アラベスク
「さきほどの……笑顔の理由が知りたいです。ぼくの前で笑ってくださったのは、初めての事でしたので……」
問われたアンリは思い出したかのようにふっと目元を緩め、戯けた感じのノーを弾いた。
秘密、あるいは、その理由を伝えるための語彙がぼくたちの間に足りていないのかもしれない。
いずれにしたってこれ以上問い質すのは野暮だ。
しかし、うん……今のはひとつに数えなくてもよいのではないだろうか。
「だったら、アンリの名前……ぼくが鍵盤であなたを呼ぶときの音が知りたい」
鉄は熱いうちに打てという。
ぼくが急いで別の質問を投げかけると、アンリは目を瞬き、腕を組んで思案する素振りを見せた。
それから右手で、汎音とはまた別の短い旋律を弾いた。
「♬♬」これが、アンリ。
汎音とは違って涼しげな感じで、ラヴェルの『水の戯れ』の冒頭二拍目の裏に出てくる三二分音符と同じだ。
「♬♬」「♬♬」「♬♬」
アンリ、アンリ、アンリ、広げた右手に教え込むように同じ旋律を繰り返し鳴らしていると、アンリはまたぼくの左側頭部を小突いて背後を離れた。
「しつこい」と言われたのだと思う。口はさておき、指の方は随分はっきりものをいうようだ。
ぼくは楽譜の棚を物色し始めたアンリの背を目で追いながら、二度小突かれた左側頭部を擦った。
しかし、なんだろう……頭ではなくて、触れられてもいない胸のあたりが、どうにもこう、むずむずする。
服の上から擦っても届かない、少し奥まった所が。
ややあって、アンリは棚から一冊の楽譜を取り出してきた。
ぼくは椅子から腰を上げ、ピアノの凹んでいる方の側面にまわった。
グランドピアノは鍵盤の蓋を開けるだけのアップライトとは違い、重たい屋根を開いたり、中から譜面台を引っ張り出したりと曲を弾き始めるまでにちょっとした面倒がある。
本来なら音が響くよう斜めに開いた大屋根を棒でつっかえて固定するのだが、夜も遅いので開けたのは前だけだ。
立てた譜面台にすとんと楽譜が置かれる。
その表紙にフランス語で印字されているタイトルは、ドビュッシー『二つのアラベスク』。
〝二つの〟とある通り、第一番と第二番が収録されているが、アンリが開いたのは第一番。
譜面を見ただけでうっとりしてしまうようなフランス音楽の代表格――ぼくが大好きな小品の一つである。
鍵盤の前に立っていたぼくは当然のように身を引いた。
烏滸がましいにも程があるが、あのアンリ・ルノワールが、一対一のこの状況で、アラベスクを披露なさると思ったのだ。
しかしそんなうまい話はなかった。
アンリはピアノから離れようとするぼくを鍵盤の前まで引っ張り戻し「わ、ちょっ、アンリ?」両肩を上から下にぐっと押して、ぼくのお尻をピアノ椅子に沈めてしまった!
とんとん、と、彼の指先が譜面をつつく。
まさか……ぼくに弾けって? アンリ・ルノワールに聴かせるために?
思わず息をのむ。
本当をいうと、ぼくは人にピアノを聴かせることが大の苦手だ。
誰かが聴いていると思うだけで、嫌でも母の言葉を思い出す。
あれは――幼い子供のぼくにはあまりにもむごい一言だった。
ああほら、今でもこうやって、ぼくの中にある音をばらばらに切り刻んでしまうのだから。
ぼくはいったいどのくらい、鍵盤に指を置いたまま固まっていたのだろう。
――汎音。
と右の方の弦が鳴り、ぼくのお尻が椅子から浮き上がった。
ああ驚いた。心臓を引っ張られたかと思った!
気づくとぼくの指はひとりでに動きだしていた。
誰もが一度は耳にしているあの三連符のスラーを、ふわりふわりと寄せて、返す。
背中を押された勢いでやや駆け足になってしまっただろうか。五小節目のリットで一呼吸して――……
長い夢から覚めた後のような、ふわふわした不思議な心地で鍵盤から指を離し、ふっと一息つく。
そこにある自然と、この世のどこにも存在しない幻想の融合。
それが印象派と呼ばれたドビュッシーの音楽なのだ。
ことんと鍵盤の蓋を閉じ、椅子を引きながら立ち上がる。
残っている仕事の続きに取りかかりたいところではあるが、眠くなる前にシャワーを済ませておきたい。
しかし何の気なしに振り返ると、まだここは幻想の中だったかと錯覚するほど美しいものがぼくほ行く手を阻んでいた。
「あっ……」
ぼくは思わず後退ろうとしたが、退路はピアノが塞いでいる。
ピアノの縁に両手をつく。そうして現実と夢の境をうろうろしているぼくを見て、アンリは僅かに口の端を吊り上げた。
やっぱりまだ信じられない。推しがぼくの目の前にいて、あろうことか笑みまで浮かべていることも、このぼくが、師匠以外の人の前でまともにピアノを演奏しきったことも。
「あ、あの……」
何か言い訳が必要だ。
そう思って必死に言葉を捻り出そうとするぼくを放置したまま、アンリはどこか満足気に研究室を出ていってしまった。
気力を使い果たしたぼくは呆然とその背を見送り、ピアノ椅子に腰を落として手にスマホを取る。
『アンリ・ルノワールについて、できるだけたくさん教えて』
ピアノに突っ伏し、チャットAIからの返答を待つ。
二度ため息を吐いて視線を横に向けると、スマホの画面にはすでにAIからの返答が表示されていた。
片っ端からアンリ・ルノワールの情報を集めてきたつもりのようだが、彼の声帯に疾患があるだとか、失踪しただとか、日本に何かしらの縁があるだとか、そういう目新しいトピックは何一つ見あたらなかった。
CMVに籍を置いている理由を示唆する情報でもあれば彼のルーツや行動原理を知るヒントになると期待していたのにそれも空振り。
やはりネットの情報だけではすぐに限界が見えてしまう。
推しのことならなんでも知っている気でいた今朝までのぼくがいかに傲慢であったか、思い知らされるばかりだ。
ミステリアスなところもまた、彼の魅力のひとつであるというのに。
ぼくはようやく動き出し、よろよろと二階へ上がる。
ダイニングには――いない。
ということは寝室だろう。着替えを取るためだと言い訳しながらそっとドアを開いて足を踏み入れると、たくさんのアンリ・ルノワールに囲まれながら健やかな寝息を立てるアンリ・ルノワールの姿が見られた。
音楽家、特にソリストにはナルシストが多いというが、これはさすがと言わざるを得ない。
音を立てないよう慎重に着替えを回収し、シャワールームへ。
熱めのお湯をかぶりながら、ぼくは斎藤さんとの別れに思いを馳せる。
斎藤さん――彼女は今、どこで何をしているだろう。
推しである彼のプライベートな事までとことん知りたいと思ってしまうのは、とっくに諦めたつもりになっていた彼女との再会を、本当は諦めきれていないからなのだろうか。
斎藤さんとアンリになんの関係があるのかって?
そんなのはぼくが訊きたい。
ぼくが知っていることはただ一つ。あの暗号の考案者が、斎藤さんだってことだけだ。




