鐘
エリーズ嬢は階段でフロアを一つ上がったところにあった扉の前で足を止め、邪魔になるからとぼくの腕に引っ掛かっているコートとマフラーを引き取ってくれた。
「この先はパブリックスペースよ。扉を出たらすぐ目の前にホールに入れる扉があるから――いい? 何があっても必ずその扉から入って」
「分かりました。でも――」
でも、マネージャーの息のかかったドアマンが扉を塞いでいたら詰みではないか――と訊ねる時間はなかった。
階段の下から間隔の狭い二人分の足音。
まさか……手すりから階下を覗き込むと、スーツ姿の男二人が見えた。
あれは間違いなく性悪マネージャーと角を外した元トナカイだ。
「行って!!」
エリーズ嬢が扉を勢いよく開く。
ぼくは素早く彼女を抱き寄せて、耳元に最上級のメルシーを呟いてから目の前に現れたホワイエへ駆け出した。
一瞬だけ振り返ると、一拍遅れて飛び出したエリーズ嬢が閉めた扉のレバーにしがみついていた。
彼女の言った通り、観客席に通じる扉はすぐ目の前にあった。
しかしゴール手前には両手両足を広げたキーパーならぬドアマンが待ち構えている。ボールはぼく。
仮にドアマンと追っ手が無関係だとしても、開演後、観客席に出入りするには拍手まで待つのがマナーだ。
しかし今のぼくは一刻を争っている。
追いつかれたら最後、あのぶっ飛んだマネージャーなら、羽交い締めにしてでもぼくをこの先に行かせないだろう。
「お願いします! どうかここを通して下さい」
ぼくはドアマンの目をじっと見つめて言った。
その視線にどれほどの切実を込めようが彼はプライドをかけてゴールを守り抜こうとしている。
あるいはどこぞの司令塔が彼の左耳のインカムに「絶対に死守しろ」とでも囁いているのかもしれない。
背後から半狂乱なエリーズ嬢の怒号が聞こえる。
ああ、ここまでか――と悟ってから、ものすごく短い間にまあまあいろんなことを考えた。
チケットを譲ってくれた麗子さん、ここまで連れてきてくれたエリーズ嬢、彼女たちになんと言って頭を下げよう。
アンリは本当にぼくを待っているだろうか。
イヤリングをステージまで返しに来いっていっていたけど、もしあれが本気だったら……って、いやいや、客席にすらたどり着けないぼくがどうやったらステージまで会いにいけるっていうのさ。
ああでも……アンリがピアノを弾く理由はぼくが喜ぶからだった――!
ジャケットの上からイヤリングを握りしめたぼくの胸裏に荘厳な鐘の音が届く。
神聖な夜に相応しい、ただ、静かに祈りたくなるような鐘の音だ。
幻聴――? いや、違う。目の前の扉が開こうとしている。
音に気づいたドアマンが振り向く。
重い扉は予想外の勢いで内側から手前に向かって開き、振り向きざまのドアマンを襲撃した。
どうやらまた奇跡が起きたようだった。
リュック・ルノワールが「行かせるな!」と唸る。
ぼくは体勢を整えようとしているドアマンを躱して暗い前室に飛び込んだ。
無我夢中で分厚い扉の四角い取っ手を掴んで引きよせ、しっかり閉じきったら二人がかりで扉を封じる。
もちろん鍵なんか無いので力尽くだ。
といってもここまで来てしまえば向こうだって強引に扉を突破しようなどとは考えない。
この静粛とはいえない状態で、仮にも内と外の扉が同時に開こうものなら目も当てられない一大事だからだ。
「都さん……っ!」
ぼくは扉を押さえながら精一杯声を潜めて言った。
「どうしてここに?!」
訊いておいてなんだが、少し考えれば分かることだ。
エリーズ嬢がこの扉から入るようわざわざ念を押したのは、ぼくが伝えた席にいちばん近い扉であるという理由だけではなかった。いざとなれば前室の内側から扉を開けられるよう都さんが待機しているのを知っていたのだ。
張り付いた分厚い外扉の向こうからは「開けられるもんなら開けてみなさい!」と騒いでいるエリーズ嬢の声が朧げに聞こえる。
取っ手を掴む都さんは、反対の取っ手を掴んでいるぼくの方を見て感じ入るように囁いた。
「アンリさんは、本当にすごいです……ただ圧倒されるだけじゃなくて、なんだか、生きるのが楽になるような音でした」
そう、彼女はぼくと違って、客席でアンリの音を浴びてきたのだ。
ぼくは深く頷く。
「わたしもいつか、だれかの推しになれるでしょうか。アンリさんや、先生みたいに」
「あなたはとっくに、ぼくの推しですよ、都さん」
気づけばそう口にしていた。
ひたむきな彼女の姿に、その優しい音色に、どれほど励まされてきたことか。
彼女の大きな瞳が、暗がりで星のように輝く。
「だったら、いちばんを目指します。
わたしが音楽を続ける理由は、先生の最推しになることです」
小さな声でまっすぐにそう告げた都さんは、反応に窮するぼくからもう片方の取っ手を奪いながら続けた。
「行ってください、先生。この鐘の音が、鳴り止んでしまう前に」
外扉から内扉までの三メートルは、間違いなくこれまでの人生でいちばん長い三メートルだった。
日本を発ってからここにたどり着くまでの全てのエネルギーを押し殺して、はやる気を静めて、僅かな音も立てないよう慎重に、そして素早く、重い内扉を押して頭が通れるだけの隙間を作る。
とたんになだれ込んでくる生音の圧に全身が震え、窒息しそうになる。
それでもぼくは、やっと……やっと手が届いた憧れの場所に通じる隙間へ、手、足、頭とタコのように全身を滑り込ませる。
内扉を完全に閉ざすまでは決して気を抜いたりしない。
それほど期した慎重が無駄だったとまではいわないが、多少雑に侵入していたとしても、誰にも、扉に最も近い席の客にすら気づかれなかっただろう。
その空間に存在する誰もが、小さくなっていく鐘の音に魂を牛耳られている。
ぼくの肌をぴりりと撫でつけたのはそういう空気だった。
やがて音が完全に消えても、まるでぴたりと時が静止したかのような、呼吸さえ重罪に思われるような張り詰めた静寂がしばらく続いた。
ぽつぽつと疎らかつ控えめから始まった拍手はやがて大喝采へと昇華する。
ラフマニノフ『前奏曲 嬰ハ短調』の演奏時間はだいたい三分半から四分。
とても信じられないが、ぼくがエリーズ嬢と合流してから経過した時間とイコールということになる。
扉の前に立ち尽くしていたぼくは、はっとして眼下に広がる観客席を見下ろした。
アシンメトリーに流線を描くテラス席の張り出し方が独特で、客席全体の雰囲気を例えるなら、夜のサンゴ礁といったところだろうか。
ステージはその真ん中、いちばん深いところにある。
そうだ、席、拍手が鳴っているうちに着いてしまわないと。
照明が落とされた暗い中でもぼくの席はひと目で分かった。
見渡す限り空席はそのひとつだけだった。
長い拍手の泡沫がはじける海中の急勾配を急いで潜り、腰を低くし、日本人らしくへこへこと頭を下げながら、再び静寂が訪れるより先にぼくの席までたどり着く。
ほっと息をつき、ようやく落ち着いて海面から差す月光の下を見下ろせば、その近さに驚嘆し、息をのんだ。
ステージだけが存在する別の次元に一人迷い込んだかのような没入感。
そこにアンリがいる。クラシック界の若きスーパースター、アンリ・ルノワールが。
三六〇度、四度を数えるお辞儀を終えた彼は、椅子に腰を落とした直後にちらりと視線を上げた。
いっ、今、推しと目があった?
強いて文字に起こすなら「きゃあ!」だろうか?
言葉ではない何かを叫び出しそうになる口を両手で押さえ、胸から溢れた空気をふうと鼻から逃がしていると、推しはふっと目元を緩めた。
この瞬間こそ、ピアノリサイタルで上手側一階のテラス席が特等席とされる所以だ。
残念ながら肝心の手元は見えないのだが、美しい音楽、美しい光景に心を傾けながら、そこに浮かぶそのときだけの貴重な表情をずっと見つめていられる。
このように、ぼくの興奮は収まることを知らない。
だがしかし、ちょっとまて。
彼の音楽はまだ始まってすらいないのだ。
果たしてぼくは、この観客席から生還することができるのだろうか――?




