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第46話 黒雲のパニックと、特等席の密室デート

 東京湾岸の特設野外スタジアム。

 夕闇が迫る空の下、10万人の観客による地鳴りのような大歓声が、海風に乗って巨大なすり鉢状の空間を揺るがしていた。

 ステージ上では、帝国芸能のスーパーアイドル、ジュリア・ロッシのパフォーマンスがまさに最終盤に差し掛かっている。深紅のペンライトが嵐の海のようにうねり、彼女が放つ圧倒的な熱気が、会場全体を熱狂の坩堝へと叩き込んでいた。


 ステージ裏の薄暗いスタンバイエリア。

 田村範朝は、次に出番を控えた四人のタレントの前に立っていた。


 田村は冷えたタオルを渡し、彼女たちのコンディションを的確に視認していく。

 センターのタマモは目を閉じ、喉の奥で小さくハミングをして音程を確かめている。森田はシャドーボクシングのように鋭く短いパンチを繰り出し、肩甲骨周りの筋肉をほぐしていた。和田はイヤーモニターのコードをジャージの襟元にピンで留め直し、深く息を吐く。イ・サラは手鏡でメイクの乱れがないかを確認し、静かに微笑んでいた。


(心拍数は正常。適度な緊張感だ。これなら問題ない)


 四人の瞳に、10万人の歓声に対する恐怖は微塵もなかった。

 その時、田村のズボンのポケットでスマートフォンが短く震えた。画面には、特別顧問の宮崎真琴からのメッセージが表示されている。


『ノリくん、メインスタンド最上階のVIP観覧室に来て。桜子があなたを呼んでるわ。全体を見渡せるから、そこから状況を確認して』


「ジュリアのステージはあと数分で終わる。俺は少し上の階の観覧室に呼ばれた。出番が来たら、そのまま真っ直ぐに行け」


 田村が短く告げると、タマモが目を開けて力強く頷いた。


「ええ、任せておきなさい。最高のステージを見せてあげるわ」


 四人に見送られ、田村はバインダーを小脇に抱え、足早にスタッフ専用のエレベーターへと乗り込んだ。


 ★★★★★★★★★★★


 最上階のVIP観覧室。

 分厚い防音ガラスで覆われたその部屋は、スタジアムの喧騒から完全に切り離された静寂の空間だった。眼下には、10万人の観客の頭上を覆う巨大なステージセットと、無数のペンライトの光の海が一望できる。


 ドアを開けると、部屋の奥の窓際に一人の女性が立っていた。

 漆黒のタイトなドレスを着こなした帝国芸能の社長、柴田桜子だ。


「遅かったわね。待ちくたびれたわ」


 桜子は妖艶な笑みを浮かべて振り返った。


「タレントの最終確認をしていました。ご用件は」

「特等席で、私と一緒に彼女たちのステージを見届けるのよ。二人きりの個室。いわば、あなたと私のデートね」


 桜子はゆったりと歩み寄り、テーブルに置かれた冷えたシャンパンを二つのグラスに注いだ。

 テーブルの上には、高級ホテルから取り寄せられた豪勢なオードブルが並んでいる。厚切りの黒毛和牛のローストビーフ、キャビアを添えたスモークサーモン、そして彩り豊かなフルーツの盛り合わせだ。


 田村は向かいのソファに腰を下ろし、勧められるままにローストビーフをフォークで刺し、一口で胃に収めた。


(上質な赤身肉だ。夜の業務の活力になる)


 田村はシャンパンには手を出さず、テーブルの上のミネラルウォーターを飲みながら、黙々とタンパク質を補給していった。


「相変わらず、色気のない男ね」


 桜子は呆れたようにため息をつきながらも、どこか嬉しそうに田村の豪快な食事風景を眺めた。


「全世界同時配信の同時接続数、すでに一億人を突破しているわ。ジュリアのステージで完全に火がついたわね。エンタメ史に残る数字よ」

「素晴らしい結果です。俺のタレントたちにとって、これ以上ない最高の舞台だ」


 田村がパプリカのマリネを口に運んだ、その時だった。

 眼下のアリーナから、割れんばかりの巨大な歓声が響き渡った。ジュリアのステージが終了し、彼女が舞台袖へと下がっていくのが見える。


 そして、次の瞬間。


 ゴゴゴゴォォォ……ッ。


 防音ガラス越しにも伝わってくるほどの、低く不気味な風切り音が鳴り響いた。

 田村が窓の外を見下ろすと、スタジアムの空気が一変していた。

 先ほどまで夕焼けが残っていた空が、インクをぶちまけたように急激に黒く染まっている。巨大な漆黒の雲が、スタジアムの真上を中心にして、恐ろしいスピードで不気味な渦を巻き始めていたのだ。


「……来たわね」


 桜子がシャンパングラスをテーブルに置き、鋭い目つきで空を睨んだ。


「あれが陰陽庁の言う『大穢れ』。世界中から集まった数億人の視線と熱狂が、かえってあの雲の膨張を早めてしまったみたいね」


 風が突風へと変わり、スタジアムの四隅にそびえ立つ巨大な照明塔がミシミシと嫌な音を立てて揺れた。

 10万人の観客たちも、上空の異変に気づき始めた。

 ジュリアのステージの余韻で熱狂していた歓声が、徐々に戸惑いと恐怖のざわめきへと変わっていく。


『おい、なんだあの雲……』

『竜巻じゃないか!?』

『風が強すぎるぞ、雨も降ってないのに真っ暗だ……』


 アリーナ席のあちこちで、観客たちが不安げに立ち上がり始めた。

 巨大なスクリーンに映し出された黒雲の映像が、人々の恐怖をさらに煽る。10万人という圧倒的な質量の群衆が、一つの巨大な不安の塊となり、パニックへのカウントダウンを刻み始めていた。


「マズイわね……。観客の不安と恐怖が、あの黒雲のエネルギーをさらに増幅させている」


 桜子が窓ガラスに手をつき、忌々しげに舌打ちをした。


「このままじゃ、ステージが始まる前に観客がパニックを起こして将棋倒しになるわ。田村、一旦ステージを止めて避難誘導を……」


「その必要はありません」


 田村の低く、絶対に揺るがない声がVIP観覧室に響いた。


(あれが真琴さんが言っていた『穢れ』か。観客の不安を吸って物理的な突風まで引き起こしている。だが、やることは変わらない)


 田村は立ち上がり、ガラス越しに荒れ狂うスタジアムを見下ろした。


「ステージを止める必要はありません」

「正気!? あの雲は、人々の感情を食い荒らす化け物なのよ! 早くしないと……」

「柴田社長。俺のタレントたちを舐めないでいただきたい」


 田村は桜子の言葉を遮り、真っ直ぐにステージの中央を指差した。


「相手がオカルト的な化け物だろうと関係ない。彼女たちは、あんなものに負けるようなヤワなアイドルじゃありません」


 その直後だった。


 ドォォォォンッ!!


 スタジアムの巨大なスピーカーから、腹の底を突き上げるような凄まじい重低音が鳴り響いた。

 同時に、ステージの中央に向かって、数十本の真っ赤なレーザーとピンスポットライトが一斉に集中する。


 暗闇に包まれかけていたステージに、四つのシルエットが鮮やかに浮かび上がった。


『――愚民ども! どこを見ているの!!』


 マイクを通したタマモの第一声。

 それは、スタジアムに吹き荒れる強風を物理的に切り裂くような、規格外の声量と圧倒的な覇気を伴っていた。


 パニックに陥り、出口へ向かおうとしていた10万人の観客の動きが、そのただ一言によってピタリと止まる。


『上を見るんじゃないわよ! 妾たちだけを見ていなさい!!』


 タマモのシャウトとともに、四人のパフォーマンスがトップギアで爆発した。


 タマモの足元から立ち昇る無数の青白い光の粒が、海風に乗ってスタジアムの巨大なすり鉢状の空間へと高く舞い上がっていく。野外の暗闇を広大なカンバスにして、彼女の圧倒的な声量が空気を物理的に震わせる。

 森田がステージの端から端までを猛烈なスピードで駆け抜け、宙返りからの強烈な着地を決める。その破壊的な衝撃が、スタジアムの重低音スピーカーと完璧に共鳴し、10万人の足元を直接揺さぶる凄まじいビートを生み出した。

 和田は野外の突風を完全に計算に入れた、しなやかな舞を披露する。彼女の指先から放たれた極寒の霧が海風に乗り、スタジアムの熱気を一気に冷やしながら、幻想的なオーロラのように客席の頭上を覆い尽くしていく。

 そして、サラの艶やかなコーラスが、タマモの突き抜けるような高音を優しく、しかし力強く包み込み、分厚い音の壁となって上空の黒雲の圧迫感を完全に弾き返した。


 空を覆う不気味な黒雲の存在感を、彼女たちが放つ圧倒的なスケールのパフォーマンスが完全に飲み込んでいく。

 観客たちの顔から、先ほどまでの恐怖と不安が完全に消え去っていた。


 数秒前までパニックになりかけていた10万人が、息をするのも忘れたようにステージに釘付けになっている。

 やがて、堰を切ったように、地鳴りのような大歓声が爆発した。


『うおおおおっ!! なんだ今の演出!!』

『神無月最高だァァァッ!!』


 赤と青のペンライトが、嵐の海のように激しく揺れ始める。


「すごい熱量だわ……」


 桜子が、息を呑んで窓の外を見つめていた。


「あの10万人の観客の恐怖を、一瞬で熱狂に塗り替えた。なんて力なの……」


 田村は腕を組み、静かにステージを見下ろしていた。


(見事な第一声だ。観客の注意をステージに引き戻した)


 桜子が、ゆっくりと田村の方へ向き直った。

 その瞳には、かつてないほどの強い熱が宿っていた。


「あなたの言った通りね。彼女たち、本当に最高のアイドルだわ」

「ええ。俺が担当していますから」


 田村の揺るぎない言葉に、桜子はふっと表情を和らげ、田村の首にスッと両腕を回してきた。

 漆黒のドレス越しに伝わる柔らかい感触と、大人の甘い香水が田村の鼻腔をくすぐる。


「本当に、底知れない男。……ねえ、もしこのまま彼女たちが勝ったら、私はどうすればいいのかしら」

「俺たちが高天原プロダクションで活動を続けるだけです。何も変わりません」


 田村は桜子の密着する身体を「取引先の過剰なスキンシップ」として即物的にスルーし、彼女の細い腕を静かに、しかし確かな力で解いた。


「ステージに集中しましょう。俺のタレントたちの晴れ舞台ですから」


 田村はグラスに水を注ぎ、再び窓の外へと視線を向けた。桜子は少しだけ口を尖らせた後、隣に並んでスタジアムを見下ろした。

 田村はバインダーを手に持ち、特番終了後のタレントたちの速やかな撤収と、疲労回復のための夕食の献立に静かに意識を向け始めていた。

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