都るつ②
大変喜ばしいことに、今日の都さんのヴァイオリンは一音目から先週までとはまるで違っていた。
厳密にはその構えからだ。
悪くない、とぼくは感じた。
いつもは見るからに力が入ってしまっていて、構えた時点でこれは駄目だなとはっきり分かったのに、今日はどんな音が聴けるのか、実際に音が鳴るまで分からなかった。
鳴ったのは良くも悪くも普通の音だ。
決してエクセレントとまではいえない。
しかしその音は、ぼくの指導者としての魂を震撼させた。
あがり症というのは精神の病であり、単なる練習不足とはわけが違う。
〝できるようになるまでやればよい〟という精神論も〝悪いところを除去すればよい〟という医療的力技も通用しない。
〝不可〟を〝可もなく不可もなく〟にするのがどれほどの事か身をもって理解しているぼくの内にある願望は〝もーめちゃくちゃ褒めまくりたい!〟だ。
しかし下手に刺激して意識させてしまうのは良くない気がする。
よって慎重に吟味して選んだリアクションはといえば――
「……うん、いい感じですね」
である。
「都さん、この一週間で何かありましたか?」
「えっ」
都さんはぴょこんと跳ねて、いつもみたいに顔を赤くした。
「たたっ……たくさん、練習、しました。
先生に教わったイメージの……、自分の部屋でしてもあんまり意味ないのかなって思って、学校の練習室とか、公園、とかで……」
「そうでしたか。あのアドバイスが都さんにとって有益だったようで、何よりです」
ぼくは嬉しさのあまり、つい彼女の小さな頭のてっぺんにぽんと手のひらを置いてしまう。
これは不本意にもピエール師匠から引き継いでしまったらしいぼくの悪癖だ。
顔を真っ赤にする都さんの反応を見て我に返り、手を離してピアノの方へ視線を逸らす。
いつものようにそこにいるアンリは、なぜだかゴディヴァの棚を見るときの目でこちらを見ている。
「先生こそ、何かあったんですか?」
「え? ああ」
ぼくは慌てて都さんに視線を戻す。
「これはとんだ失礼を。都さんの成長を見られることが嬉しくって、つい……。
この分ですと、そう遠くないうちに教授の元へお返しすべき日が来てしまいますね。
今から寂しく思ってしまいますが――だからといって、手を抜いたりはしませんよ?」
ぼくが微笑むと、都さんは何か言い返したそうに口をぱくぱくさせてから、結局「はい……」と煮えきらない返事をした。
やってしまった――とぼくは思った。
彼女だってコネ講師の所なんかとっとと去ってしまいたいはずだ。寂しい、なんて、口にすべきではなかった。
それからいつもと同じようなメニューをこなし、都さんのいつものいい顔がすっかり出来上がってからのことだった。
バンっ!と勢いよくドアが開く音が耳を叩き、ぼくと都さんはぎょっと首をすくめてドアを見やった。
そこにいたのはなんと、左手に瑠璃色のヴァイオリンケースがぶら下げた例のお嬢様だ。
ぼくたちほどではないものの、彼女もまた驚いた表情でぼくを凝視している。
「アンタはさっきの……。なんでここにいんのよ」
「ええっと……それはこちらのセリフでは……」
「ワタシ?」
彼女は足元にヴァイオリンケースを置き、腕を組んで続ける。
「言ったでしょ、人を探してるって。
ツァウクモアノンの研究室にいるって聞いたから来てみたんだけど、ここであってるかしら?」
「それはそれは……でしたらこちらで間違いございません。
申し遅れましたが、ぼくがその白汎音です。
ご覧の通り、当研究室でヴァイオリンの講師をしています」
そう言って胸に手を当てながら会釈するぼくに、お嬢様は眉間にぐっと皺を寄せ、高圧的な「クワ?」を放った。
「講師ですって? アンタが……?」
「ええ。そしてこちらがただ今の受講生でいらっしゃる都るつさん」
自分を挟んで飛び交うフランス語に狼狽えるばかりの都さんであったが、自身の名前を拾うやぴんと背筋を伸ばし、ぺこりと頭を下げる。
人種は違えど同姓同世代の同志であるお嬢様は、ちらりと視線を返すのみで、まったくそれどころではないといった感じだ。
「そしてあちらが――」
言いながらピアノを見やったぼくの視線を辿るお嬢様。
半開の屋根に覗く芸術的な顔面を発見するやいなや、先端から光線を出して撃ち抜く勢いで指さした。ぼくは続ける。
「マダムがお探しになっている方ではないかと……」
「見つけたわよ! アンリ・ルノワール!」
絵に描いたようなおとぎ話のヒロインの風貌をした女の子が、まるで悪役のようにずかずかと、裾の広がったハイウエストのスカートを厳しく翻しながらピアノに向かっていく。
決して目を合わせようとしないアンリの脇に仁王立ちしたかと思えば、ぴんと反らせた五本の指を胸に当て、鋭く言い放った。
「ワタシと勝負しなさい!」
「勝負……?」
ぼくはアンリに代わってそのフランス語を復唱し、首を傾げる。
――すとーかー。
今度はアンリがピアノでつぶやく。
「ストーカー……?」
そして日本語で復唱するぼく。しかし――
「失礼ね、誰がストーカーですって?!」
しっかり伝わってしまう単語であることに注意すべきだったのだ。
素知らぬ顔で窓の外を見つめるアンリを尻目に弁明を試みる。
「ああっ、いや、ぼくではなく彼が……」
「クワ?」
ぼくはうっと口籠り、思案する。
連絡先を知っているということは、二人はそこそこ気の知れた仲であるはずだ。
件の暗号や音話に通じていてもおかしくないと踏んでいたのだが……まさか本当にストーカー……?
「あの、お二人はどういったご関係で……?」
粛々と訊ねると、マダムは決まりきったことを訊くなと言わんばかりにぼくを睨んだ。
アンリに助けを求めても「それ」「帰る」の一点張り。
なんだ? 痴話喧嘩中のガールフレンドか?
勝負についてはよくわからないが、もしそうならとんでもない美男美女カップルである。
「追い返すって言われても……彼女、遠路遥々アンリを追いかけて来たんでしょ? せめて話くらいは聞こうよ」
――ない。
「お願いして帰ってくれそうにはないけどなあ……本当にストーカーなら警察呼んじゃうけど、それでいいの?」
――ない。
ぼくはため息を吐き、気まずそうにきょろきょろしている都さんを見やった。
彼女が聞き取れるのはぼくがアンリに話す日本語だけなので、ぼく以上に何が何だかさっぱりなはずだ。この状況は非常にまずい。
ぼくはすっと息をつき、何やら難しい顔で考え込んでいるお嬢様を見据えた。
「申し訳ありません、マダム。氏は頑なに〝帰せ〟と仰せです。
ぼくとしても彼女のレッスンを一刻も早く再開せねばなりませんし、いったんお引き取りいただくか、二階でお待ちいただけませんか?
ぼくでよろしければ後ほど詳しくお話を――」
「ちょっと待って」
悲しいかな、なおも彼女は耳を貸そうとしない。
「もしかしてアンタ、コイツと話せるの……?」
「えっ……ええ、まあ……」
ぼくがつい頷くと、彼女は驚く。ぼくも驚く。
しがないヴァイオリン講師でしかないぼくが、誰も声を聞いたことがないという謂れを持つあのアンリ・ルノワールと、こうも気軽に言葉を交わし合っているなんて!
「まさか、そんなことができる人間がこの世に存在したなんてね。
それも、フランスから遠く離れた日本に……知ったアイツがどんな反応をするか、楽しみだわ」
「あいつ……?」
「こっちの話よ。それより、この子のレッスンだったわね」
彼女はぎょっと縮こまる都さんと胸に抱かれたヴァイオリンを順に見やり、にっと口の端を吊り上げた。
「ワタシに名案がある」




