ドライブ①
普段のぼくは何時間ピアノを弾いても「疲れた」と感じることがない。
飲まず食わずのまま弾き続け、太陽を一周させたことがあるくらいだ。
しかし今日のリハは本当に疲れた。
前半はエリーズ嬢に罵倒され尽くし、窓の外の人気が減ってようやく調子が出てきたのが日没後。その頃にはエリーズ嬢の方がばてていた。
もちろん彼女は口にしないが、ヴァイオリンの響きが明確にそう伝えていたのだ。
ぼくたちが練習室を出たのは午後一〇時。アンリには昨日のうちに電子レンジの使い方を伝えておいたので、冷蔵庫の肉じゃがを召し上がってくれていることだろう。炊飯器のセットも抜かりない。
一方のぼくたちは残念ながらコンビニ飯だ。
もちろん悪い物ではないのだが、遠い異国からいらしたお客様に他に提供できるものが無いのは無念である。
「間に合って良かった! ショーツで見て気になってたのよね、日本のコンビニ!」
思いの外満足げなお嬢様は、コンビニ袋をぼくに預けて車の後部座席に乗り込んだ。
ぼくは扉を閉めてから運転席に回り、大小二つのコンビニ袋を助手席に置いて車を走らせる。
「何に間に合われたのですか?」
「クワ? 一〇時を過ぎたらコンビニしか開いてないって言ったのはアンタでしょ」
「確かに申し上げましたが……ああ、なるほど」
どうやら彼女は目の前のコンビニにも営業時間があると思ったらしい。
西鹿村は都心から遠く離れたど田舎だが、食生活を疎かにしがちな学生達の生命線であるコンビニは都会と同じ二四時間営業だ。
夜闇に包囲された四角い箱が真っ白な輝きを夜通し放ち続ける様には、どこか神聖さすら感じる。
「悪くなかったわ」
バックミラーの中で彼女が呟く。
「お一人で食べきれないくらい買っていらっしゃいましたね。
特にスイーツに目がなかったようですが」
「種類が多すぎるのよ。帰るまでに制覇できるかしら……じゃなくて、今日のリハのこと!
アンリのヤツ、ワタシの伴奏をヴァイオリンの講師にさせるっていうし、やってみたら案の定、全然ついてこないし……結局、いつもみたいにあしらわれたんだと思ったわ。
けど、気がついたらワタシの方が置いていかれそうになってた。アンタ、ホントはピアニストだったのね」
おっと。意表を突かれ、ハンドル操作が危うくなる。
「初めてだったのよ」
と彼女が言い、ぼくは運転席で首を傾げた。
「ワタシが先に音を上げたのがね、初めてだって言ってんの。
コンセルヴァトワールの子たちはちょっとやったら疲れた、休憩って、大して上手くもないのに全然なの。
骨のある子はみんな自分のコンクールの準備で忙しくて伴奏どころじゃないし、無理して合わせてくれようとする子もいるにはいるんだけどね。
それはそれで駄目。やればやるほどつまんないミスばっかで練習になんない」
「上達には休息も不可欠ですよ。日本では〝急がば回れ〟と言います」
「それ、アンタが言う?」
「ほ、ほら……ぼくはお嬢様やご友人よりずっと大人ですし、曲がりなりにも講師ですし……。
ええっと……大人にあるまじき諸々の失態については申し開きのしようがないのですが……」
困り顔を浮かべるぼくを、後部座席からひょっこり乗り出してきた彼女が覗き込む。
まじまじと観察したかと思うと、首を捻りながら後部座席へ引き返していった。
「アンタが大人? 精々ワタシの一つか二つ上ってとこよね。
アンリとは二つ違いだけど、ワタシ、アイツを大人だなんて認めてないから」
ぼくはふふと笑い、彼女に七つ上の二五歳であることを告げる。
彼女のリアクションは同じ「は?」でも得意の「クワ?」ではなく「パルドン?」日本にいても童顔だと言われるぼくなので、西洋人の彼女が耳を疑うのも無理はない。
「アンタ今、二五って言った?」
「ええ」
「子供が講師?とは思ってたけど……これとリュックがタメ……?
それはそれで信じられないわ」
「……?」
初めて耳にする名前に、ぼくは首を傾げる。
「アンリのマネージャーのリュックよ。
アンタ、アイツと話せるのにリュックを知らないの?」
「えっ……ええ、まあ……というより、話せると申し上げてしまったのが大袈裟だったかと。
ぼくはただ、彼の言葉をいくつか理解できるというだけなので」
「自信持っていいわよ。それだけでも十分異常だから。
アンタに会うまで想像もできなかったもの。
そうまで心を許してるのに、リュックの話をしたがないってことは……家出した原因がアイツとのいざこざだからかしらね?
なんならワタシが教えてあげてもいいわよ。
アンリを説得してくれたお礼ってことで」
「マダム」
むしろ聞いてくれといわんばかりの彼女を慌てて制止する。
「何よ。アンタもアイツのファンなら当然気になるでしょ。
それとも、恋愛遍歴の方がよかったかしら?」
「もちろん、気にならないと言うと嘘にはなりますが……お礼とおっしゃるなら、アンリではなく、あなたのことを伺っても?」
ここは強めの「クワ?」
デュオのパートナーに興味を持つのは至極当然であるはずだが、まるでぼくが唐突に血迷ったかのような反応だ。ぼくは続ける。
「なによりまず伺ってみたいのは、お兄様との勝負にこだわっておられる理由です」
「理由? そんなの、決まってるでしょ。
ワタシはヴァイオリン、アイツはピアノ。コンクールで戦えない」
「それはごもっともですね。では質問を変えさせてください。
あなたの目的は、本当に〝アンリ・ルノワールに勝つこと〟ですか?」
彼女はふっと鼻で笑う。
「無謀だって言いたいワケね」
ぼくは「ノン」の答えに被せてウィンカーを下げる。目的地はすぐそこだ。
「無謀だなんて、ぼくがお伝えするまでもなく理解なさっておいででしょう。
にもかかわらず、あなたは勝負を申し込むために遠い日本までお兄様を追ってこられた。
マダム、あなたは、勝負に勝つことよりもっと重要な目的をお持ちなのではないですか?」
後部座席からは何も返ってこなかった。
双方無言のまま、ホテルのロータリーに車をつける。
シートベルトを外してドアレバーに手をかけたとき、その先を制するかのように彼女はやっと言葉を返した。
「夢のためよ」
レバーから手を離し、控えめに後部座席を振り返る。
「それも、自分で呆れるくらい幼稚な夢なの。
だから話してもいいと思えるのはここまで」
彼女はそう言ってヴァイオリンケースを引っ掴み、さっさと車を降りて行ってしまった。
ぼくは慌てて彼女から預かった大きい方のコンビニ袋を掴み、小走りに後を追う。
「お忘れですよ。楽しみにされていたでしょう」
振り向いた彼女は差し出されたコンビニ袋ではなく、ぼくの手首をすっと掴んで少し引いた。
ここでフランスの女性にすることといえばひとつだ。
ぼくは前かがみになりながら右頬を彼女の右頬に寄せ、チュッと小さく口を鳴らす。角度を変えて反対も。
離れ際にコンビニ袋を受け取った彼女は言った。
「リュックには気を付けて」
これは……諦めだろうか。
どうにも複雑な感情を湛える瞳をじっと見つめるぼくに
「おやすみ、アノン」
と続ける。




