ピアノ協奏曲ト長調②
「もう、逃げなくてよくなったんだね」
アンリにそう訊ねたのは、楽屋で彼のシャツのボタンを留めていたときだ。
彼は立ったまま、鍵盤に指を添えて答えた。
――ああ。新しい理由が見つかったからな。
「どんな理由か、訊いてもいい?」
一番下のボタンを留め終え、綺麗な顔を覗き込むと、彼はふっと目を細め、ひそかに笑った。
――俺が弾くと、お前が喜ぶ。
要は、理由なんてそんなので十分だったという話なのだろう。
オチとしてはやや釈然としない。
そんなことで?と思う反面、自分が生み出した音がある人の耳に届き、その心に響く。
それが演奏家にとってどれほどのことか、ぼくは痛いほどよく知っている。
何にしたってアンリ・ルノワールは白汎音の推しである。
「よし」のひとつで十分満たされてしまうのに、ぼくが喜ぶからピアノを弾く?
アンリはぼくを殺す気なのか? 溢れた分をどこにどう詰め込めというのだ。
クラシック音楽の表現において最も重視すべきは作曲者の意図した音、その連なりとリズム、ハーモニーを、楽器や声、あるいは指揮を介して音楽にすることであり、奏者の個人的な思想を伝えることでは決してない。
しかし今だけは、ここにある収めきれない喜びだけは、ぼくからアンリへの想いにして、この音に乗せたいと思う。
純度九九パーセントの感謝の気持ちが、きみの耳に届いて、どうか心まで響きますように。
そこに隙間があるのなら、奥まで満たして、癒してくれますように。
そしてどうか、どうか忘れないでいてほしい。
例えこの演奏が個と個が交差する最後の機会であったとしても、きみの音はいつまでもぼくの心に響き続けるし、ぼくはきみのために音を鳴らし続けている。
海の向こう、遠く離れた場所にいても、何も変わらないということを。
ありがとう、アンリ。
憧れのピアニスト、アンリ・ルノワール。
ぼくのいちばんの推し――
第三楽章は水泳の飛込のようにあっという間だ。
ひとたび飛び板を蹴って宙に飛び出したら、水面までノンストップに真っ逆さま。
気づけば深いところまで潜り込み、ばっと水面から顔を出してみれば、拍手の雨に晒されている。
そう、ホールを震撼させるほどの大拍手である。
とても不思議だ。
こんなにもたくさんの人の目が向けられているのに、ちっとも怖くないどころか、気持ちが昂って仕方がない。
からだ全部が熱くって、心臓で沸騰した血潮が毛細血管の隅々まで迸っているみたいだ。
アンリといっしょにステージの前の方に歩み出る。
都さん、エリーズ嬢、中道くん、桜先生、なるちゃん、ぼくの人生の一部になってくれた全観客の皆々様方に、精一杯、感謝の気持ちを込めて深くお辞儀をする。
頭を上げ、感極まって右を向けば、ついため息をついてしまうほど美しいアンリの立ち居姿がこちらを向いている。
今際に聖母マリアと対面したキリスト教徒のような心地で涙が込み上げてくるのを察知したぼくは、今すぐここで跪きたいと思った。
堪えるぼくに寄ってきた彼は、労うようにぼくの腰の辺りをぽんと叩いた。
ぼくは照れ隠しの笑みを浮かべる。最後にもう一度いっしょにお辞儀をして、盛大な拍手に見送られながら舞台袖に捌けてゆく。
世間では誰も彼の笑顔を見たことがないというが、今の彼の表情は観客席からどう見えているのだろう。とびきりの笑顔とは言えずとも、穏やかに微笑んでいるように見えたのはぼくの錯覚なのだろうか。
そんなことを考えながら舞台袖に足を踏み入れると、少し前を歩いていたアンリがぴたりと足を止め、さっと振り返った。
そして右手を差し出してきたので、ぼくも右手を持ち上げた。
今、このポーズですることといえばひとつだけだ。
しかしアンリはぼくの右手を無視して左手を取り、掬い上げた。
な……なんだこれ。
「アンリ?」
さっきまでの晴れやかな様子とは打って変わって、ぼくの手を握るアンリは切羽詰まったような顔をしていた。
右手を宙に漂わせながら戸惑っていると、彼はぼくの左手をしっかりと握り込んだまま、すたすたと足早に進み始めた。
ぼくに振り払えるわけはなく、いつかのようにあれよあれよと引っ張られていく。
周りの訝しむ目が非常に居た堪れない。
連行されてきたのはぼくたちの楽屋だ。
わざわざ引っ張ってこなくても、ここを通らずには着替えもできないというのに、いったい何を急いでいるのだろう。
それに、中に入ってからわざわざ鍵をかけ直す必要ってなんだ?
聞かれたくない話でもあるとか? ぽくたちには音話があるのに?
混乱を極めながらも、楽屋の何に用があるかははっきりしている。
案の定、彼は一目散にピアノに向かい、鍵盤の前で足を止めた。
いったい何をいわれるのだろう。どきどきする。
駄目出しだったらもう少し後にしてほしいなあ、なんて考えていたら、振り向きざまに掴まれていた手を勢いよく引っ張られた。
ぼくは思わず「うわっ」と声をあげてたたらを踏み、はからずも彼の胸に突進する形になってしまった。
まずい、何がどうまずいのかは言葉にし難いけれど、そう思ったときにはもう彼の腕の中だ。
なんだなんだ。ここにきて言葉でなく行動で示すのか?
だったら別に、ぼくがどうなっていたか定かでないにしろ、ステージの上でだって構わなかったろうに。
なんにしたって念願のハグだ。
そう、ぼくは彼にハグしたかった。
そういう気持ちであの第二楽章を弾いた。
そしてここは大人らしくぽんぽんと背を叩き、自然に距離をとるべき盤面だ。
なのにぼくは、文字通り固まってしまって動けないでいる。
息すらままならない有様で、立てているのが奇跡に思えるくらいだ。
アンリはぼくを抱えた体勢のままぼくをぐいぐいと鍵盤の方へ押しやった。
背後でちゃらちゃらと不協和音がなる。
いつの間に蓋を開けたのやら、前後不覚で押しやられたぼくが手と太ももの裏で鍵盤を押してしまったようだ。
慌てて鍵盤から離した手でアンリの二の腕を掴み、これ以上鍵盤を踏みつけてしまわないようつま先にぐっと力を入れて押し返す。
ピアノとアンリに挟まれた身体が心と同じようにぐらぐらしている。
音が止んでも離される気配はない。
右腕だけが離れていったと思ったら、ピアノがなった。
――よし。
優しさと衝動が入り混じったような音色で、よし、よし、と連呼する。
今の演奏を褒めてくれているんだ。
例えようのない喜びが胸に湧き上がると同時に、この男は、キスの最中もこうやって愛を囁くのだろうか、などと突拍子もないことを考えてしまった。
シとレ。その二和音はぼくの頭の中で「あ」に変わり、アンリの右手が低音に向かって滑ってゆく。
見えるわけがない背中側の出来事でも分かってしまう距離感が苦しい。
そしてラレ、ラ♯レ、ファファ、シファ♯。
ああ、じょ、情緒が……ぼっ、ぼくの……ぼくの情緒が――!
そう、だった……。
音話にはまだぼくの知らない語彙があった。
アンリの奏でる温かい旋律が心に染み入る。
そうか、これが――
「お礼を言わないといけないのは、ぼくの方なのに」声が、心が震えた。
――本当は、あのときも伝えたかった。
「あのとき……?」
――二年前だ。あのときの俺には、伝える手段がなかった。
二年前といったらあれしかない。
ぼくがアンリのピアノに出逢って、日本に帰国することを決めた、ベルギーでのコンクール。
「聴いてたの?」
――お前はどれだけ鈍感なんだ。
――デュオの曲なんていくらでもあるのに、あえて協奏曲を選ぶ理由が他にあるか?
ぼくは彼をぎゅっと抱きすくめたい気持ちを必死に堪えて返した。
「ぼくもあの日、勇気を出して伝えに行けばよかった。
きみのリストの二番、本当に最高だったって!
死んでも……ううん、生まれ変わっても忘れられない演奏だったって!」
アンリの左腕の力が強くなる。
「きみが会いに来てくれなかったら、伝えられないままだった。
本当にありがとう、アンリ」
――礼はもう十分だ。さっきの第二楽章で嫌というほど聞かされた。
「そうだけど、でも、これだけは言わせてほしい」
――ああ。
「今日までいっしょに話せて、本当に幸せだった。
きみのピアノは、近くで聴いてもやっぱり最高だった」
――ああ。
「もう、死んでもいい」
――アホ。
「そのくらいぼくは、きみを推してるってこと」
ぼくは断言する。
「今までも、この先もずっと。理性とか考え方でどうこうできる話じゃないんだよ」
ところであれだ。この推しときたら、いつまでぼくをぐらぐらさせているつもりなのか。
いい加減にせよと今度は思い切って押し返し、ついでに推しとは何たるかを力説してやる。
やれやれと困ったように眉を下げる推し。
いいさ、もとよりアンリに理解できるとは思っていない。
それに、オタクは引かれてなんぼなところがある。
そこにノックが鳴る。
アンリは扉を見やり、迎えだと告げた。
出番の前に会っていた知人……というか、例のマネージャーなのだろう。
兄弟喧嘩がどういった形で収束したのかはもちろん知らされていないが、クリスマスリサイタルは来週まで迫っている。仕事は仕事といったんは割り切ったのかもしれない。
「最後に……訊いてもいいかな?」
アンリは親指を立てる。
こくりと頷いたぼくは、斎藤さんのことでも、彼がぼくの前に現れた理由でもなく、何度もはぐらかされている重大な謎について問いかけた。
初めてぼくの寝室に足を踏み入れた彼が見せた、あの衝撃的な笑顔のわけを。
アンリはまたかと言いたそうに鼻で笑って、トレードマークのイヤリングを外した。
いつもみたいにぼくに押し付けていう。
――ステージの上まで返しに来い。
――そこでなら教えてやってもいい。




