推し部屋
が、大変だ。由々しき事態だ。
何がって、五つも歳下の若者に、よりにもよってあのアンリ・ルノワールに、食事代を奢らせてしまった。
言い訳をさせて欲しいのだが、あの事件のあとレジへ赴いたところ、会計はすでに済まされていたのだ。
もちろん、どうかぼくに持たせて欲しいと遅れながらに懇願したが、家の中を自由に飛び回るハエを仕留めそこねたような表情で睨まれ、これ以上彼の機嫌を損ねない為には折れるしかなかった。
ぼくたちはコンビニに寄り、寮に戻った。
だがしかし、ああ、なんてことだ!
寝室を改めて見回すと、あっちにもこっちにもアンリ・ルノワール……主に円盤のジャケットとフリマアプリで手に入れた公演のポスターやチラシであるとはいえ、こんな部屋に招き入れてしまってストーカーだと非難されても返す言葉がない。
ここには彼の唯一のコミュニケーションツールである鍵盤がないので、物凄く冷ややかな目で蔑まされるのだろう。想像しただけでゾクゾクする。
これを今から撤去して間に合うのか?
試しに作業を始めてみる。
するとさっそく問題が浮上した。部屋のいたる所に不自然な空白が生まれてしまうではないか。
これをなんとかするには、別の物で埋めるか周りの物も一緒に撤去するしかない。
それに、撤去したルノワール氏を隠しきれるほどの収納がない。
天井のA2のポスターなんか綺麗に剥がすのすら一苦労だし、折らずに隠そうと思ったら筒にしてクローゼットに押しやるかベッドの下に滑り込ませるくらいしか思いつかない。
しかしどちらの手段もぼくの中にあるルノワール氏への憧憬の念が拒否を示している。
まさに八方塞がり。
頭を抱えて唸るぼくの後ろで、がちゃと嫌な音がした。
終わった――とぼくは思った。
「……ムッシュ」
ぼくは怒り、振り返った。
すでにドアは開ききっている。
「いくらきみが浮世離れしていようと、ノックくらいはできるはずだ。違うかい?」
しまった、動揺のあまり敬語がすっぽぬけた。
氏は一歩後退り、部屋の中の有様をざっと検め、瞬きした。
ばさばさと睫毛のしばたく音が聞こえてくるようだ。
怒るぼくと無表情の氏はアンダンテで七拍分睨み合った。
不動の頬がぴくりと引きつった八拍目は、時が止まったかのようなフェルマータ、あるいは絶望のアフタクトとも言える。
きたる九拍目は、絶望というより肩透かしだった。
笑ったのだ。
悪魔に心を売り払ったと囁かれるあのルノワール氏が、目を細めて、肩を揺らして、お腹と口元に手を添えて、声も無いのに、今なお笑っているのである。
「む、ムッシュ、あの……」
ひとしきり笑ったルノワール氏は、狼狽えるぼくの手を引いて階段を下り、鍵盤の前まで誘った。
イタリアンの店で触れられたときにも思ったが、ぼくとは比べ物にならない、大きな手だ。
その手は氏の定位置であるピアノ椅子に座るようぼくを促すと、ようやくぼくの手を解放した。
ピアノのカバーを捲り上げ、鍵盤蓋をことりと開く。
麗しい黒髪が揺れる度にほんのり香るフローラルが鼻孔を擽る。普段ぼくが使っているトリートメントのせいである。
レファ#、ミミ、ミ。
は、の、ん。
鳴ったのは、ぼくの名前だ。
他でもない――と言いたいところだが、それはかの偉大なるピアノ教師、シャルル=ルイ・アノンの名でもあり、彼が一五〇年以上も前に世に出し、今なお世界中で標準的に用いられているピアノ教則本の通称でもある。
どれを差しているのだろうと考え込んでいると、彼の白い指が白鍵の上を高音に向かって嫋やかに滑っていった。
そして「♪♬」と、なんというか、小鳥が囀ったような愛らしい旋律を鳴らした。
これは……?
首を傾げるぼくの左側頭部を、氏の左手の指がすこんと小突く。
察しが悪いと言われたような気がして少しむっとする。もしや、こちらが歳上だということに気づいていないのではなかろうか。
確かにベルギーでは頻繁にティーンと誤解されたが、ぼくがCMVの講師であることは何度も申し伝えていたはずだ。
不服を念じているぼくの目の前で、彼の右手は「はのん」「♪♬」と繰り返した。
ぼくは憚りながら訊ねた。
「名前……でしょうか。その……ぼ、ぼくの……」
「♪♪」これは知っている。イエスだ。そして、
シレ#、ミ、シミ。
「あ、ん、り……?」
つられて呟いた三つの音は、言うまでもなく彼の名である。
次に、氏の指はぼくの背中、肩甲骨の間あたりに縦一本の短い線を引き、その中央左あたりをとん、とん、と二回、指を下にずらしながらつついた。
リピート記号だ。ぼくは彼の意図を察し「アンリ」と復唱した。
「♪♪」
イエス。
まさか、ファーストネームで呼べと言いたいのだろうか。
試しに「ムッシュ?」とこれまで通り呼んでみると、今度はぼくの左側でダッと短い不協和音が鳴った。
これは明らかにノーの響きである。
「……アンリ」
右でチャッチャ。
「ムッシュ・ルノワール」
左でダッ。
ぼくはくすくすと笑って「アンリ」ともう一度呼びかけた。
それから「伺ってもよろしいでしょうか?」と背後のルノワール氏、改めアンリを振り返りながらお伺いを立ててみた。
すると彼は仕方がないという風に、ゆるりと右手の親指を立てた。
もちろんその指が示す意味合いは「グッド」ではない。
ぼくは「はい、では、ひとつだけ」と言って彼と同じように親指を立てた。
これは指で数を表す際の作法の違いで、日本人なら人差し指を立てているところである。
しかし、ひとつだけ……か……。
知りたいことは山ほどあるのになあ。
今起きていることが本当に現実なのかとか、ものすごく気になるのだけれど……そんなのは彼にも答えられないだろう。
ぼくは疑問の山の中から今いちばん訊きたいことを選び抜き、おずおずと口にした。




