クロイツェル・ソナタ②
都さんの最大の課題ともいうべき曲の出だしは上々だった。
いや、上々どころではない、四本全ての弦を擦って鳴らす和音の音程、バランス、音の伸び、何をとっても申し分ない。
続く重音はどれも美しく、ぼくの知っている彼女では出し得ない音が、この本番では頭から鳴っている。
ぼくは大きく見開いた目で彼女の表情を見つめた。
やはり気のせいではなかった。さきほど言葉を交わしたときにはもう、出来上がっていたのだ。
彼女が良い音を出すときの、良い顔が。
いったいここで何が始まろうとしているのか、ピアノはまだ一音も鳴ってないのに、場を渦巻く空気がぼくを震わせる。
束の間の無音、消えたヴァイオリンを望むように、遠くでピアノが鳴る。
遠く、そう、ピアノは確かにそこにあるのに、雲の上で鳴っているみたいに遠くに聞こえる。
それも、途方もないエネルギーを仄めかし、ぼくの震えは収まるどころかさらに大きくなる。
『クロイツェル・ソナタ』は通称だが、第九番には『ほとんど協奏曲のように、極めて協奏的に演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノソナタ』というベートーヴェン自身が付けた題が存在する。
要するに、ヴァイオリンとピアノが対等に扱われるべき曲であることを作曲者が強く念押ししているのである。
そしてそれは、ヴァイオリニストのエリーズ嬢とピアニストのアンリが同じ土俵で競うための、絶対に外せない曲の性格でもあった。
遠くで鳴っていたピアノはいつの間にかすぐ近くまで躙り寄っていた。
サバンナを蹂躙する肉食獣のような威圧感。相対するのがぼくなら縮み上がってしまいそうだが、信じられないことに都さんの肝はしっかりと据わっている。
音は譲らないという確固たる意思を伝えている。
ベートーヴェンは〝極めて協奏的に〟と指示したが、これはどちらかというと競争ではないだろうか。
二人の音は終始互いを牽制し合っているようで、ここが誰と誰の戦場だったか忘れてしまいそうになる。
尖った曲想はプレストに入ってからより顕著になった。
どちらがより聴衆の耳を惹きつけるか、心を物にできるか、互いのことなどまるで見ていない。
互いだけを意識しあい、他には目もくれなかったぼくたちの演奏とはまるで逆。
しかしながらデュオに綻びはなく、それぞれが奏でるクロイツェルはひとつの曲として完璧なまでに纏まっている。
ピアノとヴァイオリンが寸分違わず同じ一点を見つめているからに違いない。
ああそうか、二人が虜にしようとしているのはネットの海の向こうにいる観客ではなく、彼らの見つめる先にある一点、その何かなのだ。
そう確信すると、とたんにぼくの心臓は強く、速く脈打ち始めた。
沸き立った血が頭からつま先を駆け巡り、序奏が感じさせた得体の知れない恐怖を別の感情に塗り替えてゆく。
わかっている。今のぼくは、とんでもなく自惚れている。
しかしだ、このどきどきを味わっているのは、きっとぼくだけではないはずなのだ。
ぼくの心をより掴むのはどっちだ?
どちらか一方を選べと言われたら、どちらを選ぶべきだろうか?
妄想といっしょに胸が膨らむ。心臓が縮む。息を吸うだけで肺が張り裂けてしまいそうだった。
隣でいっしょに聴いていたエリーズ嬢が勢いよく立ち上がった。
第一楽章が終わったのだ。
妄想の世界に旅立っていたぼくは、床を蹴って都さんに駆け寄る彼女をぼんやりと視線で追うのが精一杯だった。
「ルツ……っ!」
エリーズ嬢が呼ぶと、都さんは上下する肩からヴァイオリンを下ろしながら顔を向ける。
そこに容赦なく飛びかかるエリーズ嬢。
為す術のない都さんはヴァイオリンと弓を持ったままの手を中途半端にバンザイし、彼女の懐にすっぽりと収まった。
呆気に取られる都さんも、ややあってからエリーズ嬢の背中に手を回し、やりきったという実感をじんわりと得ているようだった。
ぼくは――ぼくも、今すぐ都さんをこの腕に抱きすくめて褒め称えたい気持ちで拍手を送りながら、彼女の未来に思いを馳せている。
エリーズ嬢は都さんと顔を見合わせながら興奮気味に言った。
「ルツ! マプレフェ!」
都さんはぱちくりと目を瞬かせた。
面白いのは、もし彼女にフランス語の能があっても同じ顔をしていただろうということだ。
そんなことはお構いなしのエリーズ嬢は矢継ぎ早に言葉を尽くす。
「ワタシ、ルツのヴァイオリンが好き! ルツとコンクールで戦いたい! ライバルになってほしい! それから、それから――」
ラップトップの前に立ってコメント欄を覗いてみると、エリーズ嬢と同じ意見が多く寄せられていた。
「ルノワールとカップルを組んで食らいつける技量があるのに国際コンクールを目指さないのはもったいなすぎる!」
「彼女が世界で活躍する姿を見てみたい!」
「彼女のヴァイオリンをぜひコンサートホールで聴いてみたい!」
「推せる」
もちろん、アンリを称える声だって数え切れないほど流れている。
「彼らしくない演奏」といった意見については鋭いと思ったが、彼が相変わらず素晴らしい演奏をした事実は変わらない。
されども、観客にいちばん大きな衝撃を齎したのは、アンリでもエリーズ嬢でも、無論ぼくでもなく、都るつという無名のヴァイオリニストであったことも、紛れもない現実なのだった。
ぼくは鍵盤の前に座ったまま、つまらなそうにゴディヴァの棚を見つめているアンリのそばに寄り、彼にだけ聞こえるように言った。
「まったく、たったの三日で都さんをこんなにしちゃうなんて、講師の面目が丸潰れだよ」
半分は言葉通りの妬みだが、もう半分は感服のつもりだった。
アンリはふっと小さく笑い、鍵盤に指を添える。
回しっぱなしの配信に配慮してか、鍵盤を僅かに沈ませただけで音は鳴らさなかった。
――彼女の音、変えた、汎音。
「ぼく?」
――イエス。理由、見つけた。
「……そっか、昨日ぼくが話したこと、ちゃんと役に立ったんだね」
ぼくは引き続きエリーズ嬢に絡まれている都さんを見つめて言った。
「そういうことならやっぱり、彼女の音を変えたのはぼくじゃない。彼女の推しだよ」
アンリはシシ、ソドに疑問符をつける。
「そう。知ってる? 推しはね、いるだけで世界を救ってくれるんだ」
ぼくが断言すると、アンリは言い淀むように鍵盤を五本の指の腹で擦った。
初めて見る仕種だ。なんだろうと首を傾げたぼくに、ため息交じりのイエス、そしてイエスと間隔を開けた二回のイエス。
やはり音が鳴らないとニュアンスが分かり難い。
――理由、自信。
と彼はいった。
都さんの音楽に欠けていたものが揃ったといいたいのだろう。
「……そうだね」ぼくは嬉しさと寂しさをないまぜにした笑顔で頷く。
都さんが目指すべきコンクールや演奏会の舞台では、今日のようなライブ配信とは次元の違うプレッシャーが彼女を苛むことだろう。
それでも、カメラの前でアンリ・ルノワールとの共演をやりきったことは、大きな自信として彼女の経験に蓄えられたに違いない。
いつの日か、彼女はあがり症を完全に克服し、小さな研究室ではなく、たくさんの観客に埋め尽くされた大舞台で見事な演奏を披露する。
ぼくは今日、そう確信した。
――ところで、汎音。
「うん?」
振り返ったアンリは斜め後ろに立つぼくをじっと見て、手元は少しも見ずに訊ねた。
――俺、勝った? 負けた?
今度はエアではなく、音が鳴った。
見つめられたぼくが彼の瞳に釘付けになってしまうことを、彼は知っていたのかもしれない。
配信はいつの間にか終わっていたようで、その音がネットの海に流されることはなかった。
しかし、なんだろう、この違和感。
エリーズ嬢ですら二の次にしている勝敗の結果を、アンリがこうも気にするなんて。
聞き間違い? 翻訳ミス?
ぼくは困惑しながら答える。
「結果なら、ちょうど今投票中じゃ――」
――違う。汎音、決める。
「えっ? ああ、彼女って、もしかして――」
――汎音、頭、彼女、いっぱい。
「あ……あっははっ、ふふっ」
師匠いわく、ぼくはなんでも笑顔で解決しようとする癖があるらしい。
アンリと言葉を交わし始めてからは、心から笑っていることが増えた気がする。
彼がときおりこうして、綺麗で大人びたその顔にとても似つかないことを言いだすからだ。
バカ素直に告げてしまって大丈夫だろうか。
なんだか今さらながらに照れくささを感じつつ、指をゆっくりと鍵盤に添える。
――あなたの、音、私の、いちばん。
潜めた音でいうぼくにアンリが見せたのはいつもの無表情だ。
けれどぼくはその無表情から徐々に色んな感情を読み取れるようになってきていた。
これは……まだ何か足りないという顔だ。
だから、遊び心も交えてペダルべた踏みのフェルマータで付け足してやったのだ。
――ずーーーーっと。




