茶色の小瓶
都さんとのティータイムは図らずも良い気晴らしになったようで、試しに練習室へ戻ってリベンジしてみると、人目に耐えながらもどうにかエリーズ嬢のダッコーをもらうことができた。
やはりメンタルが演奏家のアウトプットに与える影響は絶大だ。
ましてや、たった一度の大失敗で人目が駄目になり、何年も自室に引きこもってしまうような小心者にはなおさらである。
今夜こそリハを早めに切り上げると誓っていたぼくは、三人を寮の二階に集め、念願のディナーを振る舞った。
アンリにはそろそろ出来立ての食事を食べて欲しかったし、都さんにはお礼をしたかったし、エリーズ嬢にはパリに帰ってしまう前に和食らしい和食を召し上がって欲しかった。
端から見ても兄妹の仲は冷めたものだったが、女子二人の仲は交流二日目とは思えないほど睦まじい。
エリーズ嬢は都さんを妹のように可愛がるだけでなく、ぼくやスマホアプリの翻訳を駆使しながら興味津々に推し語りをさせている。
「優しくて、大人で、キラキラしてて……」
うんうん。わかるわかる。
都さんがその推しのためにどんな演奏を聴かせてくれるのか、恐怖だと思っていた明日が少し楽しみになってきた。
片付けまで済ませたぼくは、女子二人を乗せてホテルに向かい向かった。
そして部屋を引き払ったエリーズ嬢の荷物を乗せ、都さんの寮まで送り届ける。
なんとも微笑ましいことに、今夜はパジャマパーティーが催されるとのことだ。
気分良く寮に戻ると、珍しくピアノ椅子が空いていた。
今のうちにと個人練習を始めて少し経った頃、譜面台に置いていたスマホがメッセージの受信を告げる。
送り主は――なんだ、オリヴィエか。
『オフショットを送ってきたら信じる』
『無茶を言うな』
のやり取りの後に『疑って悪かった。応援してる』と彼らしい手短な新着メッセージが追加されていた。
明日の勝負については観客を集めるための告知がSNSに投稿されているらしいのでそれのことを言っているのだと思うが、主役二人がそれぞれ誰と組むかまでは触れられていないはずだ。
いったい、彼はどうやって知ったのだろう。
少し頭を捻ってみると、エリーズ嬢が今晩のディナーの様子をSNSに投稿していたのを思い出した。
アンリは後ろの方にひっそりと映っているだけだったと思うが、どうやらぼくが保留にしていたオフショットがひとりでに彼の元へ届いていたらしい。
今も〝いいね〟が増え続けているその写真はぼくもかなり気に入っていて、落ち着いたら現像して寝室に飾ろうと思っている。
カツ丼相手に箸ではなく、ナイフとスプーンを握るルノワール兄妹の愛嬌が、なんかもう、堪らないのだ。
『merci.』を返した後は質問攻め。
アンリのプライベートに関わる部分はさすがに答えられないので適当にいなしていると、髪を湿らせたアンリが寝巻き姿で戻ってきた。
ゆったりと寄ってきた彼は、メッセージを打つぼくの右肘を左手の甲でやんわりと叩く。
ぼくはお尻をくいくいとずらしてピアノ椅子の左端へ寄り、アンリは空いた右のスペースにすとんと腰を落とす。
肩で肩を押し、伸ばした左腕をぼくの胸の前にすらりと横切らせて鍵盤に指を添える彼。
弾きづらそうな姿勢すらも愉しむように弾ませた低音は――『茶色の小瓶』ビールジョッキ片手に小躍りしたくなるようなジャズインストのスタンダード・ナンバーだ。
ぼくの胸襟がハンカチを絞ったようにきゅんと音を立てる。
浮かされている。
こうしてアンリは少しずつ、少しずつぼくの耳から身体の芯の方まで毒を注ぎ込み、ぼくを慣れさせようとするのだ。
この夢のような夜を、どこにでもある平凡な夜にしようとするのである。
ぼくはそっと立ち上がり、いつしか研究室に備えるようになったドライヤーのコンセントを繋げる。
彼の音楽を騒音で遮ってしまうのは非常にもったいないのだが、風邪を引かせてしまうよりはいい。
アンリの綺麗な黒髪を丁寧に乾かしながら考える。
この毒に慣れてしまったら、近くで彼の音を聴いても何も感じなくなるのだろうか。
いつしか致死量を超えて死ぬのだろうか。
ううん、間違いなくそれより先に、ここから彼がいなくなる。
マネージャーはぼくに手を引けと言ったが、たとえしがみついたって変わらない。
そして、夜が来るたびに禁断症状でのたうち回ることになるのだろう。
ドライヤーの電源を落とすと、振り向いたアンリがぼくを見上げた。
アンリはよく演奏中にぼくを見て、目くばせや、曲のアレンジで何かを伝えようとする。
ぼくはドライヤーを引き出しにしまい、空いたままのピアノ椅子の左側に位置を戻した。
アンリはフレーズが進むごとに音符の数を増やし、どんどん曲を賑やかす。
浮かされているのに浮かない、なんとも微妙な顔をしているであろうぼくを励ますように――いや、是正しようとするように。
ぼくはふっと笑みを浮かべ、ベースラインを引き受ける。
手が三本になって『茶色の小瓶』がいっそう賑わう。
これがぼくたちのいつもの夜会だ。華やかで、穏やかで、言葉はない。
翌日、つまり決選の日。
二組のデュオは朝からそれぞれ曲の仕上げに徹し、本番一時間前、決戦の場である研究室に集まった。
そこへ運び込まれたのはラップトップにカメラにマイク。
どれもエリーズ嬢がパリのお屋敷から取り寄せたもののようで、設置や調整をてきぱきとこなす彼女の手際を感心して眺めているうちに、ぼくにはてんで馴染みのない舞台が出来上がった。
彼女がぼくに「心配無用」と言えたのは、配信者ならではの算段をもっていたからだったのだ。
「この向こうに審査員の方々がいらっしゃるわけですね」
三脚に乗ったカメラのレンズを逆から覗き込みながら呟く。
「そうよ。審査員って言ってもただの視聴者。ほとんどがど素人でしょうけどね」
SNSの告知は昨日と今日で順当に拡散されたようで、待機している視聴者の数は目標にしていた五桁のラインを颯爽と通り過ぎた。
それがどれほどのことなのか、正直あまりぴんときてなかったりするのだが、ただでさえメディア露出が殆どないアンリ・ルノワールの姿をライブで拝める貴重な機会である。
世界中のファンがみすみす逃すとは思えない。
祝日の日本は午後五時に、平日のフランスでは午前一〇時になろうとしている。
合衆国ではほとんどの人が夢の中だ。よって様々な言語が入り乱れているコメント欄は概ね三分の一を日本語が占めていた。
内容は言語によって多少偏りがあるものの、目立つのは
「ルノワールに妹がいたのを初めて知った」
「妹の過去の動画を見たけど、さすがに上手いし、何せかわいい」
「すごく似てる」
「全く似てない」
「楽器が違う兄妹対決、奇妙だけど面白い」
「それぞれのパートナーが気になる」
といった声だ。
中には「兄の名声を利用してチャンネル登録者数稼ぎをしている」なんてわざわざ批判する声もあるようだが……エリーズ・ルノワールのチャンネル登録者数が増えると何か困ることがあるのだろうか……?
ピアノ椅子に座って定刻を待つ。
スマホをサイレントにした直後、消そうとした画面に新しい通知が現れた。
あと五分ほどあるしこれだけ見ておくか。
ぼくは軽い気持ちでメッセージを開いたが、英語のタイトルを見てすぐに後悔した。
『抽選結果のお知らせ』




