第49話 大田原牛のハンバーグと、ただの女の子たち
平日の13時。
五反田の路地裏にある、知る人ぞ知る黒毛和牛のハンバーグ専門店。
田村範朝は、カウンター席で分厚い鉄板と向き合っていた。隣には特別顧問の宮崎真琴が座り、赤ワインのグラスを傾けている。
ジュワァァァァッ。
熱された鉄板の上で、俵型の巨大なハンバーグが暴力的な音を立てていた。
栃木県産の最高級ブランド、大田原牛を100パーセント使用した極上のハンバーグだ。田村はナイフとフォークを手に取り、中心にスッと切れ目を入れた。
その瞬間、赤身肉の力強い断面から、網の目のように細かく入り込んでいた上質な脂が滝のように溢れ出し、熱々の鉄板の上で弾けて香ばしい匂いを爆発させた。
ソースは使わない。傍らに添えられた粗めの岩塩をパラリと振り、大きな塊のまま口に運ぶ。
(上質な脂だ。赤身の旨味が濃い)
田村は無言で咀嚼を繰り返した。
噛みしめるたびに、大田原牛特有の強烈な肉の甘みと、サラリとした脂のコクが完璧に混ざり合い、口の中を満たしていく。肉の繊維がほどける感触を確かめながら、炊きたての白米をかき込む。熱い肉汁と塩気が米粒にコーティングされ、咀嚼のスピードがさらに加速する。筋肉の修復と疲労回復に直結する、最高級の動物性タンパク質と糖質の塊だ。
田村は的確なペースでナイフを動かし、300グラムの巨大なハンバーグを瞬く間に平らげていった。
「……ふふっ。あんなに大きなお肉の塊が、あっという間になくなっちゃった。本当に、見ていて清々しい食べっぷりね」
真琴がワイングラスを傾けながら、面白そうに田村の横顔を見つめた。
食後。
田村の前に、深煎りのブラックコーヒーが運ばれてきた。カップから立ち昇る湯気と強い苦味が、口の中に残っていた大田原牛の濃厚な脂をスッキリと洗い流していく。
「それで、宮崎さん。陰陽庁からの最終報告とは何ですか」
田村がコーヒーカップを置き、本題を切り出した。
特設野外スタジアムでの特番から数日が経過している。日本全土を覆っていた巨大な『大穢れ』は、神無月のパフォーマンスと10万人の観客の熱狂によって中和され、消滅した。
だが、真琴がわざわざ食事の席を設けてまで伝えようとしているのは、その結果報告だけではないはずだ。
「ええ。東京上空の穢れが消滅したことは、ニュースでも『異常気象の解消』として報じられている通りよ。でも、問題はあの子たちのことなの」
真琴は少しだけ声を潜め、真っ直ぐに田村の目を見た。
「陰陽庁の観測データから、タマモちゃんたち四人の『波長』が完全に消えたわ」
「波長、ですか」
「ええ。あの特番のステージを境に、一つ残らず綺麗に消え去ってしまったのよ。……つまり、今のあの子たちは、超常の力を持たない『ただの女の子』になったってこと」
真琴の言葉に、田村は短く頷いた。
驚きはない。あの大舞台での極限のプレッシャーから解放され、彼女たちの無意識の力みや精神的な強張りが完全に抜けたのだろうと、田村は極めて物理的・心理的な現象として解釈していた。
「分かりました。午後のレッスンで、彼女たちのフィジカルの状態を再確認します」
田村は伝票を手に取り、席を立った。
★★★★★★★★★★★
14時。高天原プロダクションの地下防音スタジオ。
田村が重厚な扉を開けると、そこにはかつてない光景が広がっていた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
「くっそ……! 足が、もつれやがる……っ!」
スタジオの中央で、タマモと森田が肩で激しく息をし、膝に手をついてへたり込んでいた。
和田はジャージを脱ぎ捨ててTシャツ姿になっているが、全身汗だくで床に座り込んでいる。サラも壁にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返していた。
田村が異常を感じたのは、彼女たちの疲労困憊の姿ではない。
スタジオの中に、かつて当たり前のように発生していた『現象』が何一つ起きていないのだ。
タマモが感情を昂ぶらせても、青白い静電気の火花は飛ばない。髪も逆立たず、狐の耳の形になることもない。
森田が苛立って床を強く蹴り上げても、コンクリートが割れるような地響きは起きず、ただの鈍い靴音が響くだけだ。
和田が極度に疲労していても、スタジオの温度は全く下がらない。それどころか、彼女たちの熱気と汗で、部屋の空気はむしろ蒸し暑くなっている。
サラの背後に、不気味に蠢く巨大な蛇の影はない。ただの照明が作り出す、一人の女性のシルエットが床に落ちているだけだ。
(室内の温度も湿度も正常だ。ただ純粋に、体力が限界を迎えているな)
田村はスタジオの空調を適切に調整し、四人の前に歩み出た。
「ペースが落ちているぞ。まだ開始から1時間だ」
田村が声をかけると、タマモが悔しそうに顔を上げた。
彼女の美しい顔は汗に塗れ、化粧も少し落ちかけている。
「……おかしいのよ、タムラ。声が、全然響かないの。前みたいに、空間をビリビリ震わせるような音圧が出ない……」
「アタシもだ。身体が鉛みたいに重ェ。ステップのキレが、いつもの半分も出てねェよ……」
森田が自分の太ももを拳で叩く。
「……暑い。汗、止まらない。息が続かない……」
和田がタオルで顔を覆う。
「マネージャー君……。私たち、どうしてしまったのかしら。これじゃあ、素人のダンスグループと変わらないわ」
サラが力なく微笑む。
四人は、突然失われた自分たちの「出力」に戸惑い、明らかな絶望感に包まれかけていた。このままでは、あの帝国芸能のジュリア・ロッシが放つ圧倒的なパフォーマンスに太刀打ちできるはずがない。
「当然だ」
田村は手元のバインダーを開き、真っ直ぐに四人を見据えた。
「特番という大舞台を終えて、張り詰めていた極限の緊張の糸が完全に切れたんだ。今まで無意識にかけていたエンジンが止まり、本来の基礎体力の底が露呈している。今のお前たちの身体は、ただの等身大の女の子なんだ」
田村が事実を告げると、四人はハッとして目を見開いた。
「ただの……女の子……?」
タマモが自分の手のひらを見つめる。
「ああ。すぐに息が上がり、汗をかく。それがお前たちの、本来の純粋な肉体の限界だ」
スタジオに静寂が落ちた。
自分たちの力が底をつき、ただの無力な人間と同等になってしまった。その事実を突きつけられれば、普通なら恐怖と絶望に泣き崩れるだろう。
しかし。
タマモはゆっくりと立ち上がった。
彼女の目から涙はこぼれなかった。それどころか、首にかけたタオルで顔の汗を乱暴に拭うと、不敵な笑みを浮かべたのだ。
「……そう。なら、好都合じゃない」
「タマモさん?」
「神様の力を使ってジュリアに勝っても、どうせ『人間じゃないんだから当然だ』って言い訳されるだけだもの。あの金髪の小娘と同じ、ただの人間として、あの子を完全に超えてやるわ」
タマモの言葉に、床に座り込んでいた森田がニヤリと笑って立ち上がった。
「おう! 最初から筋肉を鍛え直すだけだぜ。人間の身体の限界を、アタシの根性でぶち抜いてやるよ」
和田も立ち上がり、乱れた髪をヘアゴムで結び直した。彼女の瞳には、外界への恐怖ではなく、ステージへの渇望だけが宿っている。サラも深く息を吐き、姿勢を正した。
彼女たちはすでに、ファンからの数え切れない手紙によって『アイドルとしての喜び』を知っている。超常の力などなくとも、自分たちの足でステージに立つ覚悟が、完全に出来上がっていた。
「いい目だ」
田村はバインダーを閉じ、上着のジャケットを脱いだ。
「力が抜けたからといって、立ち止まる理由にはならない。ジュリア・ロッシは初めからその人間の身体だけでスタジアムを熱狂させている。ならば、俺たちも一から肉体を作り直すだけだ」
田村は四人に冷えたスポーツドリンクを手渡した。
「休憩終わり。曲を流すぞ。フォーメーションの位置に戻れ」
田村の号令で、レッスンが再開された。
スピーカーから鳴り響くダンストラックに合わせて、四人が必死に身体を動かす。
すぐに息が上がり、前髪が汗で額に張り付く。ステップのたびに靴底が床に激しく擦れる音が響き、荒い呼吸音がマイクに乗る。
狐火も、地響きも、冷気も、影の幻覚もない。
ただ泥臭く、必死に、人間の肉体の限界に挑むようにして汗を流して踊る四人の少女の姿があった。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
田村は大きく通る声でカウントを取りながら、分厚い手でパンパンと手拍子を打つ。
「足元のブレを修正しろ! 息を長く吐け! 疲れた時こそフォームを崩すな!」
田村の厳しい檄が飛ぶ中、四人は無言で歯を食いしばり、汗の粒を飛ばしながら必死にその要求に食らいついていく。一人ずつの返事などしている余裕はない。ただ身体を動かし、互いの息遣いを感じながら、一つのステージを作り上げるために己の肉体を極限まで追い込んでいた。
(スタミナのペース配分が掴めてきたな。筋肉の連動も悪くない)
田村は彼女たちのフォームの修正点を頭の中でリストアップしながら、その動きを正確に視認していた。
スタジオの入り口で、いつの間にか真琴が腕を組んでその様子を眺めていた。
「……神の力は消えた。でも、不思議ね」
真琴が小さく呟く。
「今のあの子たちの方が、あの特番の時よりもずっと眩しく見えるわ」
真琴の言葉通り、四人の顔には疲労困憊の色が浮かんでいたが、その瞳は信じられないほど力強く、生き生きとした輝きを放っていた。
奇跡の光や、オカルト的なオーラではない。
純粋な汗と、努力と、アイドルとしての覚悟。等身大の『女の子』になった彼女たちが自らの意思で放つその輝きは、どんな超常現象よりも圧倒的で、美しい光だった。
「タムラ! 次の曲、行くわよ!」
タマモが肩で息をしながら、汗に塗れた笑顔で田村に向かって叫ぶ。
「ああ。まだまだ休ませないぞ」
田村は短く答え、音楽の再生ボタンを力強く押し込んだ。
重低音が再びスタジオを揺らし、四人の少女たちの荒い息遣いと足音が、熱気とともに空間を満たしていくのだった。




