第44話 野外スタジアムの朝食と、海を越えてきたライバル
10万人を収容する東京湾岸の特設野外スタジアム。
本番当日の早朝。海風が吹き抜けるバックヤードに設置された広大なプレハブの控え室で、田村範朝は仮設キッチンのコンロの前に立っていた。
まな板の上に置かれた肉厚な厚揚げに、やかんで沸かした熱湯を回しかける。表面の油が白く浮き上がり、酸化した油の匂いが流れ落ちていく。田村はキッチンペーパーでしっかりと水気を拭き取ると、分厚い手で厚揚げを一口大にちぎっていった。包丁で鋭利に切るよりも断面が粗くなり、煮汁が中までしっかりと染み込むからだ。
次に、鉄のフライパンにごま油を熱し、牛と豚の合挽肉を投入した。木べらで手早くほぐしながら炒めると、肉の脂が溶け出し、パチパチと香ばしい音がプレハブ内に響き渡る。肉の色が完全に変わったところで、あらかじめ丁寧にアク抜きをして斜め切りにしておいた蕗を加える。
フライパンを力強く煽ると、蕗の青々とした独特の香りが肉の旨味と混ざり合った。ちぎった厚揚げを加え、昆布と鰹で引いた一番出汁、酒、みりん、少量の砂糖を注ぐ。
煮立ってきたところで火を弱め、コクの深い赤味噌と甘みのある白味噌を絶妙な比率でブレンドして溶き入れる。汁気が少なくなり、具材に照りが出るまでじっくりと煮詰め、最後に筋を取ってサッと塩茹でしておいた絹さやを散らした。鮮やかな緑色が、茶色い味噌煮に彩りを与える。
厚揚げと合挽肉、蕗、絹さやの味噌煮の完成だ。
続いて、パックの納豆を開け、付属のタレと辛子を投入して素早くかき混ぜる。パツパツのスーツの袖口から覗く太い前腕の筋肉を躍動させ、空気を抱き込むように百回以上混ぜることで、粘りが強くなり旨味が引き立つ。
冷蔵庫からは、自宅から持参したタッパーを取り出した。中には、さんまの飯鮨が入っている。新鮮なさんまを米と麹で長期間乳酸発酵させた、北国の伝統的な郷土料理だ。しっかりと漬け込まれたさんまは、銀色の皮が美しく光り、特有の芳醇な酸味が食欲を静かに刺激する。
さらに、別のタッパーに小分けにしておいた熟成キムチとカクテキを小皿に盛り付ける。
最後に、隣のコンロで温めていた小鍋の火を止める。
具材は、ホクホクに煮崩れた大きめのジャガイモと、肉厚なワカメの味噌汁だ。ジャガイモから溶け出したデンプン質が汁に柔らかなとろみをつけている。
(発酵食品は腸の調子を整える。長丁場の朝には最適だ)
田村が長机に四人分の和朝食を並べると、奥のパイプ椅子や仮眠用のコットで休んでいた神無月のメンバーたちが、匂いに誘われるように立ち上がった。
「おはよう、タムラ。……朝からずいぶんと渋いメニューね」
タマモが椅子に座り、小皿に乗ったさんまの飯鮨を不思議そうに見つめた。
「大豆タンパクと発酵食品は、スタミナ維持に必須だ。残さず食え」
田村が箸を配ると、四人は一斉に手を合わせた。
森田は厚揚げの味噌煮を白米に乗せ、豪快に口に運んだ。
「ウメェ! 味噌の濃い味が肉と厚揚げの中まで染み込んでて、ご飯が無限に進むぜ! 蕗のシャキシャキした歯ごたえもアクセントになってて最高だ!」
森田の箸が止まらず、あっという間に茶碗が空になっていく。
タマモはさんまの飯鮨を一口齧り、目を細めた。
「……美味しいわ。乳酸発酵の酸味がすごく上品で、お魚の生臭さが全くないのね。これなら衣装を着る前でも安心だわ」
タマモは納豆をご飯にかけ、綺麗に箸を使って食べている。
「……お味噌汁、ジャガイモが甘い。あったかい」
和田は両手でお椀を包み込み、ふーふーと息を吹きかけながらゆっくりと飲んでいる。温かい汁が胃に落ちるたび、彼女の強張っていた肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
イ・サラはキムチとカクテキを交互に味わいながら、田村に優しく微笑みかけた。
「発酵食品の組み合わせ、体に力がみなぎってくるのが分かるわ。マネージャー君、朝早くから私たちのために本当にありがとう」
四人は言葉少なに、しかし確かなペースで食事を進め、出された料理を綺麗に平らげた。
食後、田村は急須で熱い烏龍茶を淹れ、それぞれの湯呑みに注いだ。
烏龍茶特有の焙煎された香ばしい匂いが湯気とともに立ち上り、肉の脂や発酵食品の強い風味を口の中からさっぱりと洗い流してくれる。
プレハブの中には、温かい烏龍茶をすする静かな音だけが響いていた。
(よし。カロリーと栄養素の補給は完了した)
田村は空になった食器を素早く片付け、時計を確認した。
外からは、10万人の観客を誘導するスタッフの怒号と、ステージの最終チェックを行う重低音が微かに漏れ聞こえてくる。
控え室のドアが開き、特別顧問の宮崎真琴が入ってきた。
「おはよう、みんな。ノリくん、朝食は済んだみたいね」
「ええ。コンディションは万全です」
「そう。陰陽庁の連中も、スタジアムの周囲に結界の展開を完了させたわ。空を見てごらんなさい」
真琴に促され、四人が窓の外を見上げる。
晴天のはずの東京の空に、スタジアムの真上の一部だけ、まるで墨を流したような異様に黒く淀んだ雲が巨大な渦を巻いていた。
「あれが、私たちの相手ね」
タマモが立ち上がり、衣装の裾を直した。彼女の瞳に、もう迷いや恐怖の色はない。
「ええ。妾の歌声で、あんな薄汚い雲、全部浄化してあげるわ」
「おう。アタシらのステージで、あの黒い塊ごと空をぶち抜いてやろうぜ」
森田が拳をボキボキと鳴らし、ニヤリと笑う。和田とサラも、静かに、しかし確かな闘志を燃やして深く頷いた。
その時、控え室のドアが突然、乱暴に叩かれた。
ノックの直後、勢いよくドアが開け放たれる。
「チャオ! 皆さん、ごきげんよう!」
姿を現したのは、本番用の華やかな深紅のドレスの上に、大きめの黒いパーカーを無造作に羽織ったジュリア・ロッシだった。
彼女の背後には、「ロッシさん、勝手に出歩かないでください!」と息を切らした帝国芸能のスタッフたちが困惑した顔で立っていた。
「ジュリア!? あなた、自分の出番前のサウンドチェックは終わったの?」
タマモが目を丸くする。
ジュリアは得意げに笑い、真っ直ぐに田村の元へと歩み寄った。
「ええ、私のステージの準備はすでに完璧ですわ! 本番前に、どうしてもタムラの顔を見て気合を入れたくて、スタッフの目を盗んで抜け出してきましたの!」
ジュリアは迷いなく田村の胸に飛び込み、再会の喜びとライバルへの闘志を全身で表現した。
(勢いが良すぎる。衣装にシワが寄るぞ)
田村は無表情のまま、「本番前にメイクが崩れますよ」と冷静に声をかけ、彼女の背中を軽くポンポンと叩いて引き離した。
「相変わらず手厳しいですわね。でも、そんなところも大好きですわ!」
ジュリアは全く気にした様子もなく、サファイアのような青い瞳を輝かせる。
「外の空気、数日前に下見した時よりもずっと重くて淀んでいますわ。でも、私がスタジアムを最高に温めておきます。あなたたちは、それに負けない最高のフィナーレを飾ってください」
ジュリアが真っ直ぐな挑発の視線を向けると、タマモも不敵な笑みを返した。
「言われなくても、あんたのステージごと食い尽くしてあげるわ」
「頼もしいですわね。タムラ、後でステージ袖から私のパフォーマンスもしっかり見ていてくださいな! 私が勝ったら、約束通りあなたを頂きますからね!」
ジュリアはウインクを残し、嵐のように控え室を去っていった。
(自分のステージに絶対の自信がある証拠だ。プロ意識が高い)
田村はジュリアの背中を見送り、手元のバインダーを開いた。
「出番前のサウンドチェックに向かう。移動するぞ」
田村の短く響く声に、四人のアイドルたちが力強く頷く。
控え室を出て、巨大なスタジアムのステージへと続く長い通路を、最強のマネージャーと最高のアイドルたちは真っ直ぐに歩き始めた。




