エリーズ①
お嬢様の言う名案とは、都さんのヴァイオリンの稽古を彼女が請け負い、その間にぼくがアンリを説得するというものだった。
「ソイツがワタシとの勝負から逃げないように、しっかり頼むわよ!」
とのことだが、ぼくは二人の関係すら知らないし、なにより彼女の腕が確かであるとはいえ、大事な生徒を見ず知らずの部外者に任せていいわけがない。
即刻拒否すべきであるはずのぼくは、しかしすんでのところで思い留まった。
ふと脳裏に、幻想ともいうべき光景が浮かんだのだ。
ひらひらと、黄金を振りまく銀杏の木々の下、それはそれは楽しげにヴァイオリンと弓を操る二人の少女の姿が。
アンリが意思表示にピアノを用いることを察していたお嬢様は
「音が鳴らせればどこだって構わないわ」
と息込み、右手にヴァイオリン、左手に都さんのという格好でこの寮を後にした。幸いにして天気は申し分ない。
そわそわしながら玄関先で二人を見送り、気まずい思いを引きずって研究室へと引き返す。
どう切り出す? いや、どう謝る?
恐る恐るドアを開いたぼくに、アンリがいった。
シミ、ドドー、ファファ。
それからほんの少し間を開けて「♪♫♪」と短い旋律が鳴らされる。
ぼくたちがこうして、いくつもの言葉の旋律と意味を共有してきた。
ぼくは確認も兼ねて続ける。
「妹……。それならそうと早く言ってくれればよかったのに」
そう、お嬢様の「は?」がぼくに抱かせた既視感の正体はこれだったのだ。
ピアノの前で不貞腐れている彼は、いったらぼくが絶対に追い返さないであろうと反論する。当たり前だ。
うら若き女性を追い払うだけでも難儀なのに、推しの身内と聞いてそう無下にできるはずがない。
「それにしたって、どうして〝勝負〟なんだろう?
わざわざパリから遠い日本まで家族を追いかけてきたんだよ?
何よりまず、〝早く帰ってこい〟って言いそうなものだけど……それに、そんなに勝負がしたったんなら、アンリが家を出る前に挑めばよかったはず……」
アンリが返したのは、ソシ、ファレ、ミソ♯、で――さ、て、な。
ときにこうしてダイレクトな発音で口調を示して貰えるのはとてもありがたい。
音話による彼の言葉を訳すヒントになるからだ。
本当に心当たりがないのか疑わしいところではあるが、アンリにはぐらかされるのは毎度のことだ。
ぼくはデスクに置いていたスマホを手に取り、チャットAIに〝エリーズ・ルノワールについて教えて〟と訊ねてみた。
ぼく自身驚愕を禁じ得ないのだが、推しの妹であるエリーズ嬢――と心の中で呼ばせてもらうことにする――について知っていることといえば、その存在と名前くらいなのだ。
AIが返したのは――フランス人ヴァイオリニスト、一八歳。
フランス国内のコンクールで得た実績は上々で、国際コンクールの入賞経験もある演奏系動画配信者――といったような概要だ。
チャンネル登録者数は一五万人。
これは多いのか、少ないのか。
チャットAIがいうには、多いとはいえないが、少なくはない、ということらしい。ふむ。
「いっそ勝負を受けてみるのはどう? 彼女、何が何でもって感じだったし、納得して帰ってもらうのがお互いのためだったりするかもしれないよ」
――面倒。
そういうアンリの無表情は、ただの面倒とは少し違った。思い上りかもしれないが、ぼくは彼の無表情をだんだん見分けられるようになってきたのだ。
ぼくは彼の頭を撫でたい衝動をこらえ、代わりに自分の手の甲を啜りながら言う。
「ごめんね。事情も知らないのに、勝手なことを言っちゃった。アンリの負担になるなら、無理に受けるべきじゃない」
てっきりここで会話を打ち切るだろうと思っていたアンリの指は、二つの旋律をぼくに返した。
――汎音、手伝う。
「手伝う? ぼくにできることならなんでもするけど……いったい、何を手伝えばいいの?」
――勝負する。デュオ、手伝う。
「デュオ……」
確かに、ヴァイオリニストのエリーズ嬢とピアニストのアンリが勝負するのに、条件が揃うデュオはうってつけだ。
しかしデュオを手伝うということは――「ぼくとアンリが組むってこと……?」
――汎音、ヴァイオリン、下手くそ。
「じゃ、じゃあ、エリーズさんの伴奏の方?」
――イエス。
「まともな勝負になるとは思えないけど……」
ぼくがそう言葉を濁すと、アンリはボキャブラリーを駆使して「自分が組む相手による」的なことを言った。
確かにその通りだ。
究極を言ってみれば、完全なる素人をアンリと組ませれば逆の意味で勝負にならなくなる――そうか!
ぼくははっとしてアンリを見た。彼はやはり無表情であったが、同じことを考えているであろうことは一目でわかった。
勝負の段取りはとんとん拍子に進んだ。
言い出しっぺのエリーズ嬢があれこれ請け負ってくれたのと、非常に急な提案であったにもかかわらず、都さんがアンリのパートナーを二つ返事で了承してくれたおかげだ。あの都さんが!
いくら筋金入りのあがり症であるとはいえ、稀代の天才ピアニスト、アンリ・ルノワールとデュオを組めるチャンスを棒に振る方が難しかったのだろう。
ぼくが彼女の立場だったなら――考えるより先に頷いて、後々頭を抱えていたに違いない。
エリーズ嬢は勝負の日取りをこの三連休の最終日、月曜の午後五時と定めた。
三日間みっちりリハーサルしてからの本番という段取りだが、残念ながら寮には研究室の一台しかピアノがない――といった事情で、エリーズ・ルノワール襲来から一夜明けた今日、ぼくはデュオの相方であるエリーズ嬢を村の宿泊施設まで迎えに上がり、キャンパスまでやってきた。
宿泊施設は主に非常勤講師やCMVが招待したお客様の利用を想定して構えられたビジネスホテルで、歩けないほどの距離ではないのだが、エリーズ嬢たっての希望で送迎は車だ。
そのためにわざわざCMVの業務用セダンをレンタルした。
問題は練習室の空き状況だが――よかった。
休講日であることが幸いし、CMVポータルの予約システムを見ると空きの方が目立っている。
予約システムに表示された番号をドアロックに入力し、デュオサイズと呼ばれる八畳ほどの練習室に入る。
中の設備は一台のアップライトピアノと長テーブル、あとは譜面台と、いたってシンプルだ。
本来ならCMVの学徒であるアンリと都さんの方が気兼ねなく利用できたのだが、逆にせざるを得なかったのは、どの練習室も外から中の様子が見学、あるいは監視できるよう壁の一部がガラス貼りになっているためだ。
こんな機密性も何もない場所に一般層にまでアイドル的人気を誇るアンリ・ルノワールが長時間居続けるとなると、休日なんて関係なしにパニックが巻き起こるであろうことは想像に容易い。
とはいっても、エリーズ嬢の華やかなオーラも十分すぎるほど目立っいる。
アンリがキャンパスをうろつくときのように色めき立った女の子たちの黄色い悲鳴が上がったり、黒山の人集りができたりするような事はないにしろ、ガラスの向こうでは常に誰かが中の様子を窺っている。
その中には配信者としての彼女の顔を知る学生もいるのかもしれない。
ああ、嫌な感じだ。
何がって、そのくらいのことで萎縮してしまっているぼく自身が。
ふうと息をつき、できるだけ外を見ないようにしながらラの音を鳴らす。
音が遠い。冷や汗もすごい。
「よし、じゃ、肩慣らしに一楽章通すわよ」
さっさと調弦を済ませたエリーズ嬢がそう言ってヴァイオリンを構える。
が、ついぎょっとして息を飲んだぼくに気づいたのだろう。
「何? 無理だって言いたいの?」
と鋭い視線を突き刺してくる。
「……いいえ。どうぞ、始めて下さい」
強がったことに気づかれただろうか。エリーズ嬢はふんと鼻を鳴らし、凛とした構えで弓を引く。
冒頭四小節はヴァイオリンの独奏だが、正直あまり耳に入ってこない。
――大丈夫。
自分に言い聞かせる。ここはステージの上ではないし、今から弾くのは伴奏だ。
誰もぼくなんか見ていない。大丈夫。大丈夫――




