愛の喜び
――汎音のヴァイオリンは下手くそ。
でも、ここに来るやつはもっと下手くそ。堂々としていろ。
とアンリがいうので、ぼくは身の振り方についての考えをいったん保留することにした。
言葉選びについては改善の余地しかないが、主旨だけ掻い摘めばまあ、それもそうなのかもしれない。
中道くんのレッスンの後は午前の残りを雑用集めに費やした。
研究室に戻る前に、昼食の材料の調達に向かう。その道すがらのことである。
ちょうど西門を出ようとしたところで、さわさわと木の葉が擦れ合う音といっしょにヴァイオリンの音が聴こえてきた。クライスラーだ。
CMVではよくあることなのだが、なんとなく気になって音のする方に目を凝らす。
するとどうやら、奏者はまだ青々とした銀杏の木の下、レンガのプランターの縁に立って演奏しているのだと分かった。
なおのこと気になって近寄ってみる。
毛先にウェーブがかかった亜麻色の長髪。伏せられていても存在を主張している鮮やかなエメラルドグリーンの瞳、同じ色のベルベットのツーピースにはゴールドの刺繍が施されており、フランス人形さながらの華やかな容姿と衣裳でありながら、きりとした眉が愛らしさよりも勇ましさを強調しているガールとレディの境くらいのマドモアゼル――と呼ばせていただきたいところだが、この年頃だと失礼にあたるかもしれない。
ぼくは思わず足を止め、彼女の『愛の喜び』に聞き惚れる。
音の輪郭がくっきりしていて張りも申し分なく、なんとも耳に心地よい。きっと彼女の持ち味なのだろう。
ヴァイオリンを下ろす彼女に拍手を送る。
通りすがりに耳を向ける人の姿はいくらか見られたが、最後まで聴いていたのはどうやらぼくだけのようだった。
凛としたエメラルドがぼくをとらえる。
「こんにちは。初めて拝見するお顔ですね。留学生でいらっしゃいますか?」
ひとまず日本語で訊ねると、やや圧のある「クワ?」が返ってきた。
それに気圧されつつ、今度はフランス語で同じ質問をするぼくに、彼女はふんと鼻を鳴らして答えた。
「ワタシはパリのコンセルヴァトワールに通っているの。誰がこんなクソ田舎に居座るものですか」
「はあ……」
「それよりほら」
彼女はびゅんと振った弓で足元のヴァイオリンケースを指し示す。ぱっくり開いているが当然空だ。
「金よ金。聴いたでしょ、ワタシのクライスラー。さっさとよこしなさい」
という彼女に、ぼくは申し訳なく思いつつもふふと笑った。
「パリからのお客様であればご存じなくとも致し方ありませんが、西鹿村の道端では投げ銭どころか拍手も期待できません。
あなたは見事な『愛の喜び』を披露されましたが、ご覧の通り、誰も足を止めなかったでしょう。
練習か本番か区別がつかないので、それらしくステージを構えでもしない限り、芸として認識されないというわけですね」
「アンタは最後まで聴いて、拍手もしたわ」
「それはまあ……聴きたければ聴きますし、拍手したければしますよ。
なんならもっと聴かせていただきたいくらいです。
ぼくには大変価値のある、素敵な演奏でしたので」
「そう?」
プランターの上の彼女は自慢気に胸を張り、横髪をはらう。
「アンリ・ルノワールにも勝ってたかしら?」
「え? えっとお……」
そうくるか。愛想笑いで頬をかく。
「彼はヴァイオリニストではありませんが……」
「もちろん、よく知ってるわ」
「左様ですか……恐れながら申し上げるなら、ぼくは彼に勝る音楽家を存じ上げません」
彼女は再び「クワ?」を放つ。口癖なのだろうか。
ぼくを蔑むような表情にはどことなく既視感がある。
「そ、それはそうとマダム。お金にお困りなのですか?」
手にしているヴァイオリンは軽く一千万は下らない代物だし、身につけているバッグや装飾品も高価そうなものばかりだ。
不思議に思って訊ねてみると、彼女は「モバイルを盗まれたのよ!」と激怒した。
ケースに差し入れていたクレジットカードもいっしょで、現金は僅かなユーロしか持ち合わせがないという。
「大事ではありませんか!
こうしてはいられません。今すぐ交番に参りましょう」
道案内ついでに通訳を買って出ようという心積もりをしていたが、よくよくきいてみると、どうやら羽田から乗ってきたタクシーの車内に忘れてきただけのようだった。
というわけで向かったのは交番ではなくCMVの総合サポートセンターだ。
窓口で問い合わせると、しっかり届けられていたスマホとカードが出てきた。
書類にサインをする彼女は、まるで狐にでもつままれたかのような面持ちだった。
「ドライバーが気づいてくださってよかったですね」
「まったくだわ。いまだに信じられない。チップはどうやって渡せばいいのかしら」
「受け取って貰えないと思いますよ」
ぼくはふふと微笑む。
「そういえば、マダムはどういった御用向きでパリからいらしたのですか?」
なんとなく訊ねてみると、彼女はあけすけにむすっとした。
「失礼、不躾でしたね」
恐縮するぼくに彼女は言う。
「人を探してるの。CMVにいるのは間違いないんだけど……どーしても今捕まえないとなのに、アイツったらぜんっぜん連絡返さないし!」
「左様でしたか。これも何かの縁ですし、お手伝いを申し出たいのは山々なのですが……あいにくこれからレッスンがありまして。
こちらから訊ねておきながら、申し訳ありません」
ぼくはぺこりと頭を下げる。
「ああそう。それじゃあ仕方ないわね。レッスンは大事」
彼女は「ボンクラージュ」と言い残し、キャンパスに向かってさっさと歩き出した。
ぼくはぱちぱちと瞬きしながら見送って、スマホで時間を確認する。
都さんが来るまでまだ少し時間があるが、さすがに食材を買って調理する余裕はなさそうだ。
アンリには申し訳ないが、ランチは出来合いで済まさせてもらおう。たまにはファーストフードもいいかもしれない。
うーん、それにしても、がんばって――か……。
「レッスン、する方なんだけどなあ」




