クロイツェル・ソナタ①
せめて……せめて開かなければ良かったのだ。
結果が気になって仕方がないだけだったなら、曲さえ始まってしまえば頭の隅の方へ追いやれただろう。
「アノン? なに、どうかしたの?」
どうして中を見てしまったのか。
いや、どうしてもくそもない。ただの反射だ。
愚か極まりないぼくの指が、考える隙もなくタップしていたのだ。
クリスマスリサイタルの日、アンリはもう、ここにいない。
その先は髪に触れるどころか、暗がりから見つめることすら許されない。
「アノン!」
「えっ、あ、すいませ……」
手から落ちたスマホが太腿の上を滑ってペダルのすぐそばに着地する。
どうにかこうにか拾い上げ、サイドテーブルの上に置く。
何万人もの視聴者がカメラの向こうで曲が始まるのを待っている。
こんな、分かりきっていたことに気を取られている場合じゃない。
忘れろ。忘れろ忘れろ……!
顔を上げたとたん、険しい表情をしたエリーズ嬢にがしりと肩を掴まれた。
反対の手にはヴァイオリンと弓。
「まさか、カメラの向こうの観客に怖気づいてるなんて言わないわよね?」
図星に思われることは分かっていたが、ぼくは目を逸らすことしかできない。
よもや一通の事務的なメールが理由で取り乱したとは言えない。
「しっかりして、お願いだから」
と彼女は言った。
「アンタは嫌々付き合わされてるのかもしれないけど、ワタシにとってはたった一度のチャンスなの。
ワタシだってマルク・ルノワールとオレーナ・イヴァノブナの娘なんだってこと、みんなに知らしめてやらなきゃいけない。パパに――」
何か言いかけた口を噤み、呆然としているぼくの肩から手を離す。
「とにかく、台無しにしたら承知しない」
怒りか悲しみか、声を震わせるエリーズ嬢のエメラルドが潤むのを見て、今度こそぼくは呆けたままではいられなくなった。
椅子を避けながら立ち上がり、彼女の細い手首を掴んでぼくの胸まで引き寄せる。
「見ています。アンリでも、ご両親でもない。
今ぼくが見ているのは、間違いなくあなただ。マダム・エリーズ」
腕の中の彼女が、G線をやわく弾いたヴァイオリンのようにじわりと震える。
「ですからマダム、あなたもぼくを夢中にさせてください」
あえて挑発するように言う。
すると彼女は「クワ?」といつもの強気な表情を浮かべ、ぼくの腕を逃れて言った。
「そんなの、言われるまでもないわ。
ワタシのことしか考えられなくしてあげる」
スカートを翻してカメラの方を向き、ヴァイオリンを構える。
ぼくの鳴らすラに、彼女のラを重ねる。
視界の端にはほとんど無表情のアンリと愕然としている都さんがうっすら見えていたが、瞬きの間に消えていた。
今ぼくの瞳には、カメラに合図を送るエリーズ嬢、ただ一人しか映らない。
カメラが回る。
ベートーヴェン『ヴァイオリンソナタ第九番』通称『クロイツェル・ソナタ』序奏、アダージョ・ソステヌート。
悶え、足掻くように四本全ての弦を掻き鳴らすフォルテ、それから、今にも消え入ってしまいそうなか細いピアノ――ぼくは静かに目を瞠った。
曲想も、音の響き方も、この三日間で数え切れないほど聴いてきたどの演奏とも違う――!
夢中にさせようとしているのだ。
カメラの向こうにいる観客ではなく、このぼくを。
そう思うだけで心が震える。夢中になってしまう。
だって、エリーズ・ルノワールは、彼女のヴァイオリンは、こんなにも魅力的なのだ!
たった四小節とは思えない濃厚なヴァイオリン独奏に、ぼくは魂を乗せたフォルテで応える。
――ぼくを見て……!!
あ、あれ……?
ぼくが彼女を見ていると宣言したのに、これでは逆――
ああ、そうか……ぼくが抱きしめたかったのは、あのときのぼくだ。
どこにでもいる普通の親子みたいに、夢に向かって頑張っている姿を見て欲しい。
願っても叶わなかった、幼い日のぼく。
曲はプレストへ。
エリーズ嬢が鋭いダウンでぼくの心を引っ張る。わずかに出遅れたぼくは必死に食らいつく。
目を離しちゃだめだ。夢中に――いや、ぼくが彼女を夢中したい。見て欲しい!
そう思ってからはあっという間だった。
互いに相手を虜にしようと躍起になっているうちに、第一楽章は呆気なく終わってしまった。
舞い上がった両手を下ろしながら先のない譜面を見て呆然とする。
少しの静寂。
それから、ぱちぱちと興奮気味に手を打つ音。
都さんがたった一人で拍手してくれているのだと気付き、ぼくははっとして立ち上がった。
ヴァイオリンを下ろしたエリーズ嬢も、鏡に映したような表情をしている。
気を取りなおし、息を合わせてカメラに向かって深々とお辞儀をする。
頭を上げるや顔を見合わせ、どちらからともなく抱き合った。
段取り通り、都さんがラップトップを操作して配信をミュートにし、幕間に入る。
まだ少しぼんやりしているが、ラップトップに駆け寄るエリーズ嬢を視線で追う。
コメント欄に目を通す彼女が興奮気味に「ウイッ」と小さなガッツポーズを決めたので、ぼくもほっと胸をなで下ろした。
アンリはどんな反応をしているだろう。
視線をやろうとしたとき、後頭部にがつんと衝撃がきた。
「いて」
振り向いた先には相変わらずの無表情。
しかしいつものよりどことなく不満気だ。
「……駄目、だった?」
恐る恐る訊ねると、答える術のないアンリはふんと鼻を鳴らした。
それからジャケットのポケットに差し入れていた握りこぶしをすっと抜き、ぼくの前に差し出して、開く。
そこに乗っている宝飾品には見覚えがある。どころじゃない。
ありすぎる!
シルバーの輪っかに鍵盤と同じ割合で散らされた白と黒のダイヤ。
A2ポスターの彼の耳元にも輝いているあのトレードマークだ!
石だけでも相当な価値があるのは間違いないが、言うまでもなく一点もの、その貴さは誰にも量れない。
ぼくはぎょっとして感情の読めない彼の瞳を覗いた。
彼はゾッとするほど綺麗な瞳でぼくを怯ませ、プライスレスなイヤリングを無理やり押し付けてくる。
観念せざるを得ないぼくは「ちょ、ちょっと!」と彼を窘めつつも慎重に受け取った。
落として傷をつけてしまったとしても、首を括る覚悟ならできている。
アンリは婉然な手つきで横髪を耳に引っ掛けた。
ぼくはずきゅんと胸を撃った何かを笑顔でいなしつつ、カトレヤの花びらのような耳たぶにイヤリングを着けてやる。
反対側も。
ああ、大変だ。とうとうここにピアニスト・アンリ・ルノワールが完成してしまった。
いよいよ……いよいよ直視できない。
ぼくは呼吸を整えながら、ずっと気になっていた都さんへ逃げるように視線を移した。
しかし……ふむ、いつになく落ち着いた様子だ。
それもかなり集中しているように見受けられたので、話しかけるのも憚られる。
なんだかこっちが緊張してきたな……手に汗を握って見つめていると、ぼくの視線に気づいた都さんの方から寄ってきてくれた。
「先生」
「はい」
「先生がアドバイスしてくださった通り、推しが見ていると思ってやります」
「ええ、その意気です。ぼくもしっかり見ていますから、頑張ってください」
彼女の丸い頭にぽんと手のひらを置いて微笑む。深く頷く彼女の目に、何かが宿る。
それを見計らっていたかのようなタイミングでアンリがラの音を鳴らしたので、ぼくは待機用の高椅子まで下がった。
「準備はいい?」エリーズ嬢が都さんとアンリに視線を配り、二人は静かに頷きあう。
二人のクロイツェルが始まる。




