第二章1 『捨てられない絆』
「はああああ——」
奏は恐怖に突き動かされるように両目を見開いた。
彼は堅い木製の椅子から勢いよく飛び起きると、荒い息を繰り返した。激しい呼吸のたびに胸腔が引き攣り、明らかな鈍痛が走る。冷や汗がぼろぼろの黒いへそ出し短衫を瞬時に濡らし、硬くなった布地が湿ったまま肌にまとわりつき、冷たい鳥肌を立たせた。
周囲の喧騒は一瞬にして静まり返り、近くのテーブルから怪訝そうな、あるいは軽蔑を孕んだ視線が突き刺さる。
「どうしたの!何か見たの?急に叫んだり、泣き出したりしてさ!」
傍らで戸惑うノンノンが慌てて駆け寄ってきた。
竜人族の少女の白い腕が虚空で落ち着きなく舞い、心配のあまり尖った耳が激しく震えている。きらきらと輝く縦瞳には、不可解さと焦りが入り混じっていた。彼女の黒くて太い竜の尻尾もまた、焦燥感に駆られてコンクリートの床を掃き、細かな埃を舞い上げている。
奏は何も言わなかった。
彼は目の前にいる、無傷で、黒い鱗一枚欠けることのないノンノンを呆然と見つめていた。喉の奥に、硬くて巨大な何かが詰まったような感覚に襲われる。
前回の周回で見た、あの無慈悲で圧倒的な血色の紅光。贅肉一つないノンノンのへそ出し腹部に穿たれた焦げた大穴。そして、地面を濡らした暗赤色の竜血と砕け散った内臓……。それらの惨烈な光景が、今は焼けた鉄の印のように、残酷なほどに彼の脳裏で再生され続けていた。
温かい液体が堰を切るように溢れ出す。
熱い涙が、痩せこけた顔を伝ってこぼれ落ち、たこのできた掌の上に滴り落ちた。
「えっえっえっ!泣かないでよ隊長!どこか痛いの?それともお腹が空きすぎたのかな?あ、私、さっき買った黒パンがあるの。食べる?だから泣かないでよ!」
ノンノンは完全にパニックに陥っていた。
彼女は温もりを宿した掌で不器用に奏の涙を拭おうとするが、涙は糸の切れた真珠のように止まる気配がない。
奏は静かに首を横に振った。
彼は右手を上げ、顔に残った涙を力任せに拭い去った。その掌と痩せた皮膚が擦れ合い、異様な赤みを帯びる。彼は心の中で強く、今の自分を奮い立たせようとした。
たとえ前回の周回で遭遇した、絶えず震えながら紅光を放つ存在が到底敵う相手ではなかったとしても、ここで立ち止まるわけにはいかない。
もし彼が諦め、逃げ出せば、ノンノンの犠牲も、万余の空の上で彼に美しい微笑みを向けた長公主ルフィアの最期も、すべて無意味な虚無へと帰してしまう。
生き延びるしかない。
皆の願いを背負い、無数の死を塗り重ねてできた死の道で、己の足で全く別の因果を切り拓くのだ。
しばらくして。
冒険者ギルドの大広間は沈んだ空気に包まれていた。石柱に吊るされた油灯が薄暗い光を放ち、時折パチパチと音を立てる。空気には古びた麦芽酒の匂いと、質の悪い革から漂う汗の酸っぱい臭いが混じり合い、奏を死の空虚から現実へと引き戻していく。
奏とノンノンは、広間の端にあるベンチに戻っていた。
彼は掌で額を強く押さえ、焦点の定まらない墨色の瞳で、広間中央に掲げられた巨大なクエストボードを眺めていた。
「つまり……車夫を探す前の時間か……」
奏の声はひどく掠れており、その囁きは冒険者たちの粗野な笑い声の中に消えていった。
クエストボードの隅には、今日の日付がはっきりと刻まれている。
間違いなかった。
時間は確かに、彼らが駆け出しの冒険者証を手に入れ、車夫を探しに街を出る直前のあの正午に戻っていた。
前回の経験に従うなら、道中で三十五個もの貴重な結晶球を節約する最も完璧な方法は、予定通りフェイキと仲良くなり、彼の馬車に乗ることだ。
しかし、今の奏の胸中は、かつてない激しい葛藤に支配されていた。
彼の脳内では、ノンノンが最後に彼を突き飛ばし、自らが紅光に射抜かれた惨烈な光景が繰り返されていた。それと同時に、白髪の少年フェイキと、大白と名付けられた白馬が、千万分の一秒で血の雨と砕け散った骨へと変わった無情な光景も、鮮明に再生されていた。
もし結晶球を惜しみ、馬車で楽に移動するために再びフェイキを同行させるなら。
それは、この罪のない少年を、避けようのない紅光の射線上に自らの手で突き飛ばすことに他ならない。
フェイキはただ、新しい生活を始めたいと願っただけの凡人だ。
彼の洗いざらされた灰色の粗布の短衫。亡き父を慕う心。愛を渇望しながらも、母親にゴミのように捨てられた悲惨な境遇……。
彼が死ぬべき場所は、あの漆黒で死に満ちた荒野ではない。
奏は、結晶球を惜しむがために、フェイキを確実に粉砕される死の道へ連れて行くことは絶対にできない。
それは、奏の性分に反する。
たとえ幾度もの死を経て冷酷なまでに磨き上げられたとしても、無実の凡人の命を自らの前進のための踏み台にするような真似は、決して許せない。
「行こう、ノンノン」
奏は深呼吸をし、腰に下げた暗青色の皮袋を締め直すと、歯を食いしばって立ち上がった。
別の馬車を探すつもりだ。たとえ三百個の結晶球をすべて使い果たそうとも、たとえ荒野を足から血を流しながら歩くことになっても、これ以上フェイキと因果を交差させるわけにはいかない。
しかし、奏がノンノンを連れてギルドの重厚なオーク材の扉から出ようとした時。
外の静かだった通りから、突如として耳障りな喧騒と怒鳴り声が聞こえてきた。
「待って、外で何か面白いことでもやってるのかな?」
ノンノンが興味津々に尖った耳を立て、黒い大きな尻尾を空中で揺らしながら、奏の手を引いて人だかりの方へ向かおうとする。
奏は反射的に彼女に従おうとした。
だが、開け放たれた扉越しに街路の空き地を見た瞬間、彼はその場に凍りついた。
そこには、大柄で粗野な冒険者数名に囲まれた一人の少年の姿があった。
灰色の洗いざらされた短衫を纏い、乱れた白髪を持つその少年は、力なく腰を曲げ、寒風の中でその細い身体をさらしていた。
フェイキだった。
「ただの荷物持ちの分際で、俺たちのチームの結晶球を盗もうとするとはな!」
顔に大きな傷を持つリーダー格の男が傲慢に一歩踏み出し、その粗野な声が静まり返った通りに響き渡った。通りすがりの人々が足を止め、好奇の視線を向ける。
「お前なんてもうチームにはいらん!家に帰れ!親にも愛されない屑め!」
辛辣な嘲りと周囲の囁きが交差し、それは見えない刃となって、少年のか弱い自尊心を容赦なく切り刻んでいた。
罵声を浴びたフェイキは青ざめ、怯えたように首をすくめ、ボロボロの鞄の紐を必死に握りしめながら、か細い声で弁解した。
「そんな……本当に僕は盗んでいないんです……」
少年の声には明らかな泣き声が混じっており、風にかき消されそうだった。
しかし、彼が言い切るよりも早く。
傷跡の男の顔に、残忍な怒りが浮かんだ。彼は踏み込み、たこの張りついた巨大な右手でフェイキの襟首を掴むと、痩せ細った少年を軽々と宙に吊り上げた。
「ああ?つまり、俺たちの誰かが盗んだって言いたいのか?」
男の歪んだ顔が至近距離まで迫り、吐き出された唾がフェイキの顔にかかる。
フェイキは恐怖に震えた。
彼は慌てて男の鉄のような腕を押し返そうとし、空中で両足をバタつかせながら、赤くなった瞳で必死に首を横に振る。
「そんなつもりじゃ……本当に僕は……」
「くそ!どろぼうめ!」
男は堪忍袋の緒が切れたように鼻で笑い、乱暴な力でフェイキをゴミ袋のように冷たい石畳の上へと投げ捨てた。
ゴツン、と嫌な音がした。
フェイキの膝と掌が地面に打ち付けられ、舞い上がった埃とともに、擦り剥けた皮膚から真っ赤な血が滲み出す。
「慈悲をかけてやってるんだ、金を返せと言わないだけでもありがたいと思え!二度と俺たちに関わるな!この泥棒め!」
男は手を叩き、蔑みの視線を投げかけると、仲間を引き連れて大股で雑踏の中へと消えていった。
街頭の小さな騒ぎは、こうして収まった。
野次馬の冒険者たちはつまらなそうに舌打ちをし、次々と去っていく。
あれほど好奇心を見せていたノンノンですら、盗みの嫌疑をかけられて追放された随伴者だと知ると、失望したように首を振り、黒い尻尾を地面に引きずりながら、奏の短衫を引いてその場を離れようとした。
「行こうよ、隊長。泥棒なんて本当に可哀想だけど、盗みを働くのは悪いことだよ」
しかし、ノンノンが背を向けたその瞬間。
奏は素早く右手を伸ばし、ざらついた掌でノンノンの白い腕を固く掴んだ。
「待ってくれ。彼は泥棒なんかじゃない……」
奏の声は低かったが、夜の帳が下りようとする寒風の中では、否定しようのない冷静さと確信に満ちていた。
「彼を知っているの?」
ノンノンは不思議そうに小首を傾げ、尖った耳をピンと立てて、隊長を見つめる。彼女の記憶によれば、彼らは今日初めて駆け出し冒険者になったばかりで、この凡人の少年と知り合いであるはずがなかった。
奏は目の前のノンノンを見つめる。
その瞬間、胸の奥が締め付けられるような酸っぱさを感じた。
そうか。
この孤独な時間のループが積み重ねてきた惨痛な記憶を背負っているのは、自分ひとりだけだった。
ノンノンの目には、この世界は新しく、彼とフェイキはこれが初めての出会いなのだ。
彼らは前回の周回で、古い客車で揺られながら分かち合ったパンの味も、焚き火の温もりも、死に際にノンノンが流した涙も、すべて記憶から消えている。
だが、誰にも記憶されていない時間軸であろうとも。
奏は忘れない。
「彼は自分のことを忘れているかもしれない。だけど、僕を助けてくれたんだ」
奏はそれ以上説明せず、墨色の瞳に揺るぎない覚悟を宿し、石畳に座り込む白髪の少年を見つめ続けた。
その言葉を聞いたノンノンは少し驚いたように目を丸くした。
彼女は、奏の不可解な言葉を否定しなかった。
竜人族の少女は、短時間でさっきまでの茶化すような態度を収めると、奏の傍らに立ち止まり、きらきらと光る縦瞳でフェイキの一挙手一投足を注意深く観察し始めた。
フェイキは震える手で、足跡で汚されたボロボロの鞄を拾い集めていた。
擦り剥けた掌が布地に触れるたびに、彼は痛みに体を震わせる。それでもなお、袖で懸命に埃を拭い落とそうとしていた。
ノンノンはその細かな仕草に気づき、尖った耳を不審げに揺らした。
「確かに、私が盗みをしてきた経験から言わせれば、こいつは泥棒の目つきじゃないね」
竜人族の少女は、もっともらしく頷いて口を尖らせた。
奏は、困惑しながらも思わず苦笑いを浮かべた。ノンノンがどのような論理と「神業的な経験」から泥棒ではないと判断したのかは分からないが、その結論には全面的に賛同できた。
フェイキは泥棒などではない。
身分が厳格に分かれ、底辺の凡人が畜生以下のように扱われるこの異世界では、あの上級冒険者たちは濡れ衣を着せて少年の賃金をピンハネし、自分たちの身代わりにしようとしただけだった。
その時、フェイキは歯を食いしばって立ち上がった。
力なく鞄を背負い、洗いざらした袖で涙と埃にまみれた頬を拭う。
彼は足を引きずりながら、街の南側にある自宅の路地裏へと消えていく。
奏は静かに後を追った。
指先が大腿部で白くなるほど強く握りしめられる。
これからの展開は、彼が記憶している通りに進むはずだった。
仕事を失い、報酬も持ち帰れなかったフェイキが古びた家に帰る。
だが、彼を待っていたのは家族の慰めではなかった。
ドン、と鈍い音が響き、斑模様の木戸が乱暴に開け放たれる。安っぽい化粧を塗りたくった肥満体の母親が、彼の持ち物をゴミのように街路へと放り投げた。
「お母さん、そんなこと言わないで!次は必ずいいチームを見つけるから!」
フェイキは絶望して扉の枠にしがみついた。彼の指先が木材を強く捉え、血が滲んでいる。唯一の安らぎの港を失うまいと必死だった。
しかし、富を貪るその女の口から吐き出されたのは、夜風よりも冷酷な罵詈雑言だった。
「その汚い馬と一緒に消えちまえ!お前はもう私の子じゃない!」
ガチャン——
重い扉が閉ざされ、土埃が舞い散る。少年は完全に底知れぬ深淵へと突き落とされた。
すべてが、前回の周回で見た光景と同じだ。
しかし、一つだけ違うことがある。
今度は、奏とノンノンはすぐには姿を現さなかった。
奏はノンノンを連れて、倉庫の影で息を潜め、石畳に座り込む白い影を見つめ続けていた。
母親に追い出されたフェイキは、完全に気力を失っていた。
骨抜きになったかのように、冷たく湿った石の上に膝を抱えて座り込む。乱れた白髪が風に舞い、流れる涙が水溜まりを作る。
「どうして……どうして誰も僕を好きになってくれないんだ……」
フェイキの声は低く、魂を焼き尽くすような絶望に満ちていた。
「一生懸命やってきたのに……重い荷物を背負って、罵られても言い返さずに……どうして……」
彼は震える手で頭を抱え、絶叫に近い声で泣き崩れた。
「これからどうやって生きればいいんだ……何のために生きれば……」
絶望の淵で、自らの生の意味さえも否定しようとする凡人の少年の姿を見て。
影にいたノンノンが、ついに堪えられなくなった。
「駄目!もう見てられない!」
竜人族の少女は地団駄を踏み、激しい怒りを込めて尻尾を振る。奏の制止も聞かずに、彼女は廃倉庫の影から飛び出した。
「おい!白いの!泣くな!」
ノンノンは持ち前の元気な声で駆け寄り、フェイキの前にどっかと座り込むと、不器用ながらも優しくその肩を叩き始めた。
その光景を見て、奏は無力そうに額を押さえた。
口元に自嘲めいた死んだ魚のような表情が浮かぶ。
葛藤。
諦念。
そして解放。
「これも……縁というものか……」
奏は深く溜息をつき、自嘲した。
その通りだ。
時間が何度回ろうとも、彼がいかに冷酷な理性でリスクを避けようとも、この悪意に満ちた世界で懸命に生きる柔らかな魂は、磁石のように惹かれ合ってしまう。
それこそが、彼らの貧乏くさい、しかし何よりもリアルな冒険団の底色なのだ。
見捨てることなどできない。
運命が彼らを同じ一本の縄で縛りつけるというのなら。
この脆弱な凡人の身体で、あの必死の因果を粉々に砕いてやるまでだ!
奏は歩き出した。
夕日の最後の残光が路地裏の霧を切り裂き、彼の全身を黄金色に染め上げる。
「おい」
奏の声は掠れていたが、死に絶えた小道に響くほど確信に満ちていた。
フェイキの体が強張る。
彼はゆっくりと顔を上げた。涙に濡れた瞳の中に、不思議な少年が映る。
フェイキの視野の中で、短衫を纏った痩せ細った少年は、もはや取るに足らない存在ではなかった。夕日に照らされたその背中は、燦然たる光輪を背負っているかのように神聖に見えた。
それは、最悪の深淵で見つけた唯一の救いの光だった。
「俺たちの冒険隊に入れ。一緒に冒険者になろう!」
奏は白髪の少年に向かって、最も確信に満ちた言葉で誘いをかけた。
ありふれた言葉だが、フェイキにとっては、それが魂を救う神託に聞こえた。
フェイキは呆然と座り込み、涙の跡を残したまま、上ずった声で聞き返した。
「いきなりそんな……僕は役に立たない随伴者だし……泥棒だって言われてるのに……」
「細かいことはいい。俺が違うと言ったら、違うんだ」
奏は微笑んだ。その顔には、傲慢で、しかし真実味のある笑みが浮かんでいる。
隣ではノンノンが力いっぱい尻尾を振り、尖った耳をピンと立てて、きらきらと輝く瞳でフェイキに確かな同意の視線を送っていた。
同じ短衫を纏い、同じ寒風に吹かれながらも、曇りのない心を持つ二人の仲間を見て。
フェイキの瞳の氷が溶け、温かい涙が再び溢れ出したが、今度はその瞳の中に、希望という名の炎が灯っていた。
彼は全身全霊の力を振り絞って叫んだ。
「はい……ぜひ、入れてください!」
「ああ、もちろんだ!」
奏は埃を叩いて立ち上がり、背を向けた。
しかし。
二人に背を向け、その姿が見えなくなった瞬間。
九世奏の表情から笑顔が消え失せ、極めて重苦しく、憂いに満ちた顔つきへと変わる。
フェイキを捨てることはできない。
ならば、前方の馬車道で待ち構える、あの絶えず震える恐怖の紅光を、隊長である自分が命懸けで切り裂き、無傷で通過する道を作るしかない!
今度こそ、絶対に、ノンノンとフェイキを連れて生き延びてみせる!




