暗号
耳に馴染みのない音楽用語は雰囲気で読んでいただければと思います。。。
あの出来事があった当時、ぼくは用を足すときにしか子供部屋を出られない引きこもりだった。
そんなぼくが斎藤さんの名前をいかに知ったのか、まずは触れておこう。
といっても彼女のレッスンは水曜日の一枠目、午後二時と決まっていたから、母の教室の壁にぶら下がっているカレンダーを確認したまでの話だ。
カレンダーには〝〜さん〟と〜〝〜くん〟がいたので、確かめるまでもなく性別も察せられた。
特に教室への立ち入りを禁じられていたわけでもないのにわざわざ夜中に忍び込んだのは、母と鉢合わせるのが怖かったからだ。
彼女はいつもレッスンが始まる三〇分ほど前にやってきて、始まるまでの時間を自由にピアノを弾いて過ごしていた。
一枠目は前に他の生徒がいないので、早めに来て少しでも長くグランドピアノに触れようという魂胆だったのだろう。
その日も彼女は一時半ちょうどに来て、ぼくもいつも通り鍵盤から指を離し、下の階へ耳を澄ました。
今日はどんな曲を披露してくれるんだろう。自作の曲がいいなあ……と、これまたいつも通り楽しみにしていたぼくの耳に届いた音は、ぼくの期待を裏切るどころか、曲ですらなかった。
聞こえてくる音という音が独立していて、まったく旋律になっていなかったのである。
間欠的に鳴らされる、リズムも調性もてんでばらばらな二和音。
鍵盤の前にいるのは斎藤さんではなく、鍵盤に馴染みのない別の誰かなのだろうか?
もしそうなら、これほど上手く不協和音を避けられる素人がいるだろうか?
気になって気になって仕方なかったぼくは、他に何もせず、じっと耳を澄ましてその不思議な音たちを摘んでは咀嚼した。味わえば味わうほど、鳴らしているのは斎藤であるという確信が深まってくる。
その音はレッスンが始まる五分前、いつものヴェートーベンのソナタが始まるまで続いた。
その次の水曜日は、ぼくにとって忘れようのない特別な日になった。
午後一時半、五線譜を机に並べてペンを握るぼくの耳に、あの不思議な音が一週間ぶりに届く。
音は鳴ったそばからおたまじゃくしとなり、五線譜の上へ書き留められた。
なんとしても、斎藤さんの発する不思議な音の正体を突き止めてやる! ぼくはそう心に決めていたのだ。
書き留めている最中にも得られた確証がいくつかあった。
まず、やはりそれぞれの音の間にリズムや旋律、調性といった音楽的な要素がないこと。
一方それぞれの和音についてみてみると、一定の規則に基づいているということ。
和音はもれなく二音であり、音程の差は最大オクターブ。つまり左手は使わない。
音の長さはだいたい一定だが、ときに短い音(・)や長い音(ー)が現れたり、二つの音が同時に鳴らずに先の音が装飾音符風になるときがある。
また、ミの音だけは単音で鳴ることがある。
たとえば次のように。
[ファ]ラ、シミ、ララ、レラ、ソレ、ラレー
レ#ソ・、レファ#
[ソ]ソ、ド#ファ、ミ
それから音域について、突出した高音や低音はなく、五線譜のおたまじゃくしは二オクターブ半程の範囲をだいたい満遍なく泳いでいるということ。
やっぱり出鱈目なんかじゃない。これは、音を利用した暗号だ!
最初は期待でしかなかったが、五線譜のおたまじゃくしが増えるごとに確信へ変わっていった。
最大のヒントは和音を作る二音の間にある度数のパターンが五つであることだ。
仮に和音一つひとつが発音そのものを表しているのだとしたら、この五つのパターンが母音として働いているという筋を考えないわけにはいかない。
なんといってもぼくの母国語の母音は五つである。絶対とは言い切れないが、斎藤さんだってそのはずだ。
そして子音は単純化した行で数えると十五。通常和音は低い音を根音として高い音を重ねていくものなので、子音の働きをしているのは和音の低い方と仮定しよう。
確認できているラからシの範囲にある鍵盤の数は白鍵が九つと黒鍵が六つで十五。
うん、いい感じだ。
あとはどの音がどの行に対応しているかを突き止めればよさそうだが「あ、か、さ、た、な……」と嵌めていくとすると、ドではなくラから始まるのには違和感がある……ということもないか。
ラはアルファベットではABCのA、仮名ではイロハのイで表記される基本の音だ。
それより十五ある根音のうち二番目の音であるラ#だけがまだ一度も使われていないことの方がひっかかる。
二番目といえば「か行」だが、出現頻度がそこまで低いとは思えない。
では「か行」ではなく「が行」ならどうだろう。
シが「か行」でドが「さ行」ならド#が「ざ行」?
――と、そこまで当てはめてみたところでやっと閃いた。これは逆だ。
元来日本語の進行方向は五線譜と真逆の右から左。つまり、「シ、ラ、ソ、ファ、ミ」に「あ、か、さ、た、な」と当て嵌めるのである。
「おお……」ぼくは部屋で一人、感嘆した。
声を出したのもしばらくぶりだ。黒鍵の配置があまりにぴったりだったので、久しく使っていなかった喉を震わせてしまうくらい腑に落ちたのだ。
この爽快ともいえる納得感は、実際にピアノの鍵盤と五十音表を照らし合わせることで容易く体験してもらえることだろう。
五十音表で濁点がつく行は「か行」「さ行」「た行」「は行」の四つ。
それらの行に相当する「ラ、ソ、ファ、レ」それぞれの半音上にちょうど黒鍵がくることがお分かりいただけるのではないだろうか。
そう、これが「が行」「ざ行」「だ行」「ば行」。
ところが「ま行」には濁点がつかないのでドとレの間の黒鍵が余る。
かと思いきや、この黒鍵はド#ではなくレ♭、お隣「は行」の半濁点としての役割を果たしてもらうことが可能なのだ。つまり「ぱ行」
以上を踏まえた上で二つの音の間にある度数を狭い方から「a、i、u、e、o」と当て嵌め、先程の例を解読してみると――
たいこふすきー
ば・は
そぱ……で、唯一単音のミだ。
うん、惜しい!
字面から察するに「ー」と「・」は聞こえたまま、伸ばし棒と促音でまず間違いない。
装飾音符風の音は「た」を「ちゃ」にしたいので……なるほど、母音の前に〝y〟を入れろということか。
これで「[ファ]ラ」は「ちゃ」、「[ソ]ソ」は「しょ」。
単音のミは「しょぱ」の後なので「ん」であろう。
そう言われてみるとミは「な行」にあたる音でもあるので、母音を外せばちょうど〝n〟になる。
チャイコフスキー
バッハ
ショパン
よし!
ヒントがやや多すぎたような気がしないでもないが、答えに辿り着けたのは嬉しい。
嬉しいものは嬉しい!
さすがはぼくの救世主!
繰り返し焼き増すだけの日常にこのような興奮が齎されたことを、とても感謝せずにはいられません!
ぼくが一人で歓喜に湧いている間にも音は次々に鳴り続けている。
ぼくはひとつも聞き漏らさないよう注意深く五線譜に書き留め、同時に復号もする。
リストとワーグナーのおかげで「や行」に相当する白鍵がなく、ひとつずれてシが「ら行」、ラが「わ行」に相当することも判明した。
ラ#だけが一度も使われないのは単に割当が無かったからというわけだ。
とはいえこのまま余らせておくのは非常にもったいない……そうだ!「ゔぁ行」というのはどうだろう。
余らせるくらいならそうした方がヴィヴァルディあたりに喜ばれるのではないだろうか。
そこで音は止み、ぼくのペンも止まった。
レッスンが始まるまではあと一〇分ほどあるので、音遊びに飽きてしまったのかもしれない。
昼下がりの静寂がぼくの頭に過らせたのは、ぼくの方から語りかけることも可能なのではないかというひょんな思いつきだった。
実際、可能も不可能もない。声は無理でも、ピアノの音なら互いにぼんやり聞こえてしまう程度の防音性能だ。
思い立って鍵盤の前に座ってみたものの、何をいってよいやらてんで分からない。
いかんせん、最後に人と話したのがいつだったかも思い出せない。
え、えっと、最初は……




