表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/47

第42話 かつてない重圧と、揺るがぬ防波堤

 木曜日の14時。

 田村は都内の一等地にそびえ立つ外資系高級ホテルの地下駐車場に車を停め、専用エレベーターで最上階へと向かっていた。


 向かう先は、厳重なセキュリティに守られたペントハウスだ。

 分厚い絨毯の敷かれた廊下を抜け、案内された部屋の扉が開くと、広々としたリビングの奥、東京の街並みを一望できる巨大な窓を背にして、一人の女性が立っていた。彼女が振り返った瞬間、プラチナブロンドの髪が美しく揺れ、サファイアのような青い瞳がパッと輝いた。


「タムラ! よく来てくれましたわ!」


 帝国芸能のスーパーアイドル、ジュリア・ロッシである。

 彼女は先日イタリアへ帰国したばかりだったが、特番の直前プロモーションと極秘の打ち合わせのため、数日間の予定で再び日本に降り立っていたのだ。

 黒のシックなサマードレスに身を包んだジュリアは、迷うことなく田村の分厚い胸板に飛び込んできた。


「お久しぶりです。スケジュールが詰まっている中、わざわざ俺を呼び出した理由はなんですか」


 田村は彼女の体を軽く受け止め、極めて事務的なトーンで尋ねた。


「どうしても、本番の前にあなたに会っておきたかったんですの」


 ジュリアは少しだけ身を離し、真剣な眼差しで田村の顔を見上げた。


「昨日、特番の会場となる野外スタジアムを下見してきましたわ。でも……なんだか、とても恐ろしいものを感じましたの。言葉ではうまく説明できませんけれど、空気がひどく重くて、淀んでいて。まるで、巨大な嵐か何かが、あの場所に向かって口を開けて待っているような……そんな悪寒がしたんです」


(台風の予兆か。野外ステージは天候の影響を直接受けるからな)


 田村は彼女の研ぎ澄まされた直感を、トップアーティスト特有の気象変化に対する鋭敏な感覚だと受け取った。


「野外でのライブは環境の変化が激しいですからね。当日のコンディション管理には十分気をつけてください」

「ええ。でも、どんな嵐が来ようと、私は絶対に負けません。タムラに最高のステージをお見せしますわ」


 ジュリアは力強く微笑み、テーブルの上に用意されていたルームサービスのコーヒーを田村に勧めた。

 短い時間ではあったが、田村は彼女と向かい合って静かにコーヒーを飲み、数日後に迫った特番への互いの健闘を誓い合った。


(少し長居したな。スタジオのタレントたちの様子を見に戻ろう)


 田村はグラスを空にすると、足早にホテルを後にした。


★★★★★★★★★★★


 高天原プロダクションの事務所に戻り、地下防音スタジオの重厚な扉に手をかけた瞬間。

 田村は微かに眉をひそめた。

 分厚い鉄扉越しにでも分かるほど、内側から尋常ではない冷気と、ビリビリとした振動が伝わってきたからだ。


 扉を押し開けると、スタジオの中は悲壮なまでの極限状態だった。


「……はぁっ! はぁぁぁっ!!」


 センターのタマモが、喉が枯れるのも構わず、血を吐くような凄まじい気迫でシャウトを響かせていた。彼女の美しい金髪は根元から逆立ち、毛先から強烈な青白い火花がバチバチと弾け飛んでいる。その火花が壁の防音材を焦がし、焦げ臭い匂いが室内に充満していた。


「まだまだァッ!! こんなもんじゃ足りねェ!!」


 森田は顔面を蒼白にさせながら、床のコンクリートがひび割れるほどの強烈なステップを休むことなく踏み続けていた。彼女の口からは荒い息が漏れ、全身の筋肉が悲鳴を上げているのが素人目にも分かる状態だ。


「……もっと、速く。もっと……完璧に……っ」


 和田は焦点の定まらない目で宙を見つめ、ガタガタと激しく痙攣しながらもターンを繰り返していた。彼女の足元からは猛烈な吹雪のような冷気が渦を巻き、周囲の機材の金属部分が真っ白に凍りついている。


 そしてイ・サラは、フラフラとした足取りでありながら、何かに取り憑かれたようにコーラスのピッチを執拗に合わせ続けていた。彼女の背後からは、部屋の照明を全て飲み込むほどの巨大で漆黒の影が溢れ出し、無数の蛇のようにウネウネと壁や天井を這い回っている。


「……ノリくん」


 部屋の隅で、腕を組んだ宮崎真琴が苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。


「あの子たち、私服のままもう六時間もぶっ通しで踊り続けてるのよ。私が音楽を止めても、アカペラで無理やり続けて……私じゃ止められないわ」


 真琴の声には、深い懸念が滲んでいた。

 陰陽庁から下された「10万人規模の野外スタジアム」への変更。そして、「失敗すれば日本が沈む」という巨大な穢れに対する絶対的な防波堤としての役割。

 そのかつてない重圧と恐怖から逃げ出さず、立ち向かう覚悟を決めたが故に、彼女たちのプロ意識は最悪の形で暴走していたのだ。「絶対に失敗できない」「もっと完璧にならなければ」という強迫観念が、彼女たちの理性を奪い、自らの肉体を壊す勢いでオーバートレーニングへと駆り立てていた。


(極度の集中と重圧によるオーバーワークだ。強制的に休ませる)


 田村は一切の躊躇なく、真っ直ぐに暴走する四人の中央へと足を踏み入れた。

 極寒の冷気がスーツの表面を凍らせ、漏電スパークが頬を掠める。床の激しい揺れが三半規管を揺さぶるが、田村の巨体は岩壁のように微塵もブレることなく前進した。


「森田!」


 田村は、足を引きずりながらもさらに強く床を踏み込もうとした森田の右腕を、背後からガシッと掴み取った。


「離せっ! アタシは……まだ、まだ足りねェんだよ!」

「これ以上の運動は筋肉と靭帯を破壊する。深呼吸しろ」


 森田の常軌を逸した膂力が田村の腕を振りほどこうとするが、田村は分厚い胸板で彼女の背中を固定し、力任せに押さえ込んだ。強引な物理的拘束を受け、森田の膝がガクンと折れる。


「和田」


 次に田村は、倒れる寸前の体勢でスピンを打とうとした和田の前に立ち塞がり、その小さな身体を正面から抱き止めた。

 和田の手首を両手でしっかりと握り、自分の温かい体温を直接流し込む。


「田村……? むり、止まったら、怖いこと思い出すから……もっと踊らなきゃ……」

「息を長く吐け。ゆっくりだ。お前はもう十分に踊った」


 田村は怯える和田の目を真っ直ぐに見据え、低い声で呼吸のリズムを先導した。和田が少しずつそれに合わせ始めると、周囲の異常な冷気が僅かに和らいだ。


「サラ」


 田村は立ち上がり、虚空を見つめているサラの前に立った。

 彼女の背後で蠢く巨大な影が、威嚇するように田村に向かって伸びてくる。田村はそれを一切意に介さず、サラの冷え切った両頬を大きな手で軽く挟み込んだ。


「……っ」


 サラの焦点が、ゆっくりと田村の顔に定まる。


「周りを見るな。休め」


 田村の言葉に、サラの瞳に微かな光が戻り、蠢いていた影がスゥッと縮んでいった。


 最後に、田村は部屋の中央でフラフラになりながらも歌い続けているタマモの前に立った。

 タマモは田村を見上げて、血の滲むような声で叫んだ。


「タムラ……どきなさい! 10万人を圧倒するには、もっと、もっと完璧にならなきゃダメなのよ! 妾の歌で、日本を……!」


 タマモの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。恐怖に震えながらも、彼女は逃げることなく、その細い肩にすべてを背負い込もうとしていた。


「タマモさん」


 田村の深く、よく通る声が、張り詰めていたスタジオ内に響き渡った。


「お前たちのパフォーマンスは、すでに世界一だ。俺が保証する」


 四人の息を呑む音が聞こえた。


「今の異常な練習は、ただの自己破壊だ。筋肉も声帯も限界を超えている。これ以上のオーバートレーニングは、本番前に体を壊すだけだぞ」


 田村はタマモの前に片膝をつき、四人の顔を順番に見渡した。


「最高のコンディションでステージに立つのが、プロのタレントの仕事だろう。技術はもう十分に仕上がっている。あとは、休んで肉体を回復させろ。お前たちがステージで倒れないよう管理するのが、俺の役目だ」


 田村の絶対的な肯定と、極めて物理的で合理的な制止の言葉。

 それが、四人の心にピンと張り詰めていた狂気じみた糸を、プツンと切った。


「……タムラ」


 タマモの膝から力が抜け、その場にペタンと座り込んだ。

 森田も壁にもたれかかってズルズルと崩れ落ち、和田は田村の足元でうずくまり、サラも深く息を吐いて床にへたり込んだ。


 青白い火花も、極寒の冷気も、軋む床の音も、不気味な影も。全てが嘘のように霧散し、スタジオには四人の荒い呼吸音だけが残された。


(よし。危険なオーバーワークは回避できたな。すぐに糖分とアミノ酸を補給させよう)


 田村はクーラーボックスから、自家製のハチミツ漬けレモンのスライスと、冷えたアミノ酸ゼリーを取り出した。


「ほら、口を開けろ。クエン酸と糖分が疲労物質を分解する。ゼリーは筋肉の分解を防ぐためのものだ」


 田村が一つずつ手渡していくと、四人は無言のままレモンを齧り、ゼリーを喉に流し込んだ。強烈な酸味と甘みが、限界を超えていた彼女たちの脳細胞に急速にエネルギーを与えていく。


「……ごめんなさい、タムラ。妾、なんだか焦っちゃって」


 タマモがレモンを噛み締めながら、小さく呟いた。


「気にするな。大舞台の前にはよくあることだ。だが、明日は完全に休養日にするからな。スタジオには鍵をかける」


 田村が厳しく言い渡すと、森田が「マジかよ」と苦笑いし、和田とサラもホッとしたように目元を緩めた。


 田村は、空になったゼリーの容器や散らかったタオルを手際よく回収しながら、明日の休養日のための栄養満点な献立を頭の中で静かに組み立て始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ