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第45話 女帝の決断と、全世界同時配信のプレッシャー

 東京湾岸に建設された、特設野外スタジアム。

 海から吹き付ける強い潮風が、ステージの巨大な鉄骨をヒュルヒュルと鳴らしていた。

 午前中のサウンドチェックとカメラリハーサルを終えた神無月の四人は、大量の汗をかきながらバックヤードのプレハブ控室へと戻ってきた。


「はぁっ、はぁっ……。やっぱり野外のステージは勝手が違うわね」


 タマモがタオルで首元の汗を拭いながら、パイプ椅子に腰を下ろした。


「ああ。デカブツが事前に組んでくれた走り込みのメニューがなかったら、端から端までの移動だけで完全に息が上がってたぜ。床の補強もバッチリで、思い切り踏み込めた」


 森田は用意されていたスポーツドリンクを一気に煽り、口元を手の甲で拭う。


「……風、強い。でも、事前の修正通りに動けた。ミストの調整、うまくいきそう」


 和田はタブレットで自分の立ち位置と風向きのデータを無言で照らし合わせている。


「コーラスの音響も、音響チームとの事前のすり合わせのおかげで、遅延なく返ってきたわ。野外でも全く問題ないわね」


 イ・サラも息を整えながら、イヤホンのコードをケースにしまった。


 野外スタジアム特有の過酷な環境と広大なステージ。しかし、田村の徹底した事前のコンディション管理と対策の成果もあり、四人は誰一人としてペースを崩すことなく、完璧にリハーサルをこなしていた。

 とはいえ、本番は夕方から夜にかけて行われる長丁場だ。スタミナの消費は激しい。


(カロリーを補給させる。炭水化物と塩分だ)


 田村範朝は仮設キッチンの前に立ち、手早く準備に取り掛かった。

 炊飯器から大きなボウルに熱々の白米を移す。そこに、あらかじめ焼いて粗くほぐしておいた甘塩の鮭と、自家製の昆布の佃煮をたっぷりと加えた。田村の分厚い手がしゃもじを操り、米粒を潰さないように素早く全体を混ぜ合わせる。

 両手を水で濡らし、塩を適量なじませる。熱いご飯を手に取り、中心に大粒の紀州南高梅を押し込んで、リズミカルに三角形に握っていく。田村の鋼のような前腕の筋肉が躍動し、数十秒に一個のペースで、巨大で美しいおにぎりがまな板の上に並べられていった。


 同時に、隣のコンロでは小鍋を火にかけている。

 出汁の中で乱切りのジャガイモを煮て、火が通ったところで合わせ味噌を溶き入れ、最後に生ワカメをサッと加える。

 そして、冷蔵庫のタッパーからキムチとカクテキを取り出し、小皿に取り分けた。


「リハお疲れ様。本番前のエネルギー補給だ」


 田村が長机に食事を並べると、四人は一斉にテーブルに集まった。


「いただきます!」


 余計な言葉はなかった。彼女たちは目の前のおにぎりを手に取り、夢中でかぶりついた。

 鮭の塩気と昆布の佃煮の甘辛さ。そこに梅干しの強烈な酸味が加わり、疲労した筋肉に急速にエネルギーが充填されていく。ジャガイモとワカメの熱い味噌汁を流し込み、合間にキムチとカクテキで味覚に刺激を与える。

 スタジアムの広さと海風で消耗した体力を取り戻すため、四人はただ黙々と、エンジンに燃料を注ぐように食事を平らげていった。


 食事が終わり、田村が空になった食器を片付けていた頃。

 控室のドアが開き、特別顧問の宮崎真琴が足早に入ってきた。その後ろには、漆黒のタイトなドレスに身を包んだ帝国芸能の社長、柴田桜子の姿があった。


「あら、食事中だったかしら」


 桜子が妖艶に微笑みながら、控室を見渡す。


「終わりました。本日はどのようなご用件で」


 田村がゴミ袋の口を縛りながら尋ねる。


「ジュリアの出番の前に、伝えておくことがあってね」


 桜子は真琴と顔を見合わせ、真っ直ぐにタマモたちを見据えた。


「上空のあの黒い雲……陰陽庁が言う『穢れ』ね。あれのエネルギー密度が、事前の予測を遥かに上回っているの。このスタジアムの10万人の熱狂だけじゃ、中和しきれない可能性があるわ」


 桜子の言葉に、控室の空気が微かに張り詰める。


「じゃあ、どうするのよ。これ以上、お客さんは入れられないわよ」


 タマモが眉をひそめた。


「物理的な動員はね」


 真琴がタブレットを操作し、壁のモニターに映像を出力した。

 そこには、世界各国の主要都市のマップと、複雑なネットワーク回線の図が表示されていた。


「帝国芸能が持つ全ネットワークと、陰陽庁の通信インフラをフル稼働させたわ。この特番の映像を、世界中の動画配信プラットフォーム、主要都市の大型ビジョンで、全世界同時生配信する手配を整えたの」


「全世界……同時配信」


 タマモが息を呑む。


「ええ。スタジアムの10万人だけじゃない。モニター越しに、数千万、いや数億人の視線があなたたちのステージに注がれる。画面越しの『推し活』のエネルギーも、通信網を伝ってこのスタジアムに集積させるシステムを組み上げたわ」


 真琴がモニターを指さしながら説明する。


「失敗すれば日本が沈むなんてレベルじゃない。世界中のエンタメ史に残る、最大のショーケースよ。……重圧で潰れたりしないわよね?」


 桜子が挑発的な視線をタマモに向ける。


 数億人の視線。

 想像を絶する規模のステージ。

 しかし、四人のアイドルたちの目に、パニックや恐怖の色は一切浮かばなかった。


(呼吸のリズムは一定だ。カロリーも足りている)


 田村は彼女たちの状態を視認し、静かに頷いた。


「……潰れるわけないでしょ」


 タマモが立ち上がり、桜子を真っ向から睨み返した。


「相手が10万人だろうが数億人だろうが、やることは同じよ。妾たちはステージで完璧に歌って、全員を平伏させるだけ」


 その言葉を裏付けるように、他の三人もそれぞれの行動で覚悟を示した。

 森田は無言で足首のストレッチを始め、床をトンッと力強く叩く。和田はジャージのファスナーを下げてステージ衣装の冷たい輝きを見せ、手首を回す。サラはイヤーモニターの装着テストをしながら、静かに微笑んでいた。


 「出席確認」のような野暮な相槌は必要ない。彼女たちはすでに、一つのグループとして完全に完成していた。


 四人の揺るぎない覚悟を見て、桜子は満足げに口角を上げた。


「いい顔ね。その闘争心、最後まで保たせてみなさい。……さあ、間もなくジュリアのステージが始まるわ。私たちのトップアイドルが、世界をどう熱狂させるか、とくとご覧なさい」


 桜子がそう言い残し、真琴と共に控室を後にする。


 数分後。

 スタジアムの方から、地鳴りのような凄まじい歓声が響き渡った。

 重低音のビートが控室のプレハブの壁をビリビリと震わせる。ジュリア・ロッシのパフォーマンスが幕を開けたのだ。

 壁のモニターには、広大なステージで圧倒的なオーラを放ちながら歌い踊るジュリアの姿が映し出されている。10万人の観客が熱狂し、深紅のペンライトの波がスタジアム全体をうねっていた。画面の端に表示されている同時接続者数のカウンターは、恐ろしいスピードで跳ね上がり続けている。


「……始まったわね」


 タマモがモニターの画面を見つめ、静かに呟いた。


 田村は手元のバインダーを開き、タイムスケジュールを確認した。


「全員、準備はいいな」


 田村の短く通る声に、四人が一斉に頷く。


 田村は控室のドアノブに手をかけ、大きく開け放った。


「行くぞ」


 その言葉を合図に、四人のアイドルたちはスタジアムのステージへと続く長い通路へ、真っ直ぐに歩み出していった。

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