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第50話 変わらない日常と、ただの新米マネージャー

 大型音楽特番『東京スーパーライブ』での歴史的なパフォーマンスから、数ヶ月が経過した。

 神無月の4人が見せた圧倒的なステージは、一夜にして日本のエンターテインメント業界の勢力図を塗り替えた。連日のように音楽番組やバラエティに引っ張り出され、ファッション誌の表紙を飾り、有名企業のCMに起用される。

 かつて地下ライブハウスで50人の集客に苦労していた弱小事務所の新人グループは、今や誰もが認める国民的トップアイドルへと上り詰めていた。


 そして今日。

 数週間にわたる過密スケジュールを乗り越え、彼女たちは久しぶりの完全なオフを迎えていた。


 高天原プロダクションの1階、ミーティングルーム。

 休養日にもかかわらず、4人のメンバーは昼過ぎになると自然と事務所に集まってきていた。豪華なマンションへの引っ越しの話も出ているが、彼女たちは慣れ親しんだこの古いビルと寮の空間を好んでいた。


「あーあ、最近のテレビ局のロケ弁、どこも上品すぎて量が足りねェんだよな」


 森田祥子がパイプ椅子に深く腰掛け、大きく伸びをしながらぼやいた。彼女はショートパンツにTシャツというラフな私服姿で、長い脚を投げ出している。

 その顔に以前のような刺々しい苛立ちはなく、大きな仕事をやり遂げた後の充実感が漂っていた。


「文句を言わないの。テレビに呼ばれるのは私たちが一流になった証拠よ。でも……ひな壇でずっと作り笑いをしてるのは、確かに少し肩が凝るわね」


 タマモがコンパクトミラーを開き、前髪を直しながら息を吐いた。


「……新しいゲームのイベント、全然走れなかった。ランク落ちた。悲しい」


 和田佐千絵はテーブルに突っ伏し、スマートフォンを力なくスクロールしている。


「ふふっ。みんな、贅沢な悩みね。忙しいのは良いことよ。それに、今日はマネージャー君が腕によりをかけてお昼ご飯を作ってくれるんですもの。大人しく待ちましょう」


 イ・サラが、テーブルの汚れを布巾で優しく拭き上げながら微笑んだ。


 ミーティングルームの奥、給湯室の簡易キッチンから、食欲を刺激する凄まじい匂いが漂ってきた。


「お待たせした。今日のまかないだ」


 田村範朝が、大きなお盆を両手に持って現れた。

 黒のポロシャツから覗く丸太のような腕の筋肉が躍動し、テーブルの中央に巨大な皿と、熱々の湯気を立てるお椀が並べられていく。


「今日は『特製・豚肩ロースと夏野菜の黒酢あんかけ』だ。白米も大盛りで炊いてある」


 田村は給湯室のキッチンで、休日を事務所で過ごすタレントたちの胃袋を満たすため、手際よく調理を進めていた。

 主役となるのは、分厚くカットされた豚の肩ロース肉だ。赤身と脂身のバランスが良いこの部位に、細かく格子状の切れ目を入れ、醤油、酒、すりおろした生姜でしっかりと下味をつけて揉み込む。全体に片栗粉をまぶし、180度に熱したたっぷりの油へ一気に投入した。

 パチパチと弾ける油の音とともに、豚肉の表面がキツネ色に色づいていく。外側はカリッと香ばしく、内側にはジューシーな肉汁が閉じ込められた完璧な揚げ上がりだ。

 肉を引き上げた後の油で、乱切りにしたナス、ピーマン、パプリカ、そして厚めにスライスしたレンコンを素揚げにする。短時間で高温の油をくぐらせることで、野菜の鮮やかな色を保ちながら、持ち前の甘みを極限まで引き出している。


 深いコクを生み出す「あん」の調合は、時間との勝負だった。

 中華鍋にごま油を熱し、黒酢、醤油、きび砂糖、鶏ガラスープ、そして少量のオイスターソースを絶妙な比率でブレンドした合わせ調味料を注ぎ入れる。フツフツと沸き立ったところで水溶き片栗粉を回し入れ、強いとろみをつける。

 そこに、揚げたての豚肩ロースと彩り豊かな夏野菜を全量投入した。田村の分厚い手が中華鍋を豪快に煽ると、重みのある黒酢のあんが具材の表面に満遍なく絡みつき、照り輝くような艶を放った。


「うおおおっ! 黒酢と豚の脂の匂いがたまらねェ! いただきます!」


 森田が真っ先に割り箸を割り、大皿から分厚い豚肉を豪快に掬い上げて白米の上に乗せた。


「ハフッ! ッハァー、ウメェ! カリカリの衣に甘酸っぱい黒酢が染み込んでて、噛むと豚の肉汁が爆発するぜ! レンコンのシャキシャキ感も最高だ!」


 森田は瞬く間に白米の1杯目をかき込み、すぐさま炊飯器へとおかわりに向かった。


「……ナス、とろとろ。お肉も柔らかい」


 和田も小さな口を火傷しないようにフーフーと息を吹きかけながら、夢中で野菜と肉を頬張っている。


「本当ね。黒酢のまろやかな酸味のおかげで、豚肉の脂が全然しつこくないわ。それにこのパプリカ、すごく甘い……」


 タマモもレンゲで黒酢あんをご飯にかけ、上品に、しかし確かなペースで味わっていた。


 田村は自分の分のお椀を持ち、豚肉と野菜を口に運んだ。


(肉の火入れは完璧だ。黒酢のクエン酸と豚肉のビタミンB群が、疲労回復に直結する)


 田村は無言で咀嚼し、炭水化物とタンパク質の補給に集中していた。


 そこへ、カツン、カツンという足音がミーティングルームに近づいてきた。


「あら、相変わらずいい匂いをさせてるじゃない」

「本当に。高級中華の厨房も顔負けの黒酢の香りね」


 ドアを開けて入ってきたのは、洗練されたセットアップを着こなす特別顧問の宮崎真琴と、漆黒のタイトワンピースに身を包んだ帝国芸能の社長、柴田桜子の2人だった。


「おや、宮崎さんに柴田社長。お2人ともお休みではなかったんですか」


 田村が立ち上がり、軽く頭を下げる。


「オフの日くらい、あの子たちの様子を見に来てもいいでしょ。それに、ノリくんのまかないの時間が気になってね」


 真琴がウインクをする。


「私も、近くで打ち合わせがあったついでよ。……あなたの作ったご飯を狙ってきたわけじゃないわ」


 桜子は少しだけ視線を逸らしながらも、テーブルの上の黒酢あんかけを熱っぽい目で見つめていた。


「2人分の取り皿とご飯も用意してあります。座ってお待ちください」


 田村が給湯室へ向かおうとすると、真琴が「待って」と声をかけた。


「ノリくん。私たちには、味変用の『あれ』もお願いね」

「承知しました」


 数分後。

 田村は真琴と桜子の前に料理を並べ、テーブルの中央に小さな小瓶を置いた。


「味変にはこれを使ってください。花椒と八角を効かせた、自家製の特製ラー油です」


 真琴が小瓶を手に取り、熱々の黒酢あんの上に数滴垂らす。フワリと、痺れるような爽やかなスパイスの香りが立ち昇った。


「これよこれ! 花椒のビリッとした刺激が、黒酢の甘みをスパッと引き締めてくれるのよね!」


 真琴は豚肉を頬張り、満足そうに息を吐いた。


「複雑な辛味が加わって、味が全く別物に変わるわね。お酒が欲しくなるわ」


 桜子も静かに箸を進めている。


「おっ、アタシもそれかけてみるぜ!」


 森田が自分の皿にも特製ラー油を数滴垂らし、豪快にかき込む。


「ウオオッ! ピリッと来るぜ! でもこの花椒の匂い、最高に食欲がそそられる! おかわり!」


 タマモは「妾は辛いのは遠慮しておくわ」とそのままの味を楽しみ、和田とサラもそれぞれのペースで食事を進めていった。


 2人の大人の女性と、4人のトップアイドル。

 古びた事務所のミーティングルームで、1つのテーブルを囲んで食事をする光景は、どこからどう見ても普通の、賑やかで温かい日常の風景だった。

 日本を覆い尽くそうとした巨大な霊的災害を払った後だというのに、彼女たちの態度には微塵の奢りも、特別扱いを求める様子もない。ただ美味しいご飯を食べ、笑い合い、次のステージに向けて英気を養っているだけだ。


「……ねえ、タムラ」


 食後の冷たいお茶を飲みながら、タマモがふと田村を見上げた。


「妾たち、トップアイドルになったわ。日本中が妾たちのステージに熱狂してる」

「ああ。連日のスケジュールを見れば明らかだ」

「でも……タムラは、何も変わらないのね」


 タマモの言葉に、和田が無言で湯呑みを両手で持ちながら小さく頷いた。サラは穏やかに微笑み、森田は満足げにお腹をさすりながら、田村の淹れたお茶をゴクリと飲み干している。

 4人とも、タマモの言葉に深く同調しているようだった。


「あの特番の後も、あなたは普通にアパートから通ってきて、妾たちのスケジュールを管理して、こうして美味しいご飯を作ってくれる。……自分が日本一のアイドルのマネージャーになったって自覚、本当にあるの?」


 タマモが少しだけ口を尖らせる。


「そうね。どんな権力にも、どんなプレッシャーにも屈しない。ただ自分の担当タレントを守り抜くことだけを考えている。……だからこそ、私はあなたを諦めきれないのよ」


 桜子がコーヒーカップを置き、田村を真っ直ぐに見つめた。


「ふふっ。桜子には絶対に渡さないわ。ノリくんは私の最高のビジネスパートナーだもの」


 真琴が田村の肩にポンと手を置く。


 4人のアイドルと、2人の大物女性。

 彼女たち全員の視線と、重たい感情が、田村範朝という1人の男に向けられていた。


 しかし、田村の表情に動揺は一切なかった。


(タレントのコンディションは良好だ。ダイズの夕方の散歩にも間に合いそうだな)


 田村は立ち上がり、テーブルの上の空になった大皿と小鉢を手際よく重ねていった。

 パツパツのスーツの下で、分厚い大胸筋と丸太のような腕の筋肉が躍動する。


「トップアイドルだろうが新人だろうが、俺のやるべき業務は何も変わりませんよ」


 田村はお盆を持ち上げ、4人のアイドルたち、そして真琴と桜子に向かって、深く、綺麗な角度でお辞儀をした。

 その顔には、威圧感のあるいかつい風貌には似合わない、どこか清々しく、柔らかな笑みが浮かんでいた。


「俺はただの、新米マネージャーですから」


 午後の日差しが差し込む事務所の中に、彼女たちの明るい笑い声が響き渡る。

 田村は軽く一礼して給湯室へと下がり、流し台の前に立った。

 蛇口を捻ると、勢いよく水が流れ落ちる。スポンジに洗剤をつけ、油のついた大皿を一枚ずつ手際よく、黙々と洗い流していく。

 ミーティングルームから聞こえてくる賑やかな話し声と笑い声。給湯室に響く、スポンジが泡立つ音と皿が触れ合う微かな陶器の音。

 田村は視線を洗い物に落としたまま、ただ淡々と、自分に課せられた日常の業務を進め続けていた。

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