第43話 決戦前夜のアイラモルトと、「最高のアイドル」
金曜日の19時。
田村は広尾にある高級中華レストランの個室にいた。
重厚な円卓を挟んで向かいに座っているのは、特別顧問の宮崎真琴だ。
今日はアイドルたちに完全な休養日を与え、タレント寮の自室で静かに過ごさせている。その間、田村はプロデューサーである真琴と、明日の特番に向けた最終的なすり合わせを行っていた。
円卓の上には、美しく盛り付けられた前菜が並んでいる。肉厚なクラゲの冷菜、表面が飴色に輝く窯焼きチャーシュー、白髪ネギを添えたピータン。田村は箸を手に取り、それらを的確なペースで口に運んでいく。
(火入れが絶妙だ。流石は名店だな)
田村は咀嚼しながら、料理のクオリティを静かに評価した。
続いて運ばれてきたのは、熱された土鍋の中でグツグツと音を立てるフカヒレの姿煮だった。濃厚な上湯スープの深いコクと、金糸のようなフカヒレが舌の上でほどけていく独特の食感。田村は一切の無駄なく箸を動かし、極上のスープを最後の一滴まで黙々と味わった。
真琴は、年代物の甕出し紹興酒が入ったグラスを揺らしていた。芳醇で甘いカラメルのような香りが個室に漂っている。
「明日の野外スタジアム、陰陽庁の術者たちによる結界の設営は完了したわ」
真琴が紹興酒を一口飲み、静かに口を開いた。
「10万人の観客の熱狂……『信仰』のエネルギーを、あの大穢れにぶつけるための巨大な増幅装置よ。あとは、あの子たちがステージの上で、最高のパフォーマンスを見せるだけ」
「コンディションは仕上げてあります。怪我もありません」
北京ダックが運ばれてきた。パリパリに焼かれた皮と自家製の甜麺醤、千切りのネギとキュウリが、温かい薄餅で包まれている。田村はそれを一口で頬張った。甘味噌のコクと鴨の脂が混ざり合い、強烈な旨味となって喉を通り抜ける。
「……あの子たち、重圧に押し潰されていないかしら」
真琴が、少しだけ伏し目がちに呟いた。
「失敗すれば日本が沈む。そんな巨大な運命、本来なら20歳そこそこの女の子たちが背負っていいものじゃないわ。いくら正体が『神』だとしてもね」
「問題ありません」
田村は柔らかく煮込まれた黒酢の酢豚を噛み締めながら、短い言葉を返した。
「俺がついていますから」
★★★★★★★★★★★
広尾での食事を終えた二人は、ハイヤーで銀座へと移動した。
大通りの喧騒から一本裏に入ったビルの地下にある、看板のないオーセンティックバー。重厚な木の扉を開けると、ほのかなシガーの香りと、ジャズの低い調べが心地よく響いていた。
二人は一枚板の分厚いカウンター席に並んで座る。
「アイラモルトを、水割りで」
真琴の注文に合わせ、田村も同じものを頼んだ。
ベストを着た初老のバーテンダーが、薄張りのグラスに手彫りの丸い氷を入れる。琥珀色のシングルモルトウイスキーが注がれ、マドラーが静かにグラスの中で回る。氷とガラスが触れ合う、カランという涼しげな音が店内に響いた。
「お疲れ様です」
短くグラスを合わせ、田村は水割りを口に含んだ。
アイラモルト特有の、ピートの強い燻製香が鼻腔を抜ける。潮風のような独特の塩気と、水で割ることでふわりと開いた麦芽の甘みが、広尾で食べた中華の脂を綺麗に洗い流してくれた。
(良いウイスキーだ。香りの余韻が長く続く)
「ノリくん」
真琴が、グラスの縁を指でなぞりながら田村を見た。
「明日のステージ。もし、万が一のことが起きたら……あなただけでも逃げなさいよ」
「お断りします」
田村はグラスを置き、静かに答えた。
「タレントをステージに残して逃げるマネージャーはいません」
「……ふふっ。そう言うと思ったわ」
真琴は安心したように微笑み、ウイスキーの残りを飲み干した。
★★★★★★★★★★★
22時。
田村はタレント寮の共用ラウンジに足を踏み入れた。
明日の特番に向けた最終的な持ち物の確認と、タレントたちの就寝状況をチェックするためだ。
ラウンジの照明は落とされていたが、月明かりが差し込む窓際のソファに、四人の影が身を寄せ合うようにして集まっていた。テーブルの上には、書き込みで真っ黒になった進行台本と、何枚ものフォーメーション図が散乱している。
「ダメよ、もっとサビの出力を上げないと。10万人を完全に掌握しないと、穢れを打ち消せないわ……」
タマモが震える手で台本を握りしめ、血走った目で紙面を睨みつけていた。
「でも、これ以上ペースを上げたら最後までスタミナがもたねェぞ。後半のステップがブレちまう」
森田が眉間を揉み解しながら低く唸る。
「……間奏のフェイク、私がもっと前に出る。それで、タマモの負担を減らす」
和田がジャージの袖口を強く握りしめ、前傾姿勢で提案する。
「なら、私はコーラスのキーを半音上げて、全体の圧力を底上げするわ。でも、それで結界の波長とズレが生じないかしら……」
イ・サラが青ざめた顔で爪を噛む。
彼女たちの表情に、逃げ出したいという弱音はなかった。
しかし、その瞳には限界を超えた疲労と、異常なまでの悲壮感が漂っている。絶対に失敗が許されないという極限の重圧が、彼女たちの視野を著しく狭め、休息という選択肢を奪っていたのだ。
「……まだ起きていたのか。明日は早いぞ」
田村が声をかけると、四人はビクッと肩を震わせた。
「タムラ……」
タマモが振り返る。彼女の唇は微かに震え、足元にはチリチリと静電気が這っていた。
「……ねえ、タムラ。もし、明日妾たちが失敗したら。妾たちの力が足りなくて、あの巨大な穢れを抑えきれなかったら、どうするのよ……っ」
タマモの両手は、台本を破れるほどきつく握りしめられていた。
「妾たちは、神様なのよ。だから、絶対に日本を救わなきゃいけない。でも、あんな途方もないエネルギーを前にして、本当に10万人の熱狂だけで足りるの……? もし妾たちのせいで、世界が終わってしまったら……」
タマモの言葉に、他の三人も顔を伏せた。
森田の拳が微かに震え、和田の周囲の空気が重く淀み、サラが力なく目を閉じる。
日本を救うという途方もない使命。神としての業。それが、彼女たちの若く細い肩に重くのしかかり、今にもその心をへし折ろうとしていた。
(過度な重圧で視野が狭くなっている。止めよう)
田村は四人の前に立ち、彼女たちの顔を順番に見据えた。
月明かりに照らされた田村の背中は、いかなる脅威の前でも決して揺らぐことはなかった。
「お前らは神様じゃない」
静寂のラウンジに、田村の低く、真っ直ぐな声が響いた。
「え……」
タマモが顔を上げる。
「日本が沈むとか、世界が終わるとか。そんなバカげた規模の責任を、お前たちが背負う必要はない」
田村は一歩前に出た。
「俺が担当してる、最高のアイドルだろ」
四人の息を呑む音が聞こえた。
「お前たちの仕事は、世界を救うことじゃない。明日のステージで、目の前にいる客を全力で楽しませることだ。それ以外のノイズは、全て俺が弾き返す」
田村の言葉には、装飾も、過剰な熱気もなかった。
だが、その極めて現実的な一人のマネージャーとしての絶対の肯定が、四人を縛り付けていた強迫観念をいとも容易く叩き割った。
「……タムラ……っ」
タマモの瞳から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。それは悲痛な涙ではなく、世界を救うという呪縛から解き放たれ、ただのステージに立つ一人の女の子に戻れた安堵の涙だった。
森田が顔を上げ、深く息を吐き出す。
和田が固く握っていた拳を解き、田村を見上げる。
サラが静かに目元を拭い、穏やかな微笑みを取り戻す。
「そうだ。泣いたら早く寝ろ。明日は最高のステージにするぞ」
田村が静かに告げると、四人は涙を拭いながら、力強く頷いた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
抜けるような青空の下、田村はアパートのリビングで柴犬の赤ちゃん『ダイズ』の頭を撫でていた。
ダイズは短い尻尾を振り、田村の太い指先を嬉しそうに舐めている。
田村はサークル内の室温と水を確認し、立ち上がった。
「行ってくるぞ」
「ワンッ!」
元気な鳴き声に見送られ、田村は静かにアパートのドアを閉めた。




