↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冒険者ギルドに転移したら、何度も死に続ける王女殿下に出会った件、知らぬ間に彼女と死の運命を共にする契約が結ばれていた  作者: ぼうせん ゆきりん
第一章 『死に寄り添う海月』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/32

第一章21 『壁走り』

  重厚かつ濃密な金属靴の足音が、王宮外周のあらゆる回廊と長街で交錯し、死角なき巨大な網を編み上げていた。

  前の周回で、あの将軍が自ら清めてくれた五分間のグリーンルートはもう存在しない。今この瞬間の王宮の防御こそが、デルイラ王国が真に剥き出しにした冷酷な牙そのものだった。


  奏は単薄な身体を暗巷の最深部にある死角へと埋め込み、黒い露臍の短衫を夜風にそよがせて肌に密着させていた。前の周回で、鍵を頼りに王宮内部を駆け抜けた記憶があるおかげで、彼の脳内にはすでに極めて鮮明な王室寝区の地形図が描き出されている。どの長廊が寝区へと通じているか、どの黒檀の大門を跨げば核心地帯に触れられるか、彼はすべてを知っていた。


  だが問題は、今の彼が走廊に一歩足を踏み入れることすら叶わないという点にあった。


「前門も後門も、完全に監視の目が隙間なく行き届いてる……」


  奏は頭をわずかに覗かせ、月光の陰影を借りて高聳する白い円拱形の宮門を凝視した。前廊では、重型の長槍を握り、銀色の胸甲を纏った衛兵の二隊が、極めて厳格な歩調で交差巡邏を行っており、その視線は陰暗な角を絶え間なく掃射している。

さらに、高牆の上の暗格には、マントに身を包んだ宮廷弓兵たちが潜んでおり、その手にある長弓はすでに微かな弧を描くほどに引き絞られていた。凡人が狂奔するために必要な、あの十五秒の隙間すらどこにも残されていない。


  彼はこの手詰まりな状況に、どうしようもない無力感を抱いていた。

  正常な状況であれば、懐にあるこの空間の鍵をいかなる大門にでも突き挿して、空間の跳躍を完成させられたはずだ。しかし、この鍵の法則には極めて致命的な盲点が存在する――金属の鍵を物質的に『鍵穴』へと挿入しなければ、あの重なる空間の漣漪を呼び覚ますことはできないのだ。


そして現在、王宮の恢弘たる前門大殿であれ、偏遠な角にある後方連絡通路であれ、大門の前には深夜だというのに少しの疲弊も見せないフル装備の銀甲の守衛が四人も直立不動で構えている。

  守衛たちの目の前に暗巷から大々的に躍り出て、彼らの眼皮の裏にある鍵穴や門の隙間へ、この十数センチメートルもある黄銅の鍵を強引にねじ込むなどできるはずがない。それは潜入ではなく、自分の命が惜しくないと、自ら冷たい長槍に向かっていく自殺行為に他ならなかった。


「クソッ……どうやってあそこを突破すればいいんだ……」

  奏は乾ききった下唇を噛み締め、青苔の生い茂る冷たいレンガ壁に拳を叩きつけ、沈悶たる不甘の溜息を漏らした。


「よっ!」

  どこか慵懶で、それでいて過剰なほどに馴れ馴れしい清脆な挨拶が、何の前触れもなく彼の真後ろから投げかけられた。


  奏はまるで雷に打たれたかのように硬直落し、全身の鳥肌が一瞬にして弾け飛んだ。彼は半ば本能的に脚を滑らせて不格好に身を低くし、側方へと飛び退きながら、右手はすでに衣服の内側に隠されたあの冷徹な骨哨へと伸びていた。

  脳内では警報が狂ったように鳴り響く。まさか、あり得ない。うづき・かすみのような怪物級の潜行を経験したばかりだというのに、またしても足音一つ、呼吸一つ察知できぬまま、至近距離まで接近を許してしまったというのか。


  しかし、彼が神経質に頭を巡らせ、紅く腫れた警戒に満ちた墨色の瞳を後ろへと向けた時、胸中に渦巻いていた殺意と恐怖は一瞬にして喉の奥で氷結した。


  そこに立っていたのは、小柄な体躯の少女だった。

  彼女は利口な黒い短髪を揺らしており、その髪は清冷な月光を受けて健康的な光沢を放っている。身に纏っているのは極めて活動的で、いささか大胆な、ヘソ出しの冒险装だ。青春の活力に満ちた繊細な腰つきと白い腹部が、何の遮りもなく外に晒されている。そして何より目を引くのは、黒い短髪の間から覗く、異国情緒を漂わせる竜人族の特徴たる尖った耳、そして背後で左右に揺れる、細密な黒い鱗に覆われた太く長い尾だった。


  間違いない、ノンノンだ。


  かつて牢獄の中で奏と時間を共にしたあの竜人族の少女が、今、大々的に腕を組み、その明晰な大眸を微かに細めて、狼狽する奏をのんびりと観察していた。

  この、どう見ても冷酷で粛殺たる白い王宮にそぐわない存在を前にして、奏の干からびた喉が上下に動き、荒誕感を孕んだ困惑の声を低く漏らした。


「……お前、なんでここにいるんだ?」

  ノンノンはにっかりと笑い、背後の太く長い黒い竜尾が空気中で軽快な弧を描いて、パシッと隣の廃木桶を叩いた。


「だって、お前が絶対にここにいる気がしたんだもん」

  彼女は至極当然のように答え、さらに半歩踏み出してくると、探求的な視線で奏の身体を上下にねめ回した。それは貧民区で手に入れた、彼女の服装と酷似している黒い露臍の短衫だった。


「アタシの服のパクリじゃん! まぁそれは置いといて、そんなコソコソ隠れて一体何するつもり? こっそり教えてあげるけど、王宮に良からぬ企みを持つのは、法典でも相当重い罪なんだからね!」

  ノンノンのどこか屈託のない笑顔を見つめながら、奏の瞳から滑頭さと市侩さが次第に収束していった。彼は長街で冷たい光を反射させる銀甲を再び見やり、胸腔の鼓動を重く響かせた。


「分かってる」

  奏は頷いた。低血糖と残留する幻痛のせいで声は沙啞だったが、その語気にはかつてない堅実な決意が宿っていた。


「でも、入らなきゃいけないんだ。あいつの顔を見て、直接確かめたいことがある……それに、もしあいつに危険が迫っているなら、俺は絶対に知らん顔なんてできない」

  この『あいつ』が誰を指しているのか、名前を口にせずとも、この文脈のなかで明白だった。白髪、水母編み、あの傲慢極まる剛烈な王女、ルフィアのことだ。


  奏の自滅的とも言える決絶な発言を聞いて、ノンノンの明晰な大眸には純粋な困惑が過った。彼女は不思議そうに首を傾げ、黒い短髪がその動きに合わせて優しく揺れた。

「なんでその王女様が絶対に危険な目に遭ってるって言い切れるわけ? 単に実家に帰っただけかもしれないじゃん」


  その言葉を聞いた瞬間、奏は言葉を失った。

  彼の瞳孔が微かに収縮し、まるで重槌で後頭部を殴られたかのように、その場に硬直して呆然と立ち尽くした。


  そうだ、その通りだ。

  これまでのいくつかの周回の中で、彼の思考はずっと恐ろしい盲点と慣性的なロジックに囚われていた。ルフィアが王宮へ連れ戻されれば、必ず秘密裏に処刑されるか、あるいは政変の渦中で非業の死を遂げるという悲惨な結末を迎えると思い込んでいたのだ。


  しかし、よく思い出してみれば……この数周にわたるループの中で、絶対的な死を象徴し、ルフィアの死を告げるはずのあの【死神】は、一体いつ出現しただろうか。


  奏が深夜、自身のスキルを確認するために、意図せず『死に戻りの契約』の秘密をあの老薬師に露呈してしまったあの瞬間。擦り切れた黒袍を纏い、凄惨な血色の巨鎌を握った死神は何の前触れもなく降臨し、極めて唯物的に彼の命を刈り取った。


  死神が出現する絶対的な条件は二つしかない。一つは、九世奏が自ら契約の秘密をいかなる形式であれ他者に漏らした時。そしてもう一つは、契約の紐付け対象であるルフィアが、この世界において物理的な死を迎えた時だ。


  そして、あの契約違反の時とルフィアの死によって引き起こされた死神の降臨を除けば、他の周回において、奏が牢獄の中で座して死を待とうとも、崖から転落しようとも、あるいは先ほどの暗黒の鉄処女の密室で何千本もの鋼刺に骨を砕かれようとも――


  死神は、一度たりとも現れなかった。

  それが意味することは、彼が関与していない王宮の時間の中で、遅効性の毒を盛られた老国王の病床の前で、あのヒステリックで外強中干な王子と対峙している間も……ルフィアは、ずっと生き続けていたということだ。


  ルフィアは自由を失い、偏殿に厳重に軟禁されてはいるものの、生命の危機には瀕していなかった。

  ルフィアは、魔力の一片すら持たず、衛兵の長枪一突きすら耐えられないような凡人が、スキル消滅のリスクを冒して道化のように白い王宮を駆け回り、果ては罠に嵌って蝶の標本のように釘付けにされることなど、端から求めていなかったのだ。


  これらすべては、九世奏という男の一面的な思い込みであり、自己満足の狂妄に過ぎなかった。

  冷や汗が再び奏の乾いた頬を伝い落ちた。彼は失神したように自分の震える手のひらを見つめた。内ポケットにある空間の鍵が重く沈み、まるで彼の無能と無知を嘲笑っているかのようだった。


  あいつが無事であるなら、今ここで踵を返し、暗巷の反対側から静かに立ち去ればいい。腰の赤色薬水と懐の骨哨を頼りに、この異世界のどこか辺境の小さな街で普通の滑頭な凡人として、穏やかに生き延びることこそが、最も賢明であり、彼の性格に合致した正しい選択ではないのか。


  暗巷に死寂が広がっていく。長街の足音は規則正しく、一打、一打と、運命が彼に退場を促すカウントダウンのように響いていた。

  奏は目を閉じ、脳裏にあ高大な将軍が去り際に告げた言葉が突如として閃いた――『命を落とすやも知れぬというのに、その程度の約束に、それほどの価値があるというのか?』


  二秒後、奏の双眸が突如として見開かれた。先ほどまでの躊躇や失神は消え失せ、夜色に浸されたその墨色の瞳に灯ったのは、前の周回よりもさらに決絶で、さらに清醒な、病的なまでの狂気だった。

  奏はあの冷たく鉄格子の張り巡らされた牢獄で、あの白髪の水母編みの馬鹿が、自分の命を守るためにわざと高慢な態度を取り、最も劣悪な言葉で自分を突き放そうとしたのを、この目で見ている。うづき・かすみの口から、あの負けず嫌いな少女が軟禁された深夜、何度も何度も監視の目の前で自分の名前を呟いていたと聞いたのだ。


  たとえルフィアに今すぐ生命の危機がないとしても、遅効性の毒薬と軍権の離反が渦巻くあの白い王宮は、自由を求め、彼と共に冒険者になろうとしたあの少女にとって、牢獄よりも息の詰まる深淵に他ならない。

  すでに命を賭してこれほどの死地を見極めてきたのだ。なら、俺は絶対にあの馬鹿を、あの腐りきった王座の傍から力任せに引き摺り出して見せる。


  奏は毅然として顔を上げ、視線をノンノンのどこか茫然とした綺麗な顔へと固定し、乾いた唇を重々しく開いた。

「俺は――」


  しかし、彼が胸腔に溜まったあの慷慨なセリフや、大義名分を孕んだ宣言を吐き出すよりも早く、対面にいた黒い短髪の少女は秀眉をぴくりと動かし、煩わしそうに片手を上げて、乱暴に彼の言葉を遮った。

「牢屋の中にいたアタシは、もうそれ聞いたし!」


  ノンノンは頬をぷっと膨らませ、竜人族の尖った耳を退屈そうに震わせると、背後の細長い尾で空気中に大きな円を描いた。

「でも安心してよ、アタシはあの冷んやりした銀甲の衛兵たちに、お前を通報するほど暇じゃないからさ!」


  彼女は滑稽に両手を広げて見せると、そのまま背を向け、小さな口で何やら名も知らぬ小唄を軽快に口ずさみながら、弾むような足取りで暗巷の反対側の出口へと向かって、のんびりと立ち去ろうとし始めた。


  その、引き止めもせず去っていく繊細な背中を見つめながら、奏は一瞬呆然とし、張り詰めすぎて千切れかけていた神経がこの瞬間、奇妙に空回りした。

「……待て」


  この、大雑把で毎日ご飯を食べることしか考えていなさそうな竜人族の少女は、実は極めて強力なスキルを持っている。

  五分間の空白期間がなくなり、前門も後門も隙間なく囲まれたこの純物理的な詰み状態において、目の前のこの黒い短髪の少女こそが、防衛線を切り裂くために彼の手元に残された唯一の神級の切り札かもしれないのだ。


  奏の脳裏に電撃的な閃きが走り、現代の高校生特有の臨機応変さが絶境の中で瞬時に死灰復燃した。

  彼は少しの躊躇もなく一歩踏み出し、影から出ようとするあの背中に向かって、切実に、一か八かの大声を張り上げた。

「ノンノン、俺を助けてくれないか!?」


  前を歩いていたノンノンの足が止まった。彼女は困惑したように振り返り、黒い短髪が頬をかすめた。その大眸には「お前、頭の薬でも間違えたの?」と言わんばかりの奇妙な色が満ちており、不可解そうに奏を見つめた。


  その審判のような視線を受け止めながら、奏は腰の解毒薬水を内側へと隠し、両手を神経質に合わせ、極めて誠実で、ほとんど低頭身な懇願の姿勢を取った。

「俺を連れて壁を越えてくれ、頼む! この高廊の内部に送り届けてくれるなら、どんな条件でもお前の言い値で構わない!」


  『壁を越える』という言葉を耳にした瞬間、それまで小唄を歌っていたノンノンの端正な顔立ちが一瞬にして崩壊した。竜人族の尖った耳が短髪の両側にだらりと垂れ下がり、先ほどまで明晰だった大眸は瞬時に生気のない二本の横線へと閉じ合わされ、全身から極度の気怠さ、今すぐにでも眠りこけそうな昏睡顔を漂わせた。


  彼女は投げやりな溜息をひとつ突き、力なく自分の白い腹部をさすった。

「実はさ……アタシ、ただの哀れな放浪者なんだよね。家も魔晶球もないし、頼れる存在もいない。毎日、次のご飯をどこで盗もうか……物乞いしようかって頭を悩ませてるんだよ」


  相手のこの突如たる消極的な態度を前にして、奏は要領を得なかった。彼は気まずそうに瞬きをし、ノンノンのやる気ゼロの昏睡顔に二秒ほど視線を留めると、心臓が自然と重く沈んでいくのを感じた。

「つまりお前の意味するところは……俺のこの無謀な賭けに付き合う気はないってことか? まぁ、そうだよな。ここは王宮の絶対防衛線だ、見つかれば確実に首が飛ぶ。唐突に変なことを言って悪かった、俺は自分で方法を――」


「違うよ! アタシが言いたいのは、アタシには失うものなんて何一つないってこと!!」

  ノンノンが猛然と片目を見開き、あのやる気ゼロの昏睡顔が突兀と霧散して、奏を忌々しそうに睨みつけた。


  『失うものはない』というその四文字を聞いた瞬間、奏の精神が跳ね起きた。

「おいおいおい! ちょっと壁を越えさせてくれるだけでいいんだ、命を捨てに行けなんて一言も言ってないぞ! 動機が重すぎるだろ、王国近衛軍と刺し違えるみたいな態度を取るなよ!」


  奏は慌てて手を振って制止した。額からようやく引いたはずの冷や汗が、再びじわりと滲み出てくる気配があった。


  ノンノンは呆れたように大きく白目を剥き、贅肉の一片すらない、わずかに凹んだ露臍の腹部に両手を当て、出来の悪い弟を見るような目で奏を見つめた。

「お前ってやつは……なんでアタシの言外の意味がこれっぽっちも理解できないわけ? バカなの!」


  奏は理不尽に怒鳴られて呆気に取られ、困惑したように首を横に振りながら、黙って自分の後頭部をかいた。その瞳には不解の色が満ちている。


  ノンノンは重い溜息を吐き出し、背後の黒く太い竜尾を苛立たしげに床へ叩きつけ、大きな埃を舞い上がらせた。

「手伝ってあげる、でも前提条件があるの――アタシをお前の冒険団に入れなさい! 分かった? 正式な団員として、だよ!」


  彼女は恨めしそうに口を尖らせ、あの尖った耳を再びだらりと垂れ下げた。その声には、本物の放浪者特有の窮困潦倒たる響きが混じっていた。

「アタシは天涯孤独で、懐には魔晶球の半分すら残ってないんだよ。このままじゃ本当に餓死しちゃうんだから! 正直に言うとね……アタシ、本当はこの暗巷で張り込んで、お前が通りかかるのを待って、パンを買うお金を借りようと思ってたんだよ……」


  『餓死しそう』と『パン代の借金』を冒険団加入の交換条件として堂々と突きつけてくる竜人族の少女を前にして、奏は完全にその場に凍りついた。

  奏の乾いた唇はわずかに開き、目元の涙の跡すらまだ乾いていないというのに、口元の筋肉はあまりにも巨大な劇的落差のせいで、抑えきれずに引きつり始めていた。


  蓋を開けてみれば、この神出鬼没のノンノンの核心的な動機は、ただ『お腹いっぱいご飯を食べるため』という、極めて純粋なものだったのだ。

  しかし、このような剥き出しの利害関係による契約こそが、この冷酷で、互いに騙し合う14号異世界において、彼に久方ぶりの確かな安心感をもたらしてくれた。


「……いいだろう!」

  奏に躊躇はなかった。彼は重重しく頷いた。手のひらを腰の暗褐色のズボンに当て、月光の下でその瞳に再び真摯な光を凝縮させた。


「約束する! この難局を乗り越えられたなら、俺、九世奏がこの世界に生きている限り、お前の恩を絶対に忘れないし、今日の約束を裏切るような真似は絶対にしない!」


  奏の確固たる返答を聞いた瞬間、それまで気怠げでお腹を空かせていたノンノンの大眸に、一瞬にして刺すような輝きが蘇った。


「交渉成立! なら、しっかり掴まりなよ!」

  言葉が落ちた千分の一秒の間、奏に心の準備をする時間など微塵も与えられなかった。


  ノンノンの小柄な身体がわずかに揺らいだかと思うと、彼女は黒い流光のようになって軽やかに上方へと跳躍した。

  奏は視界が一瞬でかき乱されるのを感じた。ほのかに甘い香りを孕んだ夜風が顔面に叩きつけられ、次の瞬間、彼の身体は極めて不条理な引力によって、生気もなく地面から引き離された。


  再び視界が定まった時、彼はすでにノンノンの華奢だが極めて頑丈な背中に、無様にのしかかっていた。そしてあの竜人族の少女は、今この瞬間、この高聳し、滑らかな大理石で築かれた王宮外周の高牆の上に、真っ直ぐに直立していたのだ。


  違う。

  これは正常な直立ではない。

  奏の瞳孔がこの瞬間、極限まで拡大した。


  現在のノンノンは、その両足に物理的な摩擦も、あるいは魔力の吸着による微光すら纏っておらず、身体全体が地面に対して垂直に九十度、何の障害もなく真っ直ぐな壁面にぴったりと張り付いていた。


  奏のこれまでの物理学的知見に従えば、重力が存在する以上、二人の身体は地面を離れた刹那に、無様な格好で十数メートルの高空から垂直に落下し、地面で潰れた二つの肉塊になるはずだった。


  しかし今、足元にある重力の法則は、ノンノンが壁面に接触した瞬間に、まるで目に見えない消しゴムで強引に消し去られ、再構築されたかのようだった。

  この竜人族の少女にとって、眼前の垂直な高牆は、決して越えられない障壁などではなかった。それは彼女が気の向くままに蹂躙できる、広大で平坦な新しい『地面』そのものだった。彼女の地心引力は、この瞬間、壁の内部へと完全に固着されていたのだ。


「目、瞑っちゃダメだよ、アタシたちの冒険の始まりなんだから!」

  ノンノンが低く叫び、黒い短髪が狂風の中で激しく後方へと引っ張られた。


  パシッ。

  あの古びた冒険皮靴が垂直な大理石の壁面を強く蹴り、清脆な打撃音を響かせた。次の瞬間、彼女は背中に奏を背負ったまま、夜色の境界を狂おしく横移動する黒い稲妻と化し、この幅など皆無に等しい白い高牆の表面を、重力の慣性を完全に無視した恐るべき速度で急速前進し始めた。


  耳元の狂風が、ふいごを引くような轟音を立てる。

  奏は両手でノンノンのしなやかな肩を強く締め付け、九十度に反転した視覚のせいで、強烈な生理的眩暈を覚えていた。彼が下を見つめると、本来前廊で厳重な巡邏を行っていた、長槍を握る銀甲の衛兵たちが、重い歩調を踏み鳴らしながら、彼らの真下わずか三メートルにも満たない地面をゆっくりと通り過ぎていくところだった。


  あの銀色の胸甲は月光を冷たく反射させ、宮廷弓兵たちの鋭い視線は地面と暗巷を往復している。


  しかし、誰一人として、万分の一の余所見すらすることなく、自分たちの頭上にある、深夜の中で白々とした光沢を放つ絶対垂直の大理石壁面を見上げようとする者はいなかった。

  このような神跡に近いスキルの前では、デルイラ王国が最も誇りとする鉄血の防御線も、この瞬間、滑稽で無意味な空置の飾り物へと完全に成り下がっていた。


  新しい黒い冒険装に身を包んだ奏は、指先から伝わる仲間の温かい体温を感じながら、下方で猛烈な速度で後方へと流れていく銀色の甲冑の群れを見つめていた。彼の瞳にあった、凡人特有の軟弱さと幻痛は、この瞬間、高牆を吹き抜ける狂風と共に、一寸ずつ霧散していった。


「王室寝区へ通じる走廊に……やっと着いたぞ!」


  ノンノンは周囲を見回し、安全を確認してからようやく奏を地面へと下ろした。奏は感謝を口にした。


「ありがとう。お前はもう戻っていいよ」


  しかし、ノンノンはその言葉を聞いて心底意外そうな表情を浮かべた。

「アタシたち……同じ冒険団の仲間じゃなかったの? まさかお前にとって……アタシってただの身代わりの道具だったわけ……うう……」


  奏は慌てて宥めた。

「ここから先は本当に危険なんだ、お前を道具扱いしたわけじゃない!」


「じゃあ、なんでアタシを追い返すの?」

  ノンノンが真摯な眼差しで問いかけてくる。奏には理解が追いつかなかった。


「アタシはお前の冒険団に入ったんだから、一緒に前へ進むべきでしょ! はぐれた仲間を取り戻しに行くんだよ!」


  奏は思わず笑みをこぼした。

「……ああ、当然だな。一緒に行こう!」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。