第一章26 『再び失うこと』
白い巨石と陰謀に固く閉ざされた深夜。王宮の最も奥まった底の隅に、見張りすらいない部屋があった。そこには、淀んだ死水のような冷たさが漂っている。
ここは、長公主が愛用する淡紫色の紗幕に彩られた贅沢な寝室ではない。壁は剥き出しで、一年中日の光が届かないために湿った苔の匂いがこびりついている。簡素な板のベッド以外、家具は何もなかった。ドルイラ王国の長公主にふさわしい場所ではなく、重罪人を収容するための秘密の監獄のようだった。
鉄鎖が薄暗い蝋燭の火を反射し、重々しい鈍い光を放つ。
「うっ……」
ルフィアは無力に冷たい壁際に身を預けていた。両手両足は、魔力を抑える紋章が刻まれた巨大な鉄枷に固く拘束されている。動くたびに粗末な精鉄が肌を削り、火がついたような刺痛が走る。
彼女は、この陽の光なき密室でどれほどの時間を過ごしたのか、もう数えることもできなかった。飢えと寒さ、そして肉親に裏切られた鈍い痛みが混ざり合い、意識を押し潰さんばかりの重苦しい疲労となっていた。
「妹よ、お前は本当に愚かだな。父王という老いぼれの命がすでに私の掌中にあると知りながら、よくも正面から対立しようなどと思えたものだ」
皮肉めいた嘲笑とともに、重い木扉がゆっくりと押し開けられた。金縁の華やかな長袍を纏った大皇子が、余裕の足取りで入ってくる。彼は床に崩れ落ちた妹を見下ろし、その眼差しには勝利を確信した軽蔑が満ちていた。
ルフィアは顔を上げた。美しい瞳には何の温度も宿っておらず、ただ溢れんばかりの強烈な嫌悪だけが渦巻いている。
「やはりあなただったのね……どうしてこんなことを! 父王はあんなにもあなたを可愛がっていたのに!」
「それがどうした? それで何になるというのだ?」
王子は酷く軽蔑したように笑い、袖口についた塵を払うふりをして、声を冷たく沈めた。
「王位こそが私の望みだ。父王は排除される運命にある。だが、お前が最も厄介な障害なのだよ」
ルフィアは下唇を噛み締め、憤怒のあまり薄い肩を激しく震わせた。同じ血を分けた肉親が、なぜこれほどまでに当然のように弑父奪位を語れるのか。まるで今日の天気を話すかのように。
パタッ。
淡い金色の魔法の光を放つ封筒が、王子によって湿った地面に放り投げられた。それはルフィアの足元へと転がった。
「見てみるがいい、愛しい妹よ」
ルフィアは驚きながらその封筒に目をやる。そこには、大陸中央で最も権威ある聖ローラン魔法学院の荊棘鳥の紋章が押されていた。それは入学通知書だった。赤い魔法インクで明記された日付は、明日の早朝――学院専用の飛空艇が迎えに来るというものだ。
しかし、ルフィアの頭の中は真っ白だった。そんな記憶は微塵もない。
「いつの間に……私は一度だって志願なんて……」
彼女が驚愕から立ち直るより早く、王子の顔色は突如として険しくなった。彼は不愉快そうに低く呟き、瞳には狂気にも似た嫉妬と憎悪が宿っていた。
「よく見ろ。それこそが、お前の愛する父王が死の直前に記した署名だ! 慢性毒に蝕まれ、意識も定まらぬ中でさえ、父は最後の権限を使い果たしてまでお前をあの場所へ送り込もうとしたのだ。お前をより強くするために! 私は父が王位をお前に譲ろうとさえしていたのではないかと疑っている――本当に、憎らしい、憎らしい、憎らしい!」
王子の怒声とともに、暴虐な魔力が部屋に悪質な狂風を巻き起こし、長公主の白い水母辮を乱れさせた。
チンと音がして、鋭い短刀がルフィアの前の床に投げ落とされた。一瞬のうちに、銀の重甲を纏った十数名の精鋭兵が踏み込み、足枷を嵌められた少女を死角なく取り囲む。
「お前を魔法学院へ行かせるつもりは毛頭ない」
王子は冷笑した。
「今、二つの選択肢をやろう。自らその刀で果てるか、それとも、この兵たちに手を下させるか」
月光を反射して白く光る切っ先を見つめ、ルフィアはこれが何とも言い難いほど滑稽に思えた。
「私は魔法学院なんて行きたくない! あなたの王位なんて興味もない! ただ自由な生活がしたいだけ。それさえも罪だというの!」
「妹よ、お前は私の王位を脅かす存在だ。私がそんな戯言に騙されるとでも思ったのか?」
王子の顔に暗い影が差し、彼は手を振って兵たちに命じた。長槍の切っ先が、一斉に少女の喉元へと突きつけられる。
話が通じない。
閉ざされた秘密の部屋の中で、空気は粘りつくように重苦しい。五分間もの沈黙の中、蝋燭が弾ける音だけが響いていた。
床の刀を見つめながら、ルフィアは幾度も思考を巡らせ、絶望に飲み込まれそうになっていた。街で最初に出会った、あの不器用な少年の姿が脳裏をよぎる。足が震えていたのに、それでも彼女を守ろうと立ちはだかった彼の姿を。
だが、その少年は今、彼女の手で突き放され、酷い言葉を投げつけて遠ざけられたはずだった――それこそが最良の結末だったはずだ。少なくとも、彼だけは自分のように追い詰められることはないだろう。
心臓が早鐘を打ち、全身が制御不能なほど震え、鳥肌が立つ。視界が涙で滲む中、無表情な鉄甲兵たちを見渡して悟った。狂った兄は、自分に生きる道など残してはいないのだ。
彼女は震える手で、ゆっくりと冷たい短刀へと指を伸ばした――。
もしこれが運命の導き出した答えなら、せめて彼らの思い通りにはさせない。
ガシャァァァン――!
予兆もなく、客室の西側にあった巨大な強化ガラス窓が、凄まじい蛮力によって粉砕された!
無数のきらめく破片が、月光を浴びて暴雨のように炸裂し、目映い光を放つ。
「何者だ!」
王子の叫びとともに、飛来するガラスの破片から顔を覆う。兵たちも一瞬で戦闘態勢を取り、槍と盾が重々しい音を立てる。
混乱の光の中、ルフィアの瞳は見開かれ、驚愕に染まった。
そこに立っていたのは、どこか懐かしく、そしてどこか狂気を纏った少年の姿だった。
冷や汗と泥にまみれた黒い露臍短衫を着た少年が、飛び散ったガラスの破片の上にしっかりと着地していた。乱れた髪が夜風になびき、その墨色の瞳には、幾度もの死を越えてきた灼熱の光が燃えていた。
ルフィアの呼吸が、その瞬間止まった。
信じられなかった。かつて恐怖に震えていたその手が、かつて自分の前で狼狽え、嘘すらまともに吐けなかったその顔が、今まさに奇跡のような姿で、彼女が絶望していた窮地へと降臨したのだ。
彼を傷つけるために吐いた言葉も、突き放した冷徹な態度も――何もかもが、結局は彼には通じていなかったのだ。
座り込む白髪の水母辮を見て、奏は口元を緩め、ふっと笑った。
「捕らえろ! 何をしている!」
驚きから醒めた王子が、苛立ちを隠せない様子で叫ぶ。
聖騎士兵たちが地鳴りのような怒号を上げ、重厚なブーツの音が床を震わせる。
凡人なら肉片に変えられてしまうような突撃を前にしても、奏は眉ひとつ動かさなかった。ポケットから引き抜かれた右手には、古めかしい飛鳥の紋章が刻まれた白い骨笛が握られ、その唇へと運ばれる。
ヒュー――!
清冽で、かつ万物の法則を無視するような不可思議な哨音が、王宮の夜空を貫いた。
「頼む、ノンノンとルフィアとともに、ここから逃げ出させてくれ!」
言葉が紡がれた瞬間、部屋の狂気的な空気がピタリと止まった。
奏の胸元まで迫っていた槍を突き出す兵たちが、前傾姿勢のまま、まるで鉄の彫像のようにその場に硬直した。
奏は一瞬呆然としたが、振り返るよりも早く、雪のような純白に銀の光が縁取られた衣の裾が目に留まった。
空間の歪みも、魔力の兆候もない。
ドルイラ王国の軍権の頂点、あの黒袍の将軍が、今は雪のごとき純白の戦袍を纏って静かに傍らに立っていた。幽青色の魔力剣が刺すような寒気を放っている。
「了解した」
うづき・かすみの低く穏やかな声が、静寂の部屋に響く。
次の瞬間、奏は躊躇うことなく兵たちの合間を抜け、ルフィアの前に駆け寄った。その右手が空を切り、ルフィアの手から震える短刀を叩き落とす。
古い苔の匂いが残る、粗くタコのついた手が、長公主の冷たく細い手首を掴んだ。
奏は、埃にまみれ、眠れぬ日々で赤く染まった少女を見つめ、喉が詰まって言葉が出なかった。
彼は数多くの死を経験してきた。斬首、高所からの墜落、全身を貫く鋼刺――。死のたびに脳裏を過ったのは、ほとんどの場合、この顔だった。だからこそ、今こうして触れられる距離に彼女がいることが、積み重なった恐怖と疲労を、酸っぱい安堵へと変えていった。
「逃げよう、ルフィア!」
少年を見つめるルフィアの灰色の瞳に、突如として二筋の熱い光が灯る。大粒の涙が頬を伝い、灰に汚れた顔に鮮明な跡を刻んだ。
手首から伝わる温度が、あまりに現実的で、声を上げて泣き出したいほどだった。
「馬鹿ね……どうして私のような者のために……私はただの恩知らずなのだから……」
声は壊れ、文にもならない。底に押し込めていた罪悪感がすべて溢れ出す。彼女は彼を突き放し、牢獄の外で無力に拳を握りしめる彼を冷たく見下ろした。それなのに、彼は何度だって、死地を越えてここまで駆けてきたのだ。
ルフィアが言葉を続けるより先に、奏は腕を引き、身を翻した。
ヴゥン――。
彼だけにしか聞こえない空間共鳴音が耳元で炸裂する。皮膚の下で沸騰する空間法則が、血管の中で吼える。
彼は防御結界が張られた黒檀の扉に触れることさえなく、単に「彼女を連れ去る」という絶対の意志だけで、結界を千分の一秒で廃鉄へと変えた。
幽青色の光を帯びた空間の隙間が門板を裂き、王宮の正門へと繋がる転送渦が開かれる。
神の如き光景を前に、ルフィアは沈黙した。
目の前の奏は、数日前、酒場で泥棒に対しても右往左往していた凡人の少年ではなかった。たった数日で、その背中は肉眼でも分かるほどに高く、深遠なものへと変わっていた。自由自在に場所を移動し、王室の防御法陣さえ無効化する姿。今の彼女にとって、その露臍の短衫を着た少年は、最初に出会った時よりも遥かに底知れない存在だった。
「しっかり掴まってろ!」
廊下の先、正門の光がすぐそこに見える。外周を固める正規兵たちが列をなしているが、今は誰一人として武器を構えようとはしない。
奏とルフィアの背後で、純白の戦袍を纏い、剣に手をかけた存在が神にも等しい暴力の威圧を放っているからだ。うづき・かすみが歩むたび、兵たちの膝は地面へと深く沈み込んでいく。彼らはただ、長公主が放浪の少年に手を引かれ駆けていく姿を、見送ることしかできないのだ。
吼――!
異変は唐突だった。
王宮中央広場の大理石が砕け散り、腐敗した血肉と黄銅の歯車が縫い合わされた巨大な怪物が姿を現した。鼻を突く薬物の匂いは、地底の狂った薬師が残した王宮最後の防壁であり、町一つを滅ぼしかねない兵器だった。
怪物の巨大な骨爪が、空気を裂いて二人へと振り下ろされる。
恐怖の影を前にしても、うづき・かすみは瞬きさえしない。ただ右手を袖口からゆっくりと抜き、頭上の白い兜帽を後ろへ退けた。
轟!
純白の戦袍が、一瞬にして深く怠惰な漆黒へと同化した。
白袍から黒袍へと切り替わった瞬間、放たれた威圧の波紋が海嘯のごとく広がり、宙に浮いた巨獣をその場で制止させる。腐肉は蠕動を止め、歯車は悲鳴を上げて軋む。究極の狂気の結晶であるはずの人造怪物が、絶対的な暴力の視線の前で、従順な羊のように静まり返った。
一万を超える精鋭正規兵の只中で、聞こえるのは少年と少女の荒い、しかし決意に満ちた足音のみ。
奏はルフィアの手を引いて王宮最後の階段を駆け下り、街の長通りに差す朝日に向かって叫ぶ。
「約束しただろう、一緒に冒険者になろうって!」
その言葉を聞き、陰謀と毒に冷え切っていた長公主の心臓が、ついに砕け散り、滾るような熱に変わった。彼女は少年の手を強く握り返し、涙を流しながら頷く。
「ええ!」
その返事は微かだったが、この数日間のすべての力を使っているようだった。彼女は、この氷のような宮殿で独り孤独に死ぬのだと諦めていた。だが今、朝日が顔を照らし、不器用で頑固な少年が手を握り、自由を求めて駆け抜けている――。これほど現実味のない、それでいて望んだ末路があろうか。
しかし、笑みがこぼれるその刹那。
ヴゥン――。
予期せぬ、繁茂する荊棘鳥の紋章が刻まれた金色の魔法光が、ルフィアの足元から炸裂した。
「転送魔法――?!」
高所のバルコニーの藤椅子で、残った力で防線を監視していたノンノンが悲鳴を上げる。
空間が強制的に切り裂かれる。それは聖ローラン魔法学院独占の、最高位強制契約の法則だった。入学通知書が起動された今、いかなる空間鍵の判定も、この世界の頂点に立つ契約を阻むことはできない。
金光の中でルフィアの体が透明になり、消えかけていくのを見て、奏の墨色の瞳が針の穴ほどに縮まった。
嫌だ。
させない。
鉄刺に貫かれ、解剖され、死神に首を刎ねられる、そんな惨烈なループを幾度も経てきたのだ。勝利の直前で、この白髪の水母辮の阿呆を、再び失うなんて絶対に御免だ!
街の暗巷を駆け、何度死んでも、やっとの思いでこの手を掴んだのだ。彼女の笑顔をしっかり眺める暇も、この数日どうやって耐えてきたのか聞く時間もなかった。今回こそは、絶対に放さないと言い切る機会さえまだあったはずだ。
運命になんて、この時において彼女を奪わせはしない。
「うわあああ――!」
野獣のように咆哮し、奏はありったけの情熱で飛び出した。病的なまでの執着と保護欲とともに、消えゆく少女を抱きしめる。
吸い込まれる力が極限まで膨張する。
奏が再び目を開いた時、耳に届くのは王宮の喧騒ではなく、鼓膜を裂くような高空の轟音だった。
広大な雲海が足元を飛ぶように過ぎ去り、朝日の光が皮膚を刺す。
ここは空の上だ。
頭上数十メートルには、純白の神聖木で作られ、魔法の翼を広げた飛空艇が静止していた。魔法学院の使者であり、彼女を迎えに来た船だ。
しかし、そんなことはどうでもよかった。強制転送の引力が二人を引き離そうとする中、奏は狂ったように両手を振り、垂直に墜落するルフィアを掴もうと足掻く。
だが、風はあまりに強く、重力の引き裂く力に、凡人の肉体はあまりに無力だった。
狂風の中で短衫をはためかせ、命懸けで手を伸ばす少年を見下ろし、白雲の中に落ちていくルフィアの目に決意が宿る。
寒気が一瞬で凝結した。
鋭い無数の氷柱が虚空に生成され、即席の空中階段を織りなす。ルフィアは砕け散る氷屑を踏み締め、魔力を全開にして跳躍し、千分の一秒で距離を縮める。
万メートルの上空を垂直降下する二つの影が、再び力強く抱き合った。
「奏……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
長公主は少年の首元に顔を埋め、滾る涙を落とす。それは落下の刹那、高空の狂風によって氷屑へと変えられるが、その熱さは奏の皮膚に深く刻まれた。
「どうして?! どうして謝るんだ!」
奏は狂風の中で叫ぶ。その声は酷く歪んでいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私も一緒に冒険者になりたかったけれど、父王が……入学通知書に署名を……」
ルフィアは涙を流し続け、白髪の水母辮が奏の頬を撫でる。そこには仄かな薬草の香りがした。
「このドルイラ王国の掟では、一度署名されれば……学院の使者に強制的に送られてしまう……あの勢力には抗えないの……」
彼女の指が奏の背中に突き刺さる。あと数秒でも長く、この繋がりを引き留めるように。冷たい密室の絶望も、王宮の前で交わした喜悦の返事も思い出してしまう。再会したばかりの喜びを噛みしめる暇もなく、運命は最も残酷な方法で、彼から彼女を奪い去ろうとしている。
「行きたくない……」
彼女は啜り泣く。その声は狂風に飲み込まれそうだった。
「離れたくないの……」
垂直降下の重力感が増し、眼下の王宮は小さな方角へと縮んでいく。奏は子供のように泣きじゃくる長公主を見つめ、最後の一言を問うた。
「行かなきゃいけないのか?」
ルフィアは絶望を込めて、深く頷いた。
「ええ……これが父王の、この世に残した最期の願いかもしれないから……拒むことはできない……」
苦痛に満ちながらも、王室の最後の尊厳を守ろうとするその清らかな瞳を見て、幾度もの死を越えて狂気にも似た光を宿していた奏の瞳が、静かに平穏を取り戻していった。
彼はもう、何も言わなかった。彼女が拒めない宿命ならば、隊長である自分が代わりに背負えばいいだけのこと。
心底にある離れ難い想いが自分を切り裂こうとも、そんな我儘は、彼女に更なる重荷を負わせるだけだと理解していた。
奏は口元を歪め、万メートル上空の凛とした狂風を真正面から受け、運命に挑むような強い笑みを浮かべる。
「なら、迎えに行く! その魔法学院で、大人しく待ってろ!」
その言葉に、長公主は驚愕する。しかし直後、涙で汚れた美しい顔に、一点の曇りもない純粋な喜悦の笑みが咲き誇った。
「ええ! 約束よ……約束だからね!」
「ああ、約束だ。俺たちは必ず一緒に冒険者になる! 絶対に――!」
最後の言葉を紡ぎ終えるより早く、金色の魔法契約の期限が尽きた。
抱きしめていた温もりと柔らかな力強さが、一瞬にして漫天の金色の光へと変わり、上昇気流に乗って、飛空艇の陰へと溶けていった。
奏の両腕が宙を掴む。先ほどまで抱いていた重みは、何の予兆もなく消え失せた。
奏は一人、万里の高空から、硬い大理石の床へと向かって狂ったように墜落していった。
狂風が最後の咆哮を上げるが、寒さは感じなかった。胸に空いた穴、心臓を抉られたような鈍痛の方が、死の幻痛よりも遥かにリアルだった。
地面まで百メートルという危急の瞬間、大理石柱の影で待機していたノンノンが地面を蹴り、黒い龍尾で大穴を空けながら、重力反転で空へ飛び出そうとする。
しかし。
黒い布地の方が、何万倍も速かった。
袖口に手を突っ込んでいたうづき・かすみが、落ちてくる黒い点を一瞥し、深淵のような瞳に遊び心を浮かべる。
轟!
王国の将軍は魔力を使わず、肉体の爆発的な力だけで大理石の廊下を粉砕した。その大柄な影は、空間を裂く黒い雷となって虚空を跳ねる。
「捕らえたぞ」
地面までわずか三メートルの高さで、強く、冷たく、そして平穏な手が、急速墜落する少年をしっかりと抱き止めた。墜落の恐怖は、彼が着地した瞬間に、足で踏みつけた風圧によって塵ひとつなく打ち消された。
奏が呆然としながらも、脱力した足で将軍の腕から立ち上がり、震える手で空を見上げる。
碧き朝日の向こう、魔法学院の飛空艇は、もう影も形もなく、地平線の彼方へと消失していた。
行ってしまった。
ルフィアは去った。
暗巷で目覚めてから、王宮へ突入し、高空で抱きしめるまで、二人の時間は十分もなかった。しかし運命は、死よりも遠い大陸の彼方へ、容赦なく二人を分断した。
奏はその場に立ち尽くし、墨色の瞳に宿っていた熱い光が少しずつ消えていく。代わりにあるのは、虚脱感に満ちた茫然自失。
やっと死局から引きずり出し、やっと涙声の「ええ」を待ち、やっと笑顔を取り戻したというのに――すべてが、次の瞬間には奪われてしまった。
その落差が、どんな死よりも息苦しい。
ノンノンが溜め息をつき、高強度の重力維持で酸っぱい尖った耳を揉みながら、重そうに尾を地面に垂らす。
「奏、どうするのよ? ルフィアは連れて行かれちゃったじゃない……」
仲間の問いかけに、奏は冷たい、自由の味のする空気を深く吸い込む。胸腔が激しく揺れ、爪が手のひらに深く食い込む。
目を閉じる。去りゆく喪失感が、静寂の中でより強固な何かへと書き換えられていく。
「魔法学院はどこだ?」
その声は、恐ろしいほどに穏やかだった。
ノンノンは呆れたように目を剥き、両手を組んで極東の方角を指差す。
「聖ローラン魔法学院は一番北の中央聖域よ! ドルイラ王国の辺境から、最短距離の直線ルートで歩いたって、三つの魔獣平原と二つの禁忌の海を越えるんだから……最低でも丸四年かかるわよ!」
徒歩で四年。
その数字に、奏の顔色は青ざめた。四年。時間回帰の能力を持つ偷渡客にとって、その期間が何を意味するのか。数え切れないほどの死を繰り返す旅路になるだろう。
だが、奏が頬に触れた時、指先に微かな温もりを感じた。彼女の涙の跡が、まだ風に乾ききらずに残っていた。
その触感が、十分間の再会が幻ではないと証明している。彼女は泣き、笑い、「離れたくない」と囁いたのだ。
少年の目は、鋭く決意に満ちたものへと戻った。顔についた涙を拭い去り、清秀な顔には、最期まで抗うという狂気が宿る。
「約束したんだ。必ず探し出す」
その姿に、ノンノンは言葉を失い、力なく首を振った。
「はぁ……本当、しょうがないわね」
落ち込む龍人少女を見て、奏の墨色の瞳に僅かな不安がよぎる。自分の破れた黒い露臍短衫と、彼女の引き締まった露臍の腹部を交互に見る。
「ノンノン……俺についてくると、旅は危険だ。パンにありつける保証もない。餓えに苦しみ、逃亡する毎日かもしれない……それでも、俺の仲間でいてくれるか?」
その言葉に、先ほどまで溜め息をついていた龍人少女は、太陽の下で淡く光る尖った耳を、怒りで逆立たせた。
パン!
彼女は地団駄を踏みながら地面を激しく踏みつけ、黒い太い尾を乱暴な弧を描いて振り回す。その輝く竪瞳が奏を射抜く。
「何言ってるのよ! 私を何だと思ってるのよ!」
彼女は奏のボロボロの服を掴み、真っ赤な顔で叫ぶ。
「私たちは仲間でしょ! 同じ冒険団のメンバーなんだから! 放浪者の掟じゃ、仲間ってのは餓死する時も一緒、同じ穴で朽ち果てるまでの交情って決まってるの! 私を切り捨てようたって、そうはいかないわよ、この阿呆!」
ノンノンが怒りながらも、義理堅い可愛らしい姿を見て、奏の、数々の死で擦り切れ、温度を失っていた凡人の心臓が、抑えきれない温もりに滾った。
彼は心の底から笑みを浮かべた。少し干からびた顔だが、その笑顔はかつてないほどに軽やかだった。
因果の修正が、ここから最初の起点へと戻る――。切り札があり、餓死を分かち合う仲間がいて、生きる唯一の方向も決まった。
奏は朝日に向かって向き直り、袖に手を突っ込んで佇むあの影に、深く頭を下げた。
「ありがとう、うづき・かすみ将軍。結局、迷惑をかけてしまって……」
少年の感謝に、黒袍に戻ったうづき・かすみは困ったように首を振る。彼は手を伸ばし、兜帽を退けて、利口そうな短髪と深淵のような瞳を覗かせた。
「いや、礼を言うのは私の方だ、九世奏。お前は私に、この退屈な王国での最もシンプルな任務をくれた。だが私は王女を取り戻せず、魔法学院の使者に連れ去られる様を見送るしかなかった。ドルイラ王国の将軍として、失格だよ」
その口調には隠せぬ自嘲があった。それは山が頑石を見つめるような、対等の視線だった。
奏は力強く首を振り、瞳に真摯な光を湛える。
「いいえ、あなたを責める資格なんてない。本当に助けられた! あなたの骨笛がなければ、今夜、あの部屋から出る機会さえなかったんだ」
話し終えると、奏はノンノンの腕を引いた。同款の黒い露臍の冒険装を着た二人連れは、朝露に濡れた泥を踏みしめ、ドルイラ王国の巨大な国境防線の向こう、未知なる異世界へと向かって歩み出した。
朝日は彼らの影を長く、長く引き伸ばす。
背後の、栄華を誇った白い王宮の門前で、黒袍の将軍はすぐには立ち去ろうとしなかった。
うづき・かすみはゆっくりと振り返り、相変わらず硬直する精鋭兵たちの間を抜け、二階のバルコニーで怒りと恐怖に顔を歪める大皇子を射抜く。
「さて……あの阿呆の我が儘のおかげで、これからの日々は、さらに大きな尻拭いをすることになりそうだ、九世奏」
深淵なる黒い兜帽の下から、低い笑い声が漏れる。それは上位強者の戯れと品定めの響きだった。将軍が踏み出すと、巨大な黒袍は泡のように、朝の王宮の最深部の陰影へと溶けて消えた。




