魔法
怒涛の三連休が終わり、エリーズ嬢がパリに帰ってから一月が過ぎた。
件の兄妹対決の結果はアンリの勝ち。
それもかなりの差がついてしまったのだが――まあ、順当と言えるだろう。
奇妙だったのは、勝者であるはずのアンリだけが不満を露わにしていたことだ。
彼をとりなすのにぼくがどれほど骨を砕いたか。
リクエストを何品も、あるいは何曲も提供しなければならなかった。
それで、ぼくとアンリの日常といえば相変わらずのなあなあなのだが、以前のようにのんびり話す時間は随分と減ってしまった。
アンリのクリスマスリサイタル――ああ、なんと煌びやかで憂鬱な響きだろう。厚かましいと思われたくないぼくは、チケット争奪戦に敗れていることをいまだ主役に伝えられていない。クリスマスよ、いっそこないでくれ……! ――が来月に迫っていることに加えて、なんとこのぼくにも大きな仕事が舞い込んできたのだ。
だから――というともちろん言い訳でしかないのだが、アンリと斎藤さんの関わりについてはいまだ何一つ訊き出せていない。
エリーズ嬢の口振りからしても、マネージャーがアンリに近づく人物を金で遠ざけていることは間違いない。あのとき彼が口にしたあの女――その人こそ斎藤さんではないのか?
アンリにピアノや日本語を教えたのが彼女なのだとしたら、アンリがあの暗号を知っていることに説明がつく。
斎藤さんが関わっているかどうかはともかく、アンリが仕事やマネージャーのことに一切触れないのには剣呑な事情があるとみえる。
ぼくはただ恐れているのだ。
不用意に触れて彼の心の傷を広げてしまうことも、それをきっかけに、彼のモーツァルトをオーディオで流す毎朝が戻ってくることも。
そして今日もアンリは研究室でスクリャービン。ぼくは仕事だ。
具体的には、西鹿村内にある西岡桜教授の邸宅にお邪魔し、お預かりしているお弟子さん二方についての経過報告をさせていただくことになっている。
ソファで教授が現れるのを待つ間、ただの講師の研究室とは比べ物にならないほど広い研究室を改めて見渡す。
ここで催された室内楽のコンサートにお邪魔したことがあったが、軽く二、三〇人分の席が用意されていた。
広さのみならず趣も段違いで、ストラディヴァリやらグァルネリやら、ヴァイオリンからコントラバスまで、アンティークの弦楽器がスタインウェイのグランドピアノを取り囲むように何本もディスプレイされている。
ときどきピエール師匠とお邪魔していた英国貴族のサロンがまさにこんな感じだった。
ややあって、中道くんが丸一年言いなりだったという助教がテーブルに二人分のコーヒーを運んできてくれた。
ぼくより少し年上の彼はソファにかけるぼくを親の仇を見るような目で見下ろしたが、別室から教授が現れると慌てて色を正していた。
「いらっしゃい、白くん」
彼女は向かいのソファに腰を落とし、助教が退室するのを待ってから続けた。
「あの人にも困ったものです。まだ根に持っているなんて」
「ぼく、彼に何かしてしまったのでしょうか?
コネで講師になったことを軽蔑されているものとばかり……」
「それもあるでしょうけれど、最近ほら、色々ありましたでしょう」
確かに……近頃は何かと目立ってしまうイベントが目白押しだったことは否めない。
「その上、私が白くんを助教にしようとしていたことまで耳に入れてしまったみたいでね。どこでかは知りませんが」
「桜先生がぼくを……? それは初耳です」
「あらそう? 私がヴァンデンベルへに口を滑らせたのが間違いでした。
聞いたとたん激昂なさって、講師以上の肩書でないと採用させないとおっしゃったわけです。実に腹立たしい」
「それでぼくのような若輩が講師に……コネとは恐ろしいものですね。
彼が軽蔑なさるのも無理はありません」
「恐ろしいのはあの方の過保護の方でしょう」
彼女はカップを持ち上げて言った。
ぼくも慎重に口をつける。
……うっ、いつにもまして凄まじく冒涜的!
嫌がらせが確実にエスカレートしている。
ぼくがカップを置いたのをきっかけに、本題の報告会が始まった。
むろん、彼女の関心がより高いのは都さんについてである。
先日の勝負の経緯や感想を一通り話し、教授は最後にこう言った。
「それじゃあ来週からこちらの研究室に戻るよう、白君から都君に伝えてもらえる?」
「もちろんです」
とぼくは答えた。寂しいが、覚悟していたことだし、いつものことでもある。
「中道くんのことですが」
ぼくが話題を切り替えると、教授は残りのコーヒーにミルクを注ぎながら「そうそう」と頷いた。
「ついこの間、一人で練習しているところを偶然見かけて、少しだけどこっそり聴かせてもらったわ。
また見事に期待を裏切ってくれたようですね。
あれも白君と……アンリ・ルノワールの魔法なの?」
ぼくとアンリ……そんな風にいわれるととっても擽ったい。
なるほど確かに、都さんにしろ中道くんにしろ、関わったのがぼくかアンリのどちらか一方だけでは教授の言う魔法は発動し得なかっただろう。
「ぼくについてはなんとも申し上げられませんが……そうですね、彼のピアノを魔法のように思うことは多々あります」
「そう。私もぜひ、生で聴いてみたいものだわ」
「……」
毎日目の前で聴かせてもらっているぼくにははっとさせられる一言だ。
ぼくはなんともいい難い笑みで応える。
「そうそう、中道君といえば、ちょうどここで外の門下生と揉めたことがありましてね」
「揉めた……ですか?」
「ええ、ついこの間のことです。
私はあいにく居合わせなかったけれど、聞くところによると、先輩たちが噂していた内容がどうやら彼の気に障ったようね。
誰のどんな噂か、お聞きになります?」
「ええっと……」
何となく察しはするものの、確信が持てない。
まさか、あの中道くんが……?
教授は神妙な表情を浮かべるぼくを見てふっと笑う。
「彼の面子の為にも、今度の講師演奏会は絶対に成功させねばなりませんね?」




