第二章2『森の小径』
朝の霧は長い葛藤の末に散り去り、午後の陽光が鬱陶しいほどの熱気を孕んで、まだらな石畳に容赦なく照りつけていた。複雑に入り組んだ狭い路地を抜けると、空気には長年日の目を見ることのなかった腐木と干草のカビ臭さが徐々に漂い始める。
奏は手を伸ばし、着古した黒いへそ出し短衫の裾を引くと、夜の冷気を帯びた風に腰から腹にかけての肌をさらした。彼の視線は、常に前を歩く白髪のフェイキへと注がれていた。
今のフェイキは俯いており、整った顔には拭い切れない涙の跡が残っている。細い肩を震わせながら、継ぎ接ぎだらけの古いリュックを背負っていた。フェイキの隣では、大白と名付けられた白馬が不安げに鼻を鳴らし、痩せこけた四本の脚を苔むした砂利に踏みしめ、コツコツとくぐもった音を立てていた。
いつのまにか、三人は城南の、とっくの昔に打ち捨てられた僻地の住処へと戻っていた。周囲には崩れかけた土壁と廃れた木造倉庫が立ち並び、膝丈まで伸びた雑草が風に揺れ、サラサラと耳障りな音を立てている。
「ここだよ……少し散らかっているけど、父さんがいた頃は、もっと綺麗だったんだ」
フェイキが足を止め、居心地悪そうに振り返った。指先が不安げに服の裾を弄っている。乱れた白髪が薄い陽光の中でまばゆく反射し、赤く腫れた瞳には隠しきれない羞恥が浮かんでいた。
「大丈夫大丈夫、ここ広くていいところだよ!私がい以前いた橋の下の空間よりずっとマシ!」
ノンノンが豪快にフェイキの肩を叩く。その力強さに、痩せ型のフェイキがよろめいた。彼女の黒くて太い竜の尻尾が空中で軽快に揺れ、鱗が空気を切り裂く音を立てる。白い腹が呼吸に合わせて穏やかに上下し、きらきらと輝く縦瞳が好奇心に満ちて周囲を見渡していた。
奏は、懐かしくも奇妙なこの庭を見つめ、安物の革のような臭いのする空気を深く吸い込んだ。前回の周回での記憶が潮のように脳裏を駆け巡り、彼の墨色の瞳がわずかに収縮し、五本の指が無意識のうちに太ももに食い込んだ。紅光に引き裂かれた肉体の苦痛が骨髄に残っているかのようだったが、彼はその震えを強引に抑え込み、凛とした表情を浮かべた。
「フェイキ、馬車を出そう。手伝うよ」
奏は一歩踏み出し、袖を整えながら落ち着いた声で言った。
フェイキは呆気に取られた。たった今知り合ったばかりの無愛想な隊長がこれほど積極的だとは思わなかったのだろう、感謝の意を示して頷くと、二人を連れて庭の奥の倒壊しかけた木棚へと向かった。
棚の奥は廃材と枯れた蔦で埋め尽くされていた。厚い塵の下から、暗灰色の木材で造られた古拙な馬車が静かに姿を現す。表面のペンキは剥がれ落ち、乾燥してひび割れた木質の繊維が露わになっていた。底部の車輪は外され、壁際に孤独に立てかけられており、暗赤色の錆が全体を覆っている。
「この車体、すごく重いんだ。前は父さんと二人で長い間かけて……」
フェイキはそう言いながら灰色の短衫の袖をまくり、周囲のゴミを片付けようと腰を屈めた。
しかし、言葉が終わるよりも早く、奏は手慣れた様子で腐った板を跨ぎ、正確に両手を伸ばして馬車底部の鉄製主軸を力強く掴んだ。
前回の失敗と組み立ての経験のおかげで、彼はこの馬車の構造を熟知していた。どこが引っかかりやすいか、どこで力を抜けば脆弱な木材を守れるか、その判断は完璧だった。
「ノンノン、左側の長軸を持ち上げて。錆びた釘に気をつけて。右側の車輪の滑走スペースが空いたら、車体を持ち上げるから、その隙に軸を押し込んでくれ」
奏の冷静な指示は、拒むことのできない確信に満ちていた。
「了解!任せてよ!」
ノンノンが意気揚々と反対側へ回り込む。彼女の白く細い腕の表面に、かすかな黒い光が閃いた。竜人族特有の恐るべき怪力が炸裂する。軽く持ち上げただけで、重量感のある暗灰色の馬車が滑らかに浮き上がり、微かな揺れすら生じなかった。
奏は奥歯を噛みしめ、額に脂汗を滲ませ、霉びた空気を激しく吸い込んだ。腕の筋肉は鉄板のように張り詰め、瞳は車軸の交差点を凝視する。
二人の異常なほどの連携に、フェイキは呆然と見惚れていたが、我に返ると、必死の形相で埃まみれの重い車輪を押し込んだ。
ドン、という重い音と共に、暗赤色の鉄部品と荒縄が噛み合う。軸から嫌な軋み音が響いたが、馬車は地面にしっかりと固定された。
奏自身も驚くほどのスムーズさだった。前回の周回では、三人で右往左往して車輪のバランスを整えるだけで二、三時間はかかり、終わる頃には日が暮れていた。しかし今回は、奏の予知に等しい完璧な指揮によって、何もかもが驚くほど順調に進んだ。
三人の動作に澱みはない。連結器を留め、荒縄を巻き、前方の御者席を固定していった。汗が奏の頬を伝い、短衫の襟を濡らしたが、拭う暇もなかった。
日が沈みきる前、地平線の彼方に淡いオレンジ色の線が残る頃には、空っぽだった庭の真ん中で、古風な馬車が見事に組み立てられていた。
フェイキは力を使い果たして車体に寄りかかり、荒い息を吐きながら、蘇ったばかりの父の遺物を見つめて目を潤ませた。
「これ……本当に早すぎるよ。今夜は家で寝ることになるかと思っていたのに……」
フェイキの声には、隠しようのない感銘と信じがたいという響きが含まれていた。
「へへっ、私という力持ちがいるからだよ!私の腕力は天下無双なんだから!」
ノンノンが誇らしげにへそのない腹を突き出し、黒い尻尾をパタパタと地面に叩きつけ、尖った耳をピンと立てて、満足げに微笑んだ。
フェイキは照れくさそうに笑い、何かを思い出したように服の裾を揉みながら、奏を見上げた。
「あの……僕……屋敷に父さんが遺したものを片付けに行きたいんだ。少し時間がかかるかもしれないけど、大白の側で待っていてくれるかな?」
「問題ない。遠慮なく行ってきなさい、外で待っているから」
奏は穏やかに頷き、短衫の裾を整えた。
フェイキは再度深く頭を下げ、足を引きずりながら、民家の暗い影の中へと急いで消えていった。
庭に残った奏とノンノンは、自然と馬の大白の世話を引き継いだ。
大白は雑草の中に静かに立っている。白く痩せこけた馬体は不安そうに地面を掘り、鼻を鳴らして嘶いた。
ノンノンが不器用に干草の束を抱え、軽やかな足取りで近づき、それを口元に運びながら、白い腕で馬の首筋を優しく撫でた。
「大白大白、いっぱい食べてね!これからすごく遠くまで行くんだから!」
少女の清らかな声が静寂な庭に響き、彼女の黒い尻尾が楽しそうに揺れ、きらきらと光る縦瞳には純粋な充足感が宿っていた。
しかし、花崗岩に腰掛けていた奏の顔色は、その瞬間に氷ついたように沈んだ。
墨色の瞳が馬の頭を凝視し、掌が力を入れすぎて岩の隙間に食い込み、節が白く浮き上がる。
前回の周回で、この大人しく従順な白馬は、新生活への希望を乗せて馬車道を走っていた。だが一瞬にして、一万分の一秒という時間も与えられず、無慈悲な血色の紅光が空間を引き裂き、馬の頭部と上半身を木っ端微塵に粉砕したのだ。
馬車道の中央で、人間の骨格を無視して痙攣を繰り返すあの異様な人影を思い出し、奏の背中に冷や汗が流れた。
アイツは……常識で解釈できる存在ではない。純粋な怪物だ。
この間、奏は何もしていなかったわけではない。城門の車夫たちや、冒険者ギルドの受付嬢にまで、隠密に情報を探っていた。
「……極東の大門の外の馬車道で、最近奇妙な噂はありませんか?例えば、灰色の服を着て、骨折したように震える人影とか」
受付嬢は狂人を見るような目で彼を一瞥し、首を横に振るだけだった。
「そのような記録はありません。魔物なら掲示板に載っています。根拠のない荒野の怪談を信じるのはやめなさい」
その冷淡な拒絶が、奏に冷や水を浴びせた。
誰もあの怪物を知らない。つまり、この王国が管理できる災害ではないのだ。
魔王軍の仕業かもしれない。
だが理由はどうあれ、あの紅光が再び降り注げば、彼らは豆腐のように簡単に切り裂かれる。
考えれば考えるほど、奏の表情は歪み、喉の奥から低い唸りが漏れた。
その時、民家の扉が軋み、フェイキが身体を押し当てるようにして出てきた。
両手には重そうな木箱が二つ、白髪の下には、やっと頼れる存在を見つけたという安堵が滲んでいる。脇の下には、粗い牛革で縛られた古びた羊皮紙が挟まれていた。
「奏!これを見て!」
フェイキは興奮して駆け寄り、箱を車体に置くと、羊皮紙を広げた。
「近くの地図なんだ。欠損しているけど、周囲の地下城の位置や、各王国辺境の冒険者ギルドの支部が詳しく書かれているんだ!」
奏は驚き、干からびた掌を羊皮紙の上に這わせた。
焦げや摩耗が激しいが、王国の大門から沿道の荒野、丘陵、隣国の補給地点までが、暗赤色の特殊なインクで記されている。生前、父が書き残した夜行魔獣への注意書きまである。
不完全な地図だが、未知の荒野を初めて行く奏にとっては、迷子にならず高階魔獣の巣を避けるための、これ以上ない指南針となった。
「すごい……助かるよ、フェイキ」
奏の声は掠れていたが、心中の陰りは幾分か晴れた。
さらにフェイキは、擦り剥けた手で車体の中の箱を叩き、吐露した。
「日が暮れる前に、これも抱えてきたんだ。この薬は父さんが病床の時に地下室に隠しておいたものでね。高級品じゃないけど、止血や手当には十分だよ……」
中には白い包帯、軟膏、そして浄水が整然と並んでいる。奏は立ち尽くした。
前回の周回で自分がいかに焦っていたのか、フェイキを何も持たせずに追い出してしまったのかという自責の念が湧き上がる。
奏は冷静さを取り戻し、それらの資源を魔導腰袋に丁寧に収めた。
「ありがとう、フェイキ。これは僕たち全員の命を救うことになるかもしれない」
「奏、その腰袋の容量、広すぎない?」
奏は微笑んだが、答えることはなかった。
しばらくして、フェイキが手際よく大白をなだめ、粗末な革のたづなを馬の頭の両側にしっかりと固定し終えると、三人はこれ以上遅延することなく、重苦しい蹄の音とともに正式に出発した。
道中は過酷そのものだった。古びた車体は軸受けが回転するたびにギシギシと激しい音を立てる。路肩の砂利を踏むたびに、車体全体が避けようもなく激しく傾いた。
間もなくして馬車は空っぽの東城門を通り抜け、ドルイラ王国の勢力圏を完全に脱し、惨めな薄暮に包まれた広大な荒野へと走り出した。
しかし、道に踏み出したその瞬間、窓際に座っていた奏の身体は明らかに硬直した。端正な顔立ちに浮かんでいたわずかな安らぎは、一瞬にして凍りついた。
ゆっくりと首を回し、横に座るノンノンに視線を向けたからだ。窓枠から身を乗り出し、キラキラと輝く縦瞳で見知らぬ旅に期待の笑みを浮かべている少女。
切り揃えられた黒い短髪が夜風に揺れ、尖った耳がぴくぴくと動く。黒く太い竜の尻尾は、硬い麻の座席の下で窮屈そうに縮こまっていた。彼女は全く知らないのだ。前の周回で、今まさに自分の目の前にあるこの藁の山の上で、腹を紅光に射抜かれ、石ころほどの巨大な血の穴から、うごめく腸や内臓が車内に溢れ出していたことを。
奏の指先は、窓枠の木材に深く食い込んだ。過剰な力により、爪が乾燥した繊維にいくつもの深い傷跡を刻む。彼の漆黒の瞳には、狂気に近い尽きせぬ怨念と決意が宿っていた。
絶対に、させない。
今世、自分が隊長である以上、あの正体不明の怪物が彼らの誰一人として殺すことは絶対に許さない!たとえこの命を何千万回ループの果てに捧げようとも、必ず仲間をグルセ王国まで無事に送り届けてみせる!
夜が完全に訪れた。墨のように粘り気のある漆黒が広い馬車道を完全に飲み込み、車体前方に吊るされた弱々しいオイルランプだけが、冷たい夜風の中で惨めな光を放っている。
三人は地図の目印に従い、深夜に馬車道から約百メートルほど離れ、巨大な直立する花崗岩の陰に隠れた、人目につかない乱石のそばに野営地を構えた。
フェイキが手慣れた様子で柴刈り鎌を使って枯れ枝を切り、空地の真ん中でオレンジ色の焚き火を熾した。火の粉が寒風の中でパチパチと爆ぜ、放出される温もりが、周囲に漂う寒気と死気をわずかずつ追い払っていく。
三人は焚き火を囲んで休憩し、硬い黒パンを噛みしめながら、記憶の片隅にあるささやかな幸せな思い出を語り合い、長旅による精神的な疲労を和らげようとしていた。
「ねえ聞いてよフェイキ! 私たち竜人族って、極東の群山の中ではすごく強い戦士なんだよ! 親は早くに亡くなっちゃったけど、部落のみんなは実は私に……」
ノンノンは硬いパンを大きく飲み込み、興奮して白い腕を振り回した。黒い短髪が火の光を反射して赤らんで見える。黒い大きな尻尾を揺らしながら、大雑把に言葉をこぼし、もう少しで家族といった言葉を口にしそうになった。
隣に座っていた奏の顔色が瞬時に変わった。フェイキがつい先ほどどれほどの精神的崩壊を経験したか、彼は痛いほど知っている。フェイキは実の母親からゴミのように冷酷に寒風へ突き捨てられたばかりだ。このタイミングで家庭や両親といった温かい話題を持ち出すことは、傷口に塩を塗り込むに等しい。
躊躇など一切ない。奏は極めて迅速に右手を伸ばし、勁風を伴う掌で、喋り続けていたノンノンの口をバシッと力強く塞いだ。
「んむ……ん?!」
ノンノンの両目が大きく見開かれた。キラキラした縦瞳は困惑と驚きに満ち、尖った耳が不思議そうに立ち上がり、奏の鉄のような掌を振り解こうと必死に暴れる。
傍らで木の枝を使って焚き火を弄っていたフェイキの動きがわずかに止まった。この滑稽な光景を目にしても、端正な顔立ちには怒りも悲しみも浮かばず、ただ静かに微笑んだ。乱れた白髪が夜風にわずかに揺れる。
「普通に話していいですよ。僕のことは気にしないで。そういうことには……もう慣れましたから」
フェイキのかすれた声は、広い乱石の空地でひどく平坦に聞こえた。しかし、その平静さゆえに、かえって骨の髄まで浸透するような麻痺と悲哀を感じさせた。
その場の空気は一瞬にして硬直し、重苦しくなった。オレンジ色の炎がパチパチと明滅しているが、その死のような静寂を解かすことはできない。
奏はノンノンの口を塞いでいた手をゆっくりと離し、破れたシャツの裾を力なく引っ張った。岩に映るフェイキの孤独で痩せ細った影を見つめ、心に同じような酸っぱい苦しみがこみ上げる。この重苦しさを打破するため、彼は話題に合わせ、低く平坦な口調でゆっくりと話し始めた。
「実は……フェイキ……僕は、自分の家に帰れなくなってしまったんだ」
奏の瞳は碗の中で微かに光る浄水を射抜くように見つめ、漆黒の瞳の奥に、他人にはほとんど見せない脆さと迷いを一瞬だけ覗かせた。
「もしできるなら、母さんに一度だけ会いたい。ただ単純に彼女の前に立ち、言葉を交わして別れたい。以前の反抗や無知を詫びたいし、何より僕を育ててくれたことにちゃんと感謝したいんだ……でも、間に合わない。何もかもが進みすぎて、彼女が生きている世界がどこにあるのかさえわからないんだ。本当に……どうすればもう一度会えるのか、全くわからない」
言葉が終わると、周囲には高い花崗岩の隙間を吹き抜ける夜風の冷たい音だけが響いた。
それを聞いたフェイキは、即座に表情を険しくした。彼はゆっくりと顔を上げ、赤く腫れた瞳で、端正だが疲弊しきった奏の顔を見つめ、木の枝を握る指先に力を込めた。
「あなたのお母様は、取り返しのつかない事故にでも遭われたのですか?」
奏は苦々しく微笑み、小さく首を横に振った。
「いや、彼女は安全だ。おそらく今この瞬間も、僕の失踪を心配しているだろう。それなのに、僕は永遠に消えてしまったんだ」
隣に座っていたノンノンは、意味不明な会話を聞きながら首をかしげ、満腹で膨らんだへそ周りの腹部をいらだたしげにさすり、黒い大きな尻尾で地面を乱暴に叩いた。
「安全とか何とか、何の話なの? 隊長、何言ってるの? 結局あんた、家出してきたんでしょ?」
奏は深く溜息をつき、力なく額を支えた。
「いろいろな特殊な理由があって、ちゃんと説明できないんだ。とにかく、僕の意志じゃない」
ノンノンの思考は、この瞬間極めて突飛な方向へと駆け出した。彼女は地面からバッと立ち上がり、極度の驚愕で二つの尖った耳を激しく羽ばたかせ、キラキラと輝く縦瞳に唖然とした驚きを浮かべ、甲高い声で突然叫んだ。
「なんてこと! あんた、もしや無理やり拉致されて家出したの?!」
その言葉に、それまで重苦しく感傷的だった空気が一瞬にして吹き飛んだ。奏はあまりの呆れと笑いに、花崗岩の上から転げ落ちそうになった。右手で強く自分の額を打ち、声を上げて罵った。
「このクソ竜人女、何を言ってるんだ!」
クソ竜人女という言葉を聞いた瞬間、ノンノンの白い美しい顔が真っ赤に染まった。尻尾を踏まれた子猫のように怒って飛び跳ね、黒く太い尻尾を空中で激しく振り回し、ヒュンヒュンという風音を立てた。
「この……この役立たず隊長! 私を罵ったわね! 待って……今、大した罵り言葉じゃなかった? いいえ違う! 今、ハッキリとクソって言ったわよね! 聞き逃してないから!」
奏は彼女のその怒り心頭の気取らない様子を見て、心の奥底にあった陰鬱さが完全に消え去った。笑いながらシャツの裾を引き、少女の追撃を避けるように焚き火の周りを駆け回った。
その場には、怒って膨れっ面をしながらしゃがみ込み、尖った耳をしょんぼりと垂らして空に向かって息を吐き続けるノンノンだけが取り残された。
隣に座っていたフェイキは、二人の温かい交流を静かに見つめていた。乱れた白髪の下で、ようやく口元が持ち上がり、心の底から湧き上がるような純粋な微笑みを浮かべた。父が亡くなって以来、この冷たい世界で初めて触れる仲間の温もりだった。
翌朝、東の空が惨めなほど白み始めた頃、三人は支度を整え、再び出発した。
大白が一声高く嘶き、細く痩せた四蹄を硬く平らな馬車道に強く打ち付けると、車体が再び激しく揺れた。
馬車が歩みを進め始めたその瞬間、窓際の奏は唇を強く結び、膝の粗い布地を無意識に強く掴んだ。漆黒の瞳の奥からは昨夜の余裕が消え、臨戦態勢に入った極限の警戒と殺気が漂う。空間法則が大動脈でかすかに共鳴し、【穿行者】のスキルは即座に発動できる準備が整っていた。
馬車が道に沿って平穏に半時ほど進んだ時、前方の濃い霧が突然、塊となって散らばった。
極めて広く平坦な馬車道と、茂った灌木林の奥に隠れた陰湿な森の小道が、異様なほど突如として三人の目の前に現れた。
これこそが、前の周回で彼らに全滅という結末をもたらした、あの馴染み深い分岐点だった。
前方のフェイキがたづなを引くよりも早く、奏は馬車前方の厚いカーテンを開いた。半身を乗り出し、かすれた声で警告する。
「フェイキ! 大路には行かないでくれ! 言う通りにしてくれ、左のあの森の小道を通るんだ!」
フェイキは簡素な運転席に座り、突然の指示に手首を明らかに硬直させた。困惑して振り返り、平坦で商隊の痕跡が残る広い大路を一度見て、その瞳には極めて秘められたためらいが走った。
しかし、奏への絶対的な信頼から、彼は歯を食いしばり、強く頷いた。
「わ、わかりました!」
フェイキが右手を勢いよく振ると、粗い麻縄が空中で鮮やかな弧を描いた。大白が鼻を鳴らし、四蹄を石畳の隙間に滑らせると、車体は耳障りなギシギシという悶音とともに、枯れ枝や落ち葉で覆われた左側の森の小道へと突っ込み、生い茂る陰湿な森の中へと突き進んだ。
奏は力尽きたように硬い座席の背もたれに寄りかかり、胸腔を激しく上下させながら冷たい空気を大きく吸い込んだ。
しかし、彼の瞳に宿る慎重さと忌避感は微塵も減ることなく、むしろより一層濃いものとなった。冷や汗がこめかみから流れ落ち、ボロシャツの襟を完全に浸した。
同じく狭い車内に座っていたノンノンは、隊長の異常なまでの恐怖状態に気づいた。困惑して首をかしげ、二つの尖った耳がピクリと立ち上がり、キラキラと光る縦瞳で奏の血の気のない顔を見つめた。
「どうしたの隊長? すごい汗だよ? あの大路に何かあったの?」
奏は奥歯を噛みしめ、掌で顔の冷や汗を拭い、極めて低くかすれた声で説明した。
「あの道には……途方もなく恐怖の未知の危険があるんだ。だから怖い。この一見寂れた森の小道にも、同等の危険が隠れているかもしれない。絶対に少しも気を抜くことはできない」
その言葉を聞いたノンノンは、顔から甲高い笑みを一瞬にして消し去った。普段は無邪気でお気楽な彼女だが、竜人族として数えきれない死線を潜り抜けて鍛え上げた獣の本能が、奏の言葉に含まれる偽りのない恐怖を鋭く察知した。
彼女の表情が沈み、尖った耳が警戒して空中で震え、黒く太い竜の尻尾も瞬時に真っ直ぐに伸びた。
「わかった……じゃあ、私は反対側を見張る! 何か変なものを見つけたら教えるから!」
ノンノンはそう言って即座に振り返り、右側の窓から頭の大部分を外へ出し、光る縦瞳で暗く木々の多い森の奥深くを急速にスキャンし始めた。
道中、車内は息が詰まるような死静に包まれた。ただ枯れ枝を車輪が踏み砕くパタパタという乾いた音と、大白の重苦しく規則正しい呼吸音だけが森に響く。
奏の背中は冷や汗で完全に濡れきっていた。漆黒の瞳は前方の道だけを凝視し、大脳皮質は狂ったように凄惨な警報を鳴らしていた。
大路の怪物にどのような攻撃能力があるのかは知らない。もし……万が一、あの怪物が馬車道の中央に陣取っているだけでなく、この時の動向を察知していたら。もし奴の異様な身体が、目の前の森の中で再び骨折したように震えだしたら……
奏の指は手のひらに深く食い込み、皮膚から猩紅色の血が滲んだ。直線の紅光を遮るもののないこの密集した森の中で、どうすれば仲間を無傷で守り抜けるのか。
だが、その狂おしいほどの抑圧的な予感がピークに達した瞬間だった。
右側の窓で見張りをしていたノンノンの、あの大きな瞳の中の縦瞳が、一万分の一秒で急速に細まり、針穴ほどの極限の大きさへと収縮した!
かつてないほど暴虐な危機感が、彼女の小さな身体から轟音とともに爆発した!
「危ない! 右の森の奥から……何かとてつもなく恐ろしいものが、信じられない速度でこっちに飛んできてる!」
少女の甲高い声は、極度の恐怖により破裂した。
奏は驚愕し、全身の体毛が刹那の内にすべて逆立った。目で見ることなど必要なかった。前の周回で全滅する直前の冷たい死の予感は、再び彼の顔面に貼り付いた。彼は足で前方のカーテンを完全に引き裂き、運転席のフェイキに向かって、ひたすら狂ったように咆哮した。
「加速しろ! フェイキ! 振り返るな! 全力で加速するんだ————!」
前方のフェイキにも、ノンノンの突然の警告はハッキリと聞こえたはずだった。彼の顔色は瞬時に青ざめ、大きな冷や汗がこめかみから暴雨のように流れ落ちた。
「わかった————!」
フェイキは鋭く叫び、粗い麻縄を握る掌に力が入りすぎ、指先は真っ白な骨の色を晒した。彼が思い切りたづなを引くと、身体は大きく前へ傾いた。
前方の痩せこけた馬、大白は、その瞬間、主と心が通じ合ったかのようだった。その湿った馬の瞳には恐怖ゆえの血が溢れ、四本の細い足は限界を超えるほどの絶強な力を爆発させ、湿った泥の草地を力強く踏み抜き、まばゆい泥濘と土を跳ね上げた!
古びた馬車が激しく後ろへ仰け反り、軸受けから折れんばかりの激しいギシギシという悶音が鳴り響いた。
瞬く間に無数の太い古木の影が、窓の両側を眩い速度で灰色に残像として通り過ぎていった。耳元では風が激しく吹き荒れ、大白はその生に宿る全ての生命力を振り絞って、前方に微かに光が漏れる森の出口に向かって全速力で突っ込んでいく!
出口まで百メートルを切った。陰湿な森を脱出できる!
しかし、その決定的な刹那、ノンノンの絶叫が再び車内で轟音のように炸裂した!
「逃げて————!」
ドォォォォン————!
魔力の兆候もなければ、警告音もない。
九幽の地獄の深淵から湧き出したような、過剰なほど濃密で粘り気のある実体化した血色の紅光が、何の予兆もなく右側の密集する木々の隙間から姿を現した。雷霆よりも数千万倍速い霸道な姿勢で、千万分の一秒で、道中の数人がかりの参天大樹を瞬時に気化させ、真っ白な黒灰死灰へと蒸発させた! その絶望的な赤い光は、虚空の隔たりを一瞬で跨ぎ、冷酷かつ正確に彼らの馬車の目の前に現れた!
奏の思考は、その降下打撃級の力の前に瞬時に凍りついた。漆黒の瞳は極限まで縮み、目の前の世界には再び、吐き気を催すほどの惨白な死の色が浮かんだ。指一本動かすことも、【穿行者】という瞬移スキル名を脳裏に浮かべる時間さえなかった。
前方の運転席に座るフェイキは、その圧倒的な威圧感の前に、手の力を変える基本的な動作さえ不可能だった。彼はただ、目の前に迫る滅びの血色の死線を凝視することしかできなかった。
しかし、その一万分の一秒の避けようもない絶対的な死線の中において。
パァン————!
全速力で疾走していたはずの痩せ馬、大白の野獣の生存本能がその刹那、限界を超えた。紅光が放つ灼熱の高次元エネルギーに触れる一万分の一秒前、二本の蹄が湿った泥の中に突如として食い込み、眩い泥濘の欠片を巻き上げた!
過剰な恐怖から、大白は破裂せんばかりの鋭い絶叫を上げた。巨大な馬の身体は、慣性の法則に強引に逆らい、高速走行中に突如として九十度の急旋回を強行した!
ブチィッ————!
霸道無双な血色の紅光は、大白の痩せこけた鼻先の万分の一ミリの距離を擦り抜け、わずか十メートル前方の巨大な花崗岩を正面から叩き砕いた! 堅固極まりない巨石は、紅光に触れた千万分の一秒で瞬時に爆裂し、舞い散る灼熱の木屑と黒い死灰に姿を変えた!
大白の奇跡的な急ブレーキと旋回は、三人の命をギリギリのところで救ったが、馬車を完全に制御不能に陥らせた。
小道の平坦な路面を失った巨大な馬車は、既定のコースから脱出し、湿った苔と怪石だらけの荒野の森の中を草を蹴りながら狂ったように突っ走った。
「ぎゃああああ————! 馬車がひっくり返る!」
フェイキは跌落しかけ、大白は極度の恐怖からアドレナリンが沸騰し、歩速は衰えるどころか、さらに狂ったような速度で樹木密度の高いエリアを乱走し続けた。
しかし、暗灰色の木材で造られたこの巨大で古拙な車体は、低木や裸の根が密集する森を安全に通り抜ける隙間など皆無だった!
バンッ! ゴキッ————!
左側の車輪が二秒と経たずに太い楓の幹に激突し、耳を劈く碎裂音とともに、木製の滑り台は一瞬で四分五裂し、乾いた繊維の欠片となって飛び散った。
車内は一瞬にして暗闇の中の天変地異と、終わりのない転覆に飲み込まれた。
奏の身体は離心力で硬い背もたれに叩きつけられ、激痛で端正な顔が歪み、左の肋骨に熱い鈍痛が走った。隣のノンノンも無様に車内で何度も翻り、黒く長い尻尾を縮こまらせ、尖った耳が周囲との衝突で悲鳴を上げた。
「このままじゃ完全にひっくり返る! 大白! 落ち着け————!」
外にいたフェイキは、冷や汗と血で顔を塗りつぶし、倒壊した木板を肩で必死に支えていた。馬車が左側の急峻な斜面へ完全に倒れようとしたその一瞬、フェイキは歯を食いしばり、体内の全ての力を振り絞って右手を虚空に叩きつけた。
柔らかく温かい、狂暴な魔力属性を一切持たない白色の光魔法が掌からあふれ出し、微光を放つ軽紗となって、血で視界を奪われた大白のまぶたをやさしく包み込んだ。
撫でられるようなその温度が、死の淵で発狂していた白馬に一筋の理性を呼び戻した。大白は受難の二本の蹄を地面にしっかりと食い込ませ、十数メートルほど滑り、湿った草皮を剥がして、ようやく暴走する車体を安定させた。
だが、それでも全てが遅すぎたのだろうか?
ガッシャーン————!
左輪を失った古ぼけた車体は、力なく重々しい姿勢のまま、激しい轟音とともに横転した。車体の半分が、かえしの刺が密集する森の斜面の泥濘に斜めに深く沈み込んだ。
暗灰色の木材表面は既に無数の撞撃裂痕に覆われ、乾いた藁と破れた座席が散らばっている。車体は夜風の中でギシギシと悲鳴を上げ、崩壊まではあと一歩という状態だった。
極限の无奈と焦りの中、灰だらけのフェイキは顔の汚れも拭わず、びっこを引きながら破碎した運転席から飛び降りた。擦りむけた両掌で、太い枝に噛み合って変形したドアを無理やりこじ開けると、車内で気絶しかけていた奏とノンノンを、力尽きながらも優先して車外へと引きずり出した。
三人は湿った冷たい泥の上にへたり込み、土と藁の腐敗臭が混じる冷たい空気を大きく吸い込んだ。
幸いなことに、激しい衝突による広範囲の擦り傷や鈍痛を除けば、大白の奇跡的な急ブレーキのおかげで、この周回での開門殺しにおいて、奇跡的にも全員が五体満足であり、断肢も血の霧になるような惨烈な結末も免れた。
しかし、焦点が完全に戻るよりも早く、奏は胸腔が骨折したような鈍痛を必死に堪え、怪石だらけの草地を四つん這いで這い上がった。その端正な顔色はひどく青ざめ、過剰な警戒心で瞳に血走った赤い筋が浮かんでいる。
傷の確認など後回しにし、魂の最深部で凄惨な警告を発しながら、漆黒の瞳を針の穴のように縮め、森の小道の陰湿な方向を焦燥とともに凝視した。
「あの奴……紅光を放ったあの怪物は……追ってきていないのか?」
奏の声はひどくかすれ、粘り気のある血を喉に含んだかのように、静まり返った古い林区で異様に耳障りだった。
隣のノンノンは、白い腕で頭痛のする小さな頭を抱え、切り揃えられた黒髪を乱し、尖った耳をしょんぼりと垂らしていた。隊長の叫びを聞き、彼女は無理やり大きく息を吸い、目を閉じて、竜人族の鋭い野獣の感知力を出し惜しみなく周囲へと拡散させた。
十秒ほど経って、ノンノンは虚脱しきった様子でキラキラした縦瞳を開き、不思議そうに小さく首を振った。
「変だよ……あの怪物はこっちに来るつもりがないみたい。私の感知では、あの酷く悪趣味で狂暴な負のエネルギーは……それどころか、もともとのあの森の小道の直線方向に向かって、どんどん遠ざかってる……」
思いもよらない答えを聞いた奏は、石になったかのように、苔むした花崗岩の縁に呆然と立ち尽くした。
追ってこない? つまり、あの絶えず激しく震えていた非人間的な存在は、彼らに対して殺意を抱いていたわけではないということか?
傍らでフェイキが、すっかり落ち着きを取り戻し、湿った鼻先で自分の肩を温順にこすりつける大白を愛おしそうに慰め、ほぼ大破した父の馬車の残骸を見て、力なく長い溜息をついた。
その光景を見ていた奏の、喉元まで飛び出しそうだった高鳴る心臓は、ようやく胸腔へとゆっくりと帰還した。彼は言葉もなく自分の暗青色の魔導具腰ポーチを撫で、心の中で幸運を祈りつつ長い安息の息を吐いた。
生き残った。今度は、二の舞を演じることなく、誰も血の霧にならなかった。
それでも、彼の漆黒の瞳は、死静な夜風の中で、今もなお粘り気のある闇を放つ森の小道の奥深くを、執拗に、固く見つめながら、低い声でつぶやいた。
「奴は……本当に、完全に去っのか……」




