありがたいことにどこへ伺ってもこの調子だ。
それと――
「ところでさ、アンリ・ルノワールとはどうやって顔見知りになったの? かねてからの友人?」
ここぞとばかりの質問攻め。
ぼくの答えはいつも同じだ。
「とんでもない。彼との出逢いは、深い海の底で白鳥ならぬ、メルルと遭遇したようなものでして」
メルル。
日本では黒歌鳥、米国ではブラックバードなどと呼ばれる美声の鳥で、ドレミの歌のシは、フランス語圏では「メルルのような口笛」と歌われる。
アンリを喩えるにはぴったりではないだろうか。つまりはあまりにも現実味が無いと言いたいのだが、彼の音と幸せがイコールであることを暗示していたり、〝Hanon〟と〝Henri〟のイニシャルが〝H〟で共通していたり、この喩えの気に入っている点はいくつかある。
まあ、誰も気づきはしないだろうけど、そこがいい。
以前とほとんど変わりないといったが、変わったことももちろんある。
「ねえあの白髪の人、白先生じゃない?」
「え、どれどれ? ほんとだ! 先生! 白せんせー!」
管楽器のケースを背負ったお嬢さん二人が小走りで寄ってくるのを笑顔で待ち構える。
いずれも見覚えのない学生だが、教師なら誰しも気を良くしてしまうシチュエーションに違いない。
男ならなおさらだ。
「こんにちは! 先週の講師演奏会、とーってもよきでしたっ!」
「わたしもっ! ほんっとに感動しました!!」
「こんにちは。お褒めの言葉をありがとうございます。わざわざ声までかけていただいて、光栄です」
「ねえ、今の聞いた?! 光栄だって!」
反応するポイントは謎だが、友人の腕に縋りながらひゃーと身体を縦に揺らす姿がなんだかおかしくて、ぼくはくすくすと肩を揺らす。
すると縋られている方が
「私は断然黒推しなんですけど、こっちはガチの白推しなんですよー。
来期は副科でヴァイオリン教わるんだーって張り切っちゃってー」
と悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「ちょ、ちょっと!」こっちと差し出された方は慌てて友人の口を塞ぎにかかる。
そして「しろおし……?」聞き慣れない言葉に首を傾げるぼくを二人揃ってぽかんと見つめる。
「先生、もしかして知らないんですか……?」
いわく、講師演奏会を期にCMV女子たちの間で爆発的に広まった言葉なのだとか。
説明するまでもなく黒がアンリで白がぼく。
どの界隈にもマイナー推しというのは存在するが、今の会話を信じるのならば、彼女もその一人ということになるのだろう。
「それはそれは、ぼくにはもったいないお言葉ですね。
副科ヴァイオリンの受講もお考えだとか。
研究室でお待ちしていますので、気がお変わりにならなければぜひ」
このように、今のぼくは、身に余る幸せを享受している。
以前のように〝コネ講師〟と揶揄されることがめっきりなくなり、来週には心待ちにしていたミューズたちの語学レッスンも始まる。
不満なんてあってはならないのに――心は常に禁断症状を訴えている。
深いところに特定の栄養しか受け付けてくれない部分があって、満たされる気配がまるでないのだ。
そしてまた、嫌気が差すような夜がやってくる。
ぼくは現実から逃げるように楽器を弾き続ける。
弓を下ろす瞬間、あるいは鍵盤から指が離れる瞬間に、この小さな研究室を支配する静寂がとんでもなく恐ろしい。
それこそいつか危惧したみたいに、床をのたうち回りたい衝動に駆られる。
とっとと寝てしまおうと思っても、困ったことに寝室が使い物にならない。
ため息発生措置と化したディナーの写真は片せばまだなんとかなったが、寝具に至っては如何ともし難いではないか。
誰かぼくに「早急にクリーニングに出してクローゼットの奥にでもしまってしまえ」と命じてくれ。
「さもないと寝室のコレクションを全部燃やして灰にしてやる」と。
「せめてチケットが手に入ればな……」
ぼくは次に弾く曲の楽譜を物色しながら独り言ちた。
あのイヤリングを握り締めてホールまで行けば何かが起きるかもしれない、そんな未練がましいことを考えてフライトとホテルだけは押さえているが、とんぼ返りになる覚悟はしておくべきだろう。
白状するが、正直ぼくは期待していた。
講師演奏会を乗り切った暁には、さすがにアンリの方からチケットを話題にしてくれるのではないかと。
やはりこの頃のぼくは高慢だったようだ。
はあ、と大きなため息を吐いたぼくの人差し指が、ふと、『Liebesträume』の文字に触れたところで止まる。
『愛の夢』はアンリを怒らせてしまったあの日から一度も弾いていない。
怒った理由は謎のまま。弾いたのはかなり久しぶりだったし、もしや暗譜が間違っていた?
うーん、そんなはずはないんだけどな――と眉間に皺を寄せ、楽譜を広げてみる。
ぺらぺらと目当ての第三番を探していると、一枚の紙きれがすとっと床に落ちていった。
なんだろう――何気なく拾い上げた長方形のさらさらした紙きれを、瞬きしたり、目を近づけたり遠ざけたりして何度も見返した。
夜の雪原に佇むピアノ。ゴールドで箔押しされたたくさんの星屑とフランス語の筆記体。
ああ、間違いない。
これは、喉から手が出るほど欲しかったチケットだ!
正真正銘、アンリ・ルノワールの、今年のクリスマスリサイタルのチケットだ……!!
頭が理解するや息を呑み、手にしていた楽譜を思わず床に落とした。
片方の手でチケットの端を掴み、もう片方の手で口元を押さえる。
いったい、いつから――
いや、それよりも考えるべくは『愛の夢』である理由だ。
真っ白になっていたぼくの頭の中で、斎藤さんのこととか、アンリのお母さんのこととか、とにかくいろんなことが次から次に繋がってゆき、ひとつの仮説が浮かび上がる。
「確かめないと……」
ぼくはピアノに駆け寄ってスマホを取り、震える指でメッセージを打ち込んだ。




