第48話 コーレーグースの辛味と、巨大な信仰の光
特設野外スタジアムでの大型音楽特番『東京スーパーライブ』から数日が経過した、ある日の深夜。
田村範朝は、アパートのキッチンでTシャツ姿のままコンロの前に立っていた。
大鍋にたっぷりの湯を沸かし、一束の乾燥讃岐うどんを扇状に広げて投入する。
強火で湯を対流させ、麺同士がくっつかないように太い菜箸で軽くほぐしていく。吹きこぼれないよう少量の差し水をしながら、じっくりと15分間茹で上げる。
その間に、手早く薬味の準備を進める。
まな板に乗せたのは、太く身の詰まった下仁田ネギだ。斜めにスライスし、薄くごま油を引いた鉄のフライパンで軽く焼き目をつける。熱を加えることで、下仁田ネギ特有の強烈な甘みとトロトロとした食感を引き出すのだ。焦げ目がつくほどに香ばしい匂いが立ち上る。
パックの生もずくはザルにあげて流水で洗い、しっかりと水気を切る。大葉は数枚を重ねて細かく千切りにし、爽やかな香りを立たせておく。
茹で上がったうどんをザルにあけ、すぐに流水で揉むようにして表面のぬめりを取る。最後に氷水に浸して一気に締めることで、讃岐うどん特有の強いコシとエッジが生まれる。麺がツヤツヤと輝いていた。
深いどんぶりに冷えたうどんを盛り、その上に生もずく、炙った下仁田ネギ、千切りの大葉をこんもりと乗せる。
昆布と鰹節から引いた自家製の冷たいかけつゆを注ぐ。
そして仕上げだ。
田村は戸棚から小さなガラス瓶を取り出した。沖縄県産の島唐辛子を泡盛に漬け込んだ調味料、コーレーグースである。
どんぶりの上に数滴、慎重に垂らす。
泡盛の芳醇な香りと、島唐辛子の鋭い刺激がフワリと立ち昇り、冷たいうどんに劇的なアクセントを加えた。
田村はローテーブルにどんぶりを置き、手を合わせた。
サークルの中で熟睡しているダイズを起こさないよう、静かに箸でうどんと薬味をすくい上げ、勢いよくすする。
氷水で締めた麺の強烈なコシが歯を押し返し、滑らかな喉越しがたまらない。生もずくのつるりとした食感と磯の香り、炙った下仁田ネギの濃厚な甘み。そこに大葉の清涼感が加わり、最後にコーレーグースの鮮烈な辛味が全体をピシッと引き締めている。
特に下仁田ネギの甘みとコーレーグースの辛味のコントラストが絶妙だ。泡盛の風味が鼻に抜け、夜の胃腸を心地よく刺激する。美味い。
田村は無言で箸を進めながら、テーブルに置いたタブレットの画面をスワイプした。
表示されているのは、各種SNSのタイムラインと動画配信サイトのトレンドランキングだ。
東京スーパーライブの放送から数日が経過しているというのに、熱狂は全く冷める気配を見せていない。画面には、無数のテキストと映像が滝のように流れていた。
『神無月のパフォーマンス、何度見ても鳥肌が止まらない』
『タマモの最初のシャウトで完全に心を射抜かれた。声量がバケモノすぎる』
『茨のステップで画面揺れてたの、マジでヤバい。あの身体能力どうなってんの?』
『吹雪のダンスと冷気の演出、美しすぎて息するの忘れた』
『サラのコーラスがずっと耳に残ってる。女神かよ』
『気がついたら画面の前で全力でコールしてた。推すしかない』
特番の会場で撮影された短い動画クリップが、数万回、数十万回とリポストされ続けている。
動画の中には、10万人の観客が一つになって生み出した、嵐のようなペンライトの光の波が映っていた。赤、青、白、緑の光が、地鳴りのような重低音のコールに合わせて激しく揺れている。
(エンゲージメント率が異常に高い。ファンクラブの新規入会数とグッズの売上データも、先月の数十倍のペースで跳ね上がっているな)
田村はタブレットの画面を見つめながら、冷たいお茶を一口飲んだ。
この数万人の熱狂的な声と、それに伴う具体的な数字の動き。それこそが、今回の特番という大規模なプロモーションがもたらした最大の結果だった。田村はその熱量の凄まじさを客観的なデータとして受け止め、急増したファンのための警備体制の見直しや、ファンクラブ特典の発送スケジュールの確保といった、次なる実務の展開を頭の中で静かに組み立てていた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
高天原プロダクションの1階にあるミーティングルームでは、田村がカッターナイフを手に、無言で作業を進めていた。
部屋の壁際を埋め尽くすように、大小様々なダンボール箱が山のように積み上げられている。田村はそれらを一つ一つ開封し、中身を確認しては長机の上に仕分けしていく。手紙の束、花束、ぬいぐるみ、綺麗にラッピングされた箱。
特番の直後から、テレビ局や事務所のポスト宛てに、連日のようにトラックで運び込まれてきた大量のファンレターとプレゼントだ。田村は早朝から出社し、危険物や不審物が混入していないかのセキュリティチェックを黙々と行っていたのである。
ガチャリ、とドアが開き、神無月のメンバー四人がミーティングルームに入ってきた。
「おはよう、タムラ……って、な、なんなのよこの荷物の山は!?」
タマモが部屋の惨状を見て、目を丸くした。
「タ、タムラ……。これ、全部妾たち宛てに届いたものなの……?」
「ええ。テレビ局から転送されてきたものと、事務所に直接届いたものです」
田村がダンボールを畳みながら淡々と答えると、奥の部屋から入ってきた森田、和田、サラも顔を出した。
「マジかよ……昨日から運送屋のトラックが何度も停まってると思ったら、これ全部アタシらのファンからか!?」
森田が信じられないものを見る目で、長机に並べられた手紙の山を見上げる。
「……すごい量。これ、本当に私たちに?」
和田が恐る恐るダンボールの山に近づく。
「ええ。こんなにたくさんの想いを一度にもらうなんて、私、どうしていいか分からないわ……」
サラも口元を手で覆い、圧倒されたように立ち尽くした。
「宛名ごとに大まかな仕分けは終わっています。手紙は自由に読んで構いません。プレゼントは中身の確認が済んだものから持ち帰りを許可します」
田村が指示を出すと、四人はそれぞれ自分の名前が書かれた手紙の束の前に立った。
タマモが、手にしていた淡いピンク色の封筒をそっと開いた。
便箋には、少し丸みを帯びた丁寧な文字でこう書かれていた。
『タマモちゃんの歌声に、すごく勇気をもらいました。あの力強いシャウトを聞いて、明日からも仕事頑張ろうって思えました。これからもずっと応援しています。大好きです』
タマモの瞳が、少しずつ見開かれていく。
その視線は、手紙の文面から離れることなく、何度も、何度も同じ行をなぞっていた。
「……勇気を、もらった?」
タマモがポツリと呟いた。
かつて国を傾け、人々に恐ろしい災いをもたらす存在として畏怖されてきた彼女。自分の力は、人間を平伏させ、恐怖で支配するためのものだと思っていた。
しかし、今の彼女のパフォーマンスを見て届けられたのは、恐怖でも畏れでもなく、『勇気が出た』という純粋な感謝の言葉だった。
「今まで、妾の力を恐れて平伏する人間はたくさんいたわ。でも、妾の歌を聴いて『大好き』だなんて言われたの、初めて……」
タマモの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は便箋を胸に強く抱きしめ、声を殺して泣き始めた。
その言葉を聞いた他の三人も、それぞれの手紙を握りしめながら、無言でタマモの感情に共鳴していた。
森田は、自分宛ての分厚い手紙の束を両手でギュッと握りしめ、何かを堪えるようにグッと天井を仰いだ。彼女の目元が微かに赤く潤んでいる。
和田は、小さな箱に入っていた手編みのリストバンドと短い手紙を胸に押し当て、ポロポロと静かに涙をこぼしていた。
サラは、長机の上に積み上げられた無数のファンレターの山にそっと触れ、愛おしそうに目を細めて、ただ穏やかに微笑んでいた。
彼女たちの背後に、もう不気味な影や冷気は発生していない。そこにあるのは、ファンからの真っ直ぐな好意と感謝に触れ、トップアイドルとしての誇りと喜びに胸を震わせる、四人の等身大の女の子としての姿だけだった。
田村は静かに四人の様子を見守っていた。
彼女たちの内側に長年こびりついていた未練が、この無数の手紙によって確実に溶かされていくのを感じ取る。
「……泣いてる場合じゃないわね」
やがてタマモが手紙を大切に封筒に戻し、真っ直ぐに顔を上げた。
「こんなにたくさんのファンたちが、妾たちを待ってくれているんだもの。もっともっと完璧なステージを見せて、全員残らず幸せにしてあげなきゃ」
その言葉に、森田、和田、サラの三人も力強く頷き、それぞれの手紙を大事そうにカバンへとしまった。
「手紙は後でゆっくり読め。次のスケジュールの準備がある。着替えたら地下スタジオへ降りてこい」
田村はバインダーを手に取り、四人に短く告げてミーティングルームを出た。
「ええ、すぐに行くわ!」
タマモの明るい声が背中越しに聞こえる。
階段を降りる田村の背中を追うように、四人の軽やかで力強い足音が、地下スタジオへと続いていった。




