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第41話 陰陽庁の緊急指令と、水辺の休息

 平日の午後。

 高天原プロダクションのミーティングルームに、神無月の四人のメンバーと、田村が集まっていた。

 長机の奥で、特別顧問の宮崎真琴が深刻な面持ちでタブレットを操作し、巨大なモニターに図面を映し出した。


「陰陽庁から、正式な緊急指令が下りたわ」


 真琴の声は低く、普段の飄々とした態度は完全に影を潜めていた。


「来月に予定されていた特番『東京スーパーライブ』。会場が、当初の屋内アリーナから、急遽、東京湾岸の特設野外スタジアムに変更されたわ。動員予定人数は、およそ10万人よ」


「10万……っ」


 タマモが息を呑み、絶句した。


「あの穢れの膨張速度は想定以上よ。アリーナ規模の熱狂じゃ中和しきれない。桜子が持てる全てのネットワークと政治力を使い、10万人の観客をスタジアムに集める手配を強行しているわ」


 真琴は画面を切り替え、野外スタジアムの広大な平面図を表示した。


「野外スタジアムは、屋内とは勝手が全く違うわ。音が風で散るし、ステージの広さも今までの比じゃない。あなたたちのフォーメーションの移動距離も、アリーナの倍以上になるわよ」


 その言葉に、メンバーたちの表情がさらに強張った。


「移動距離が倍……。それに10万人の視線。少しでも動きがブレれば、後ろの客にはただの点にしか見えないわ」


 タマモが唇を噛み締め、金色の髪が微かに静電気を帯びる。


「音が散るなら、アタシがもっと強く床を蹴ってビートを刻めばいいってことだろ。でも、仮設のステージで思い切り暴れたら、床が抜けちまうかもしれないぜ」


 森田が膝の上に置いた拳を強く握りしめる。


「……野外、風が吹く。私の霧、流されちゃうかも。演出、めちゃくちゃになる……」


 和田はジャージの袖口をきつく握り、足元にうっすらと霜を張らせた。


 イ・サラは伏し目がちにテーブルの一点を見つめ、無言のまま背後に濃い影を落としていた。


「舞台が屋外のスタジアムに変わっただけだ」


 田村が静かに口を開いた。

 パツパツのスーツに身を包んだ巨体が、立ち上がって四人を見渡す。


「風向きと気温のデータは事前に叩き込む。霧が流れるなら、それを前提にした振り付けに修正すればいい。移動距離が増える分のスタミナは、本番までの食事とトレーニングで完全に補ってやる。森田のステップの衝撃に耐えられるよう、ステージの床材の補強も俺から運営に要請しておく」


 田村のブレない声が、部屋の張り詰めた空気を真っ直ぐに貫いた。


「1万人だろうが、10万人だろうが、お前たちがステージでやるべきパフォーマンスは何も変わらない。観客の数がどうであれ、俺はこれまで通りお前たちのコンディションを最高に保つ。それだけだ」


「おう。デカブツの言う通りだ。スタジアムの床を踏み抜く勢いで暴れてやるぜ」


 森田が顔を上げ、ニカッと笑う。


「……うん。10万人でも、踊る」


 和田も小さく頷き、足元の霜がフッと消えた。

 タマモは深呼吸をし、真っ直ぐにモニターを見据えた。


「当然よ。妾の歌声で、10万人全員を平伏させてやるわ」


 三人が闘志を新たにする中、サラだけが微かに唇を震わせ、力なく微笑んでいた。


★★★★★★★★★★★


 日曜日。

 田村は、都内の広大な敷地を持つ自然公園に足を運んでいた。

 鬱蒼とした木々に囲まれた大きな池があり、休日でも人影がまばらな静かな場所だ。水面には周囲の緑が鏡のように映り込み、時折、鯉が跳ねて小さな波紋を広げている。


「マネージャー君。今日はありがとう。水辺はとても落ち着くわ」


 手漕ぎボートの向かいの席で、サラが水面に手を浸しながら穏やかに微笑んだ。

 彼女はつばの広い麦わら帽子に、風通しの良い白いサマードレスを着ている。木漏れ日が彼女の色白の肌を照らし、静かな水面の波紋がドレスの裾を揺らしていた。


(本番前の緊張を取り除くには、静かな環境が最適だ)


 田村は太い腕でオールを握り、ゆっくりとした一定のペースでボートを漕ぎ進めた。田村の規格外の筋力のおかげで、ボートは水切り音すら立てず、水面を滑るように静かに進んでいく。

 サラは、特番の会場変更が告げられてから、明らかに口数が減っていた。表向きはいつも通りの優しいお姉さんとして振る舞っていたが、レッスン中もどこか上の空になる瞬間があった。メンタルケアが必要だと判断した田村が、彼女を外へと連れ出したのだ。


「風が気持ちいいですね」


 田村が声をかけると、サラは「ええ」と頷き、濡れた指先をハンカチで拭った。


「……ねえ、マネージャー君。私、本当はすごく怖いの」


 サラは帽子を深く被り直し、視線を水面に落とした。


「10万人の観客が怖いわけじゃないの。あの日、スタジオで感じたあの底知れない気配。……あれが、ずっと私の中にこびりついて離れないのよ」


 サラの声が微かに震え始めた。


「私の中に渦巻いている、嫉妬や執着といった嫌な感情。それが、あの巨大な穢れと共鳴してしまいそうな気がするの。もし、ステージで私たちが負けて、あの穢れに飲み込まれてしまったら。私の中の暗い部分まで全部引きずり出されて、本当の化け物になってしまうんじゃないかって……。そうしたら、もう二度と、マネージャー君の隣にはいられなくなる」


 サラの言葉に合わせて、ボートの周囲の水が墨汁を垂らしたようにドス黒く濁った。

 池の空気が急激に重くなり、水面に落ちたサラの影が、まるで無数の大蛇のようにウネウネと不気味に蠢き始める。太陽の光が遮られたように周囲が薄暗くなり、息苦しいプレッシャーが空間を圧迫し始めた。


(水流が乱れたな。風向きが変わったか)


 田村はオールを静かにボートの底に置き、少し身を乗り出した。

 そして、膝の上で震えているサラの両手を、自分の分厚く温かい両手でしっかりと包み込んだ。


「お前は化け物なんかじゃない」


 田村の低く力強い声が、淀んだ空気を切り裂いた。


「お前は俺が担当している最高のアイドルだ。ステージの上で、誰よりも美しくコーラスを響かせるプロのタレントだ。それ以外の何者でもない」

「でも……私の中には、恐ろしい衝動が……」

「俺が許さない」


 田村の手のひらから伝わる圧倒的な熱量と、揺るぎない言葉の重みが、サラの冷え切った指先からじんわりと伝わっていく。


「お前がステージのどこに立とうと、俺は袖から一歩も離れずにお前を見ている。もしお前が何か黒いものに引きずり込まれそうになったら、俺がこの手で必ず引き戻してやる。だから安心しろ」


 サラはハッとして顔を上げ、田村の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。


「……マネージャー君……っ」


 サラの目から大粒の涙が溢れ落ちた。

 彼女は少し身を乗り出し、田村に包み込まれた自分の手に額を押し当てて、声を上げて泣きじゃくった。田村は体幹を固定し、ボートの揺れを最小限に抑えながら、彼女の気が済むまで静かにその両手を握り続けた。

 サラの心の中に凝り固まっていた得体の知れない恐怖が、田村の絶対的な体温と力強さによって、涙とともに外へ溶け出していく。


 数分後。

 サラが顔を上げると、周囲を覆っていた不気味な暗闇と息苦しい空気は完全に消え去り、再び穏やかな木漏れ日が水面をキラキラと照らしていた。蠢いていた大蛇の影も、ただの美しい女性のシルエットに戻っている。


「……ごめんなさい、マネージャー君。私、泣き顔なんて見せちゃって」


 サラは目を赤くしながら、少し照れくさそうに微笑んだ。


「気にするな。これですっきりしたか」

「ええ。もう迷わないわ。あなたが繋ぎ止めてくれるなら、私、どんな深淵にだって立ち向かえる。最高のステージを見せてあげるわ」


 サラの瞳に、強烈でブレない光が戻っていた。

 田村は静かに頷き、再びオールを握ってゆっくりとボートを漕ぎ出した。


★★★★★★★★★★★


 夜。

 カチャリ、と静かにアパートの鍵を開ける。

 田村が靴を脱いでリビングに入ると、部屋の中はシンと静まり返っていた。

 新調したばかりの木製ハウスの中を覗き込むと、ダイズは腹を上に向けて完全な無防備状態のまま爆睡していた。昼間に用意しておいた新しいおもちゃで存分に遊び、自動給餌器から出たご飯をしっかりと食べて満足したらしい。短い後ろ足が時折ピクピクと動いているのは、夢の中で走っているからだろう。


(室温は26度で安定している。寝顔も穏やかだ)


 田村はダイズを起こさないよう、足音を立てずにスーツのジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけた。

 洗面所で手洗いうがいを済ませ、キッチンで冷たい麦茶をグラスに注ぐ。

 そのままローテーブルの前に座り、カバンから分厚いファイルの束を取り出した。


 来月に迫った『東京スーパーライブ』の、特設野外スタジアムの図面と進行台本だ。

 田村は赤のボールペンを手に取り、図面の上にタレントたちの導線を書き込んでいく。


『ステージ袖から中央までの距離、約30メートル。全力のパフォーマンス後の移動となるため、給水ポイントを中間地点に設置するよう運営に要請する』

『野外のため、夕方以降の急激な気温低下を考慮し、衣装の下に保温性の高いインナーを着せる。逆に、ライトが集中するセンターのタマモには、通気性の高い素材を』

『屋外用の大型送風機の設置位置の確認。和田の冷気と霧の演出が観客席へ効果的に流れるよう、ファンの角度を調整させる』

『サラのコーラスマイクの感度調整。反響の少ない野外でも声の厚みが失われないよう、音響チームと連携する』


 田村の分厚い手が、次々と台本に書き込みを入れていく。

 静かな部屋の中に、ペンの走る音と、ダイズの規則正しい寝息だけが響いている。

 田村はペンを置き、図面を見つめたまま、麦茶を喉に流し込んだ。

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