第51話 初めての筋肉痛と、極上のレトルトカリー
木曜日の朝。
田村範朝は、1Kのアパートの玄関でスニーカーの靴紐を締めていた。
リビングのサークルの中では、柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』が、短い前足におでこを乗せて丸くなっている。朝の散歩と食事を終え、すでに二度寝の体勢に入っているようだ。田村がそっと頭を撫でると、ダイズは目を閉じたまま短い尻尾をパタパタと2回だけ振った。
(適度な疲労でよく眠っている。室温は26度。問題ないな)
田村は静かにドアを閉め、高天原プロダクションの事務所へと向かった。
事務所に到着した田村は、午前中の間、特番の大成功によって殺到している各メディアからのオファー対応や、今後のスケジュール調整といったデスクワークを黙々とこなしていた。
10万人を動員した特設野外スタジアムでの大舞台から、数日が経過している。
日本を覆っていた巨大な霊的災害は観客の熱狂によって完全に打ち払われ、それと引き換えに、神無月の4人のメンバーは『祟り神』としての超常の力を完全に失った。
今はただの、少し運動神経の良い「人間の女の子」である。
数日間の完全オフを挟み、昨日から基礎的なダンスレッスンを再開したばかりだった。
★★★★★★★★★★★
時計の針が昼の12時を回った頃。
田村はタレントたちの昼食の時間を知らせるため、地下へと降りていった。
事務所の地下防音スタジオの重厚な扉を開けた田村は、足元に広がる光景を見て足を止めた。
「……あ、足が……足がもげる……っ」
「いてェ……! 腹筋が、呼吸するだけでピキピキしやがる……っ」
「……むり。指先も、動かない……」
スタジオの床には、タマモ、森田、和田の3人が、まるで難破船に打ち上げられた木材のように転がっていた。イ・サラだけは辛うじて壁を背にして座っていたが、その顔色は青白く、額には脂汗が浮かんでいる。
タマモは自分の太ももを両手でさすりながら、涙目で田村を見上げた。
「タ、タムラぁ……! 妾の体に、一体何が起きてるのよ……!? ちょっと動かしただけで、全身の筋肉がちぎれそうなほど痛いの……!」
「アタシもだ……。昨日、たった2時間ステップを踏んだだけだぜ? それなのに、今朝起きたら体が鉛みたいに重くて、ベッドから起き上がるのに10分もかかった……。なんかの呪いかよ……っ」
森田が床を這うようにして呻く。
和田はジャージのフードを被ったまま、生まれたての子鹿のようにプルプルと足先を震わせていた。
(遅発性筋肉痛だな。筋繊維の微細な損傷と炎症が起きている)
田村はバインダーを小脇に抱え、床に転がる彼女たちを見下ろした。
これまでは超常的な力と基礎代謝が肉体を底上げし、どんなに激しく動いても疲労やダメージを即座に修復していた。だが、その力が失われた今、彼女たちの肉体はただの人間と同じプロセスでダメージを蓄積するようになっているのだ。
「呪いじゃない。ただの筋肉痛だ」
田村が淡々と事実を告げると、タマモが目を丸くした。
「きんにく、つう……? 人間が運動した後に言う、あれのこと……? 妾たちが……?」
「そうだ。今のお前たちは超常の力を持たない、等身大の人間だからな。昨日、久しぶりに激しい有酸素運動を行ったことで、筋繊維が悲鳴を上げているんだ。痛くて当然だ」
「そんな……! じゃあ、妾たちは毎回レッスンするたびに、こんな痛みを味わわなきゃいけないの……!?」
タマモが絶望的な声を上げる。
「筋肉は、破壊と修復を繰り返すことで太く、強靭になっていく。今のその痛みは、お前たちの体が人間として成長し、新しい筋肉を作り出そうとしている確かな証拠だ。喜んで受け入れろ」
「喜べるかァ!! 痛ェもんは痛ェんだよ!」
森田が床をバンバンと叩くが、その腕も上がらないのか、すぐにペシャッと突っ伏してしまった。
「……痛い。すごく、痛い……」
和田が涙声で呟く。
(深刻なダメージではないが、モチベーションの低下は避けるべきだ。最速でリカバリーさせる必要がある)
田村は腕時計に目を落とした。
「今日のレッスンは午後からに変更する。そのまま床で休んでいろ。痛みを和らげ、筋肉を回復させるための食事を用意してやる」
田村はスタジオに併設された給湯室のキッチンへ向かった。
手早くコンロに火をつけ、自宅から持参した大きめの保温ポットの蓋を開ける。
中に入っているのは、昨晩から田村がじっくりと煮込んでおいた特製のボーンブロスだ。鶏の手羽先と生姜、長ネギの青い部分を弱火で数時間煮込み、コラーゲンとアミノ酸を極限まで抽出している。塩と少量の黒胡椒だけで味を調えた黄金色のスープが、キッチンに優しい香りを漂わせた。
(アミノ酸の補給はこれでいい。次はメインの糖質だ)
疲労困憊の身体に活力を与えるには、香りが複雑に絡み合ったカレーが最適だ。だが、一から仕込んでいては時間がかかりすぎる。タレントのリカバリーは時間との勝負だ。
田村はカバンから、深緑色のパッケージを取り出した。
『新宿中村屋 ポークとプルーンのインドカリー』。
日本のカレー文化を牽引してきた老舗の一品。ゴロリとした豚肉の旨味と、プルーンの甘酸っぱさが見事に融合した、レトルトの枠を完全に超えた最高傑作である。
田村は大きめの鍋にたっぷりの湯を沸かし、火を止めた。
レトルトパウチの湯煎において、最もやってはいけないのが「グラグラと沸騰したお湯で煮込み続ける」ことだ。パウチの内圧が高まりすぎると、繊細に調合された香りが飛んでしまい、豚肉の繊維も収縮して固くなってしまう。
田村は80度から90度に保ったお湯の中にパウチを静かに沈め、フタをして規定の時間、じっくりと中身を温めていく。こうすることで、ポークの脂がゆっくりと溶け出し、風味がソース全体に調和するのだ。
その間に、皿に白米を盛り付ける。
カレーのルウを最大限に活かすため、炊飯時の水分量をわずかに減らし、少し硬めに炊き上げたご飯だ。
パウチを引き上げ、火傷しないように端を切り取る。
温められたご飯の横に、ソースを静かに注ぎ入れた。
とろりとした褐色のルウとともに、大きくカットされた豚肉と、じっくり煮込まれた玉ねぎの形跡が皿の上に広がっていく。封を開けた瞬間、カルダモンやクミン、コリアンダーといった香りが爆発的に立ち昇り、そこにプルーン特有の奥深い甘酸っぱい香りが追いかけてきた。
「お待たせした。特製のボーンブロスと、ポークとプルーンのインドカリーだ」
田村がお盆に4人分の皿とスープカップを乗せてスタジオに戻ると、強烈な匂いに刺激され、床に転がっていた4人の腹の虫が一斉に盛大な音を立てた。
「なっ……何よこの匂い! 嗅いだだけで、口の中に唾液が溢れてくるわ……!」
タマモが痛む体を引きずるようにして、長机の前に這い寄ってきた。
「カレーだ! しかも、すっげェいい匂いがするぜ!」
森田も腕をプルプルと震わせながら椅子によじ登る。和田とサラも、吸い寄せられるようにテーブルについた。
「まずはスープから飲め。胃腸を温め、筋肉の修復材料になる」
田村が促すと、4人はスープカップを両手で持ち、ゆっくりと口に運んだ。
「……っ。あったかい……」
和田が小さく息を吐く。
手羽先から出た強烈な旨味とコラーゲンが、疲労で強張った胃の粘膜を優しく保護し、身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。生姜の効果で、内側からポカポカと熱が生み出されるのが分かった。
「すごいわ、これ……。飲んだそばから、身体中の細胞が水分を吸い上げているみたい……」
サラが頬をほんのりと赤く染める。
「胃が動いたな。次はカレーだ」
森田が震える手でスプーンを握り、大きくカレーを掬って口に運んだ。
「ウオオオッ! ウメェェェッ!!」
森田の目がカッと見開かれた。
「豚肉がめちゃくちゃデカくてホロホロだ! ガツンと辛ェのに、なんか奥の方に深い甘みがあって……ウメェ! マジでスプーンが止まんねェぜ!」
「本当ね……! ルウの中に、果物みたいな上品な甘みと酸味があるわ。これが豚肉の脂と絡み合って……美味しいっ!」
タマモも夢中でカレーを頬張っている。
「市販のレトルトだが、プロが研究に研究を重ねて到達したバランスだ。湯煎の温度管理さえ間違えなければ、下手な手作りを遥かに凌駕する。米も硬めに炊いてあるから、よく噛んで食え」
田村は自分の分のカレーを切り崩しながら、淡々と説明した。
4人は無言で、しかし確かな活力を取り戻しながら、皿の上のカレーを綺麗に平らげていった。
食後、田村が淹れた冷たい烏龍茶を飲む頃には、彼女たちの顔から先ほどまでの絶望的な疲労感は消え去っていた。
「……ふう。ごちそうさま。なんだか、まだ筋肉は痛いけど……少しだけ身体が軽くなった気がするわ」
タマモが口元をナプキンで拭いながら、小さく息を吐いた。
「ああ。血流が良くなった証拠だ。アミノ酸も効いている」
田村が空になった皿を重ねる。
「ねえ、タムラ」
タマモが、少しだけ真剣な表情で田村を見上げた。
「人間の身体って、すごく不便ね。ちょっと無理をしただけで、こんなに痛くて、動けなくなっちゃうんだもの。……でも」
タマモは自分の太ももをそっと撫でた。
「この痛みが、妾が人間として成長している証拠だって言うなら……悪くないわ。あのジュリアも、きっと毎日こういう痛みと戦って、あそこまで上り詰めたのよね」
タマモの言葉に、森田はニヤリと口角を上げて痛む二の腕を揉みほぐし、和田は小さく、しかし力強く頷いた。サラは空になったグラスを両手で持ちながら、穏やかな微笑みをタマモに向けている。
誰も言葉を発しなかったが、全員がタマモの言葉に無言の同意を示していた。
神の力を失い、初めて直面した『人間の脆さと痛み』。
しかし彼女たちは、田村の用意した食事による物理的なリカバリーと、真っ直ぐな言葉によって、その痛みを前へ進むための糧として受け入れていた。
「よし。少し休んだら、午後のレッスンは可動域の確認とストレッチを中心に行う」
田村がバインダーを手に取ると、4人は少しだけ顔をしかめつつも、文句を言うことなく立ち上がった。筋肉の痛みを抱えながらも、その足取りにはトップアイドルとしての確かな意志が宿っている。
田村は空になった皿を重ねてお盆に乗せ、スタジオの隅へ移動する。スピーカーの電源を入れ、午後のストレッチ用の静かなテンポの曲を流した。




