ドライブ②
ホテルのロビーに入っていくエリーズ嬢を見送り、車に戻ってスマホの画面をつける。
時刻は一〇時半。アンリは今頃どうしているだろう。
やや急いた気持ちでシートベルトを装着し、ヘッドライトを灯す。
とそのとき、後部座席のドアが開いた。エリーズ嬢がまたスマホでも置き忘れたのだろうか?
振り向いたぼくが見たのは――真っ黒なビジネスバッグと長い手足を後部座席に滑り込ませる見知らぬ男。あまりにも唐突な出来事に声も出ない。
「ボンソワール」
男はゆったりしたフランス語で続ける。
「先生のお住まいまでお願いします」
暗がりではっきりとは見えないが、西洋風の顔つきで、歳の頃はたぶんぼくと同じくらい。
髪は整髪料でびしっと整えられており、いかにも高級そうなスリーピースを見事なまでに着こなしている。
「先生? どちらの先生ですか?」
ぼくが訊ねると、見知らぬ男はにこやかに返した。
「CMVにお勤めの、白先生です。
もちろん無賃でとは言いませんよ。
お代を言って貰えれば、きっちりお支払いします」
「はあ……あいにくこちらは一般車でして、メーターは搭載されておりません。
タクシーを手配しますので、少々お待ちください」
助手席に置いていたスマホを手に取るぼくに「つれませんね」と彼は言う。
「大層なお人好しでいらっしゃると伺いましたが」
「……」
エリーズ嬢から授かったばかりの忠告を思い出す。
十中八九、初対面のぼくにあからさまな敵意を向けるこの男こそ、ぼくが気をつけるべきと彼女が判断したアンリのマネージャー、リュックなる男に違いない。
ぼくは負けじと皮肉を返す。
「ウイ。ですから、見ず知らずの不審者にわざわざ手助けを申し出ております。
日本語が分かった方が早いでしょう?」
「なるほど、それは失礼しました」
男はくつくつ笑い、配車アプリを操作するぼくの手からさっとスマホを取り上げた。
まさかの強硬手段である。
ぼくは静かに息を吐き、しぶしぶパーキングブレーキを解除する。
街灯のない静かな夜道を黙々と走っていると、彼は沈黙をつつくように言った。
「それで、おいくらですか?」
ぼくはハンドルを切りながら苦笑いを浮かべる。
「まだおっしゃいますか?
フランスにタクシードライバーを先生と呼ぶ風習があるとは存じ上げませんでした」
「あっはは、ありませんよ、そんな風習。日本じゃあるまいし、先生は先生です。
私が伺いたかったのはですね、いくらお支払いすれば、弟から手を引いていただけるかってことです」
「弟……ですか。失礼、てっきりマネージャーの方かと」
「おや、弟から聞いてらっしゃらない?」
男は心底愉快そうに、ぼくを煽るような口ぶりで続ける。
「これはこれは、申し遅れました。
私はリュック・ルノワールといいまして、アンリ・ルノワールの兄、兼、マネージャーです」
「……左様でしたか。
こちらこそ、アンリとマダム・エリーズのお兄様だとは知らず、ご無礼を。ぼくは――」
「自己紹介は結構です、白先生。
必要な情報は存じ上げておりますし、それ以外は興味ありません。
あと、貴方のような弁えのない凡人に弟を呼び捨てにされるのはとても不愉快です。慎んでくださいね」
ハンドルをきつく握って押し黙るぼくに、彼は一度聞き流された質問を再び浴びせる。
「で、いくらです?」
車体が前後に大きく揺れ、甲高いブレーキ音が山間に木霊する。
「危ないなあ」と文句を垂れる氏にぼくは言った。
「降りてください」
彼はふっと鼻で笑う。
運転席のシートに右手をかけ、身体を乗り出すようにしながら差し出された左手の指先が示したのは進行方向、フロントガラスの向こう側だ。
コンクリートで舗装された二車線の道路と、脇には古い民家や畑が見える。
「ノン」と彼は言った。
「見て欲しいのはもっと先です。ヘッドライトが引いている、明暗境界線の向こう」
「……ムッシュは目がよろしいのですね。ぼくには暗くて何も見えません」
「でしょうとも。貴方がいらっしゃるのはあちらです。
ではアンリがいるべきは?
――そう、貴方が思い浮かべた通りです。
私が言いたいことがお分かりでしたら、どうぞ車を走らせてください」
ぼくは「ああ、なるほど」と感心した。
彼は今この場所をステージと客席に擬えてぼくを諭しているのだ。
客席、つまり暗がりから見るステージはそれはもう鮮烈だが、逆の立場からは見え方も真逆である。
ぼくがアンリ・ルノワールにどれほど羨望の眼差しを注ごうと、彼の瞳にぼくが映されることは本来ならあり得なかった。生涯だ。
ぼくは取り澄ました気持ちでブレーキから足を離し、再びアクセルを踏む。
満足そうに笑みを深めた氏が後部座席へ引っ込んでゆく。
そのまま五分ほど経った頃「ところで先生」と彼は再び口を開いた。
「念のためお伺いしますが、今、どちらへ向かわれてます?」
「羽田です」
とぼくは答えた。
ダッシュボードに表示されている時刻を見やる。
「よかったですね、この分ですと深夜便に間に合いますよ」
「はあ……」
彼は苛立ちを吐き出すようなため息をつき、ルームミラー越しにぼくを睨んだ――気がした。
実際は暗くてよく見えない。
「お人好しの白先生ね。
非常に面倒なタイプでいらっしゃるようですが、困りましたねえ。日本人を甘くみてました」
苛立ちを滲ませながらそう述べた彼は、大きな舌打ちのあと「あの女のせいだ」と忌々しげにひとりごちた。
「日本の女性にお知り合いが?」
「知り合いだなんてとんでもない!」
彼は間髪入れずに否定する。
「彼女は貴方と大違いでした。お金と、ご自身の価値というのを正しく理解しておられた。
先生もぜひ、見習われては?」




