ハノン
いくら教授の進言とはいえ、コネ講師を信じてみようなどという気は端からないらしい。
当たり前だ。CMVの学生はみながみな、コンクールなり学位なり、実績という名の証を得ることに心血を注ぐ。
音楽家として大成するのに必要だからだ。
その一人である彼にすれば、証を持たない者を信用できる道理などあっていいはずがない。
中道くんは深々と息を吸い、一気に吐き出した。
「答えなくて大丈夫です。ただの八つ当たりなのは分かってます。
今日ここに来る前、もう一度チャンスを貰えないか交渉しに西岡研に寄ったんですが、交渉以前に門前払いを喰わされましたからね。酷いもんですよ。
仕方なくここへ来て、遅刻でまた追い返されて、今頃はヴァイオリンを捨てて実家に帰っているはずだったんですが――おかしいな。そうはなっていませんね」
はは、と投げやりにとんでもないことを言う。
彼や彼の両親が、彼が捨てると口にしたそのヴァイオリンにどれほどの労力を捧げてきたことか。
時間も金銭も青春も、決して取り戻せはしないのだ。
「申し訳ありません」
背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
姿勢を戻すと、中道くんの沈んだ瞳がこちらを見ていた。
ぼくはその瞳を真剣に見つめて言葉を続ける。
「あなたは八つ当たりだと言ってくれましたが、悪いのは全部ぼくです。
経歴が皆無なのは確かなのだから、どれほど貶されようと致し方ない。惨めなのは今さらだ。
一人でそう納得し、目の前のいたいけな学生がもっと嘆かわしい思いをしているという現実からは、都合よく目を背けてきた」
「……それで? まさか、あなたの謝罪で俺が報われるとでも?」
「いいえ」
ぼくは即答する。
「ですが、ぼくなら先生に指導の方針を考え直していただけるよう直談判できるかもしれません。ですからどうか――」
ヴァイオリンを手放すのは待って欲しい。
言いかけた言葉を遮ったのは、唐突に鳴り始めたピアノの音だった。
流れるようなドミファソラソファミ――これはそう、言わずと知れたハノンの第一番。
ぼくと中道くんは、はっと惹きつけられるように視線をピアノへやる。
そこで鳴っているのは耳にこびりついたお馴染みのフレーズ――であるはずが、そのハノンは一言でいうと全くの別物だった。
アレグロで等間隔に連なった音の粒は機械で打ち込んだように均一で、ぼくの耳では寸分の誤差も感知できない。
それでいて一音一音、異なるタイミングで生まれたはずの音が、大きなひとつの畝りになって耳に届く。
矛盾しているようだが、ドミノ倒しを想像してみてほしい。
完全に同じ大きさ、同じ色のドミノをきれいに等間隔で設置して、倒す。ドミノは淀みなく常に一定の速さで次から次に倒れる。
どのドミノの倒れる瞬間を切り取っても全く同じ絵になるに違いない。
しかし倒れる様子を上から俯瞰してみてみると、個性の欠片もなかったそれぞれのドミノは、他のドミノと連なりながら巨大で神秘的な地上絵を描いているのである。
アンリのハノンは中道くんの胸の内にもきっと壮大に響いたことだろう。
第一番は寄せた白波のように呆気なく去ってしまったが、この平凡な研究室を、今なお不思議な余韻で満たしている。
――次、汎音。
その言葉に、ぼくはまたはっとする。
手に取ったヴァイオリンを素早く調弦しながら横目でアンリを見やる。
分かりにくいが、何やら楽しそうな表情を返したアンリは、視線と音で「大丈夫」と言った。
どちらも憶測だ。ただの願望かもしれない。
弦を押さえて、弓を引く。
アンリはぼくの呼吸を読んで、ピアノの伴奏をぴたりと重ねる。
彼の伴奏でヴァイオリンを弾くのはこれで二度目、出逢った日の『雨の歌』以来だった。
カイザー『三六の練習曲』の特徴といえば、延々と続く単調なフレーズに発想記号が綿密に書き込まれている点であろう。
そのため音符を追うだけで精一杯であったり、スタミナが不十分だったりの初心者にはやや難しめの難易度に置かれる。
ピアノ伴奏はヴァイオリン奏者が単調かつ冗長なフレーズを集中して弾き切るための工夫であり、ハーモニー感覚を養うための助けにもなっている。
要するにカイザーは、奏者が必要とする多様な力を並行的に培うことのできる非常に優れた練習曲集というわけだ。
ぼくが奏でる単調なフレーズは、アンリの伴奏にのって陽気な歌になる。
おとぎ話のヒロインが木陰で囀るような歌。さっきまで絶望の淵に立っていたことが嘘のように気持ちがよくて、ぼくはもうこの歌と、推しのことしか考えられない。
それでもぼくは講師だから、この演奏を通して中道くんに伝えなければならないことがある。
ぼくには彼の『雨の歌』が正解か不正解かを判ずることはできない。
正解を知っているのはブラームスただ一人であり、正解を追求することこそクラシック音楽であるからだ。
それでもただの音と音楽の間には明確な境界線がある――と、ぼくは思う。
それがどれほど美しい旋律や音色であっても、どれほど理論に忠実で優れた技術の元に再現されていたとしても、いくら強烈な思いが込められていたところで、音は鳴った瞬間はただの空気の振動に過ぎない。
その振動が誰かの耳まで届き、その心まで震わせたときに、音は初めて音楽になるのだ。
ヴァイオリンと弓を下ろし、一息つく。
大きく開いた目で茫然とぼくをみつめる中道くんに視線を返して、やんわりと微笑む。
それから――アンリがぼくにかけてくれた言葉を、今度はぼくから中道くんへ贈りたいと思う。
「さあ、次はあなたの番です、中道くん」
「……む、無理です。俺は……先生のようには弾けません。無理です」
存外および腰な彼の様子に、ぼくはつい、口元に手を添えてふふと笑う。
「できますよ」
「むり、です」
「できます。少なくともぼくは確信しています。できるようになるまで、一緒に頑張りましょう」
ぼくは左手にヴァイオリンと弓をまとめ「ね?」と右手を差し出した。
今ならこの手を取ってもらえる――そんな自信が持てたのだ。




