表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/44

第40話 嵐の前の和朝食と、過去最大級の『穢れ』

 大型音楽特番『東京スーパーライブ』を控え、レッスンが佳境に入った平日の朝。

 田村は、1Kのアパートのキッチンで静かにコンロの火を見つめていた。


 魚焼きグリルの上で、粗塩を振って一晩寝かせた分厚い銀鮭がパチパチと軽快な音を立てている。良質な脂が皮の表面にじわじわと浮き出し、こんがりとした絶妙な焼き色がついていく。焦げた醤油にも似た香ばしい鮭の匂いが、換気扇を回している小さなキッチンいっぱいに満ちていた。

 田村は焼き上がった鮭をまな板に乗せ、菜箸を使って丁寧に身をほぐしていく。小骨を一本残らず見つけ出し、確実に取り除く。

 隣のコンロでは、小さなフライパンでちりめんじゃこを乾煎りしていた。弱火でじっくりと水分を飛ばし、カリッとした食感と磯の香りを引き出していく。


 炊飯器を開けると、艶やかに炊き上がった白米から甘い湯気が立ち昇った。

 田村は大きめのボウルに白米を移し、そこにほぐした鮭の身と、乾煎りしたちりめんじゃこ、そして白ごまをたっぷりと投入した。しゃもじを使って、米粒を潰さないようにさっくりと、かつ全体に具材が行き渡るように混ぜ合わせる。

 両手を軽く水で濡らし、塩をひとつまみ手のひらに馴染ませる。適量の塩気を熱々のご飯の表面に纏わせながら、分厚い手でリズミカルに、かつ空気の層を潰さないように優しく握っていく。空気をふんわりと含んだ、大きくて美しい三角形のおにぎりが、次々とまな板の上に並べられていった。


 さらに、大きめのタッパーには、別の具材を詰めたおにぎりも用意する。肉厚で大粒の、最高級の紀州南高梅だ。塩分と酸味が凝縮された梅干しは、激しい運動後の疲労回復に絶大な効果を発揮する。


 汁物の準備にも取り掛かる。

 小鍋で水から火にかけられているのは、一晩しっかりと砂抜きをした大粒のしじみだ。しじみの口が開き、白濁した濃厚なエキスが鍋全体に広がったところで火を止める。そこに、香りの良い合わせ味噌をそっと溶き入れた。しじみ特有の滋味深いコハク酸がたっぷりと溶け出した、冷えた身体の芯から五臓六腑にまで染み渡る極上の味噌汁の完成だ。刻んだ青ネギを散らし、風味を立たせておく。


 最後に田村は、冷蔵庫から二つのガラス容器を取り出した。

 休日に新宿の高島屋まで足を運び、地下の専門店で厳選して買ってきた、本格的な熟成キムチとカクテキだ。唐辛子の鮮やかな赤色と、発酵が進んだ芳醇な酸の匂いが食欲を刺激する。田村はそれらを専用の小さなタッパーに綺麗に盛り付けた。


(アミノ酸と乳酸菌のバランスが良い。朝食の準備は完了だ)


 田村が調理器具を片付けていると、足元で「クゥン」と小さな鳴き声がした。

 柴犬の赤ちゃんのダイズが、鮭の香ばしい匂いにつられてキッチンに入ってきていた。鼻をヒクヒクさせ、田村の足首に短い前足をかけて見上げてくる。

 田村は、味付けをしていない鮭のほぐし身を少しだけ取り分け、よく冷ましてからダイズの餌皿に入れてやった。ダイズは嬉しそうに短い尻尾をちぎれんばかりに振り、フガフガと鼻を鳴らしながらあっという間にそれを平らげてしまった。さらに皿の底までペロペロと舐め回し、満足げに口の周りを舐めている。


「行ってくるぞ。留守を頼む」


 田村はダイズの頭をひと撫でし、保温バッグにタッパーを詰め込んでアパートを出発した。


★★★★★★★★★★★


 8時。高天原プロダクションのミーティングルーム。

 神無月の四人のメンバーは、早朝からのボイストレーニングを終え、長机にぐったりと突っ伏していた。特番に向けた連日の過酷なスケジュールの疲労が、確実に彼女たちの身体に蓄積している。


「お疲れ様。朝食を持ってきたぞ」


 田村が保温バッグからおにぎりと味噌汁、そしてキムチとカクテキを並べると、四人は弾かれたように顔を上げた。


「ウオオオッ! 飯だ! しかも塩気たっぷりの和食じゃねェか!」


 森田が真っ先に鮭とちりめんじゃこのおにぎりに手を伸ばし、大きな口を開けてかぶりついた。


「ウメェェェッ! 鮭の脂とじゃこのカリカリ感が最高だぜ! ご飯に塩がしっかり効いてて、いくらでも食えそうだ!」


 森田は瞬く間に大ぶりな一つのおにぎりを平らげ、すぐさま二つ目に手を伸ばし、口いっぱいに頬張りながら至福の表情を浮かべた。


「……んっ。お味噌汁、すごくあったかい……」


 和田は、紙コップに注がれたしじみの味噌汁を両手で包み込み、ゆっくりと喉に流し込んでいた。しじみの濃厚な出汁と味噌の香りが、疲労で冷え切っていた身体の芯まで優しく染み渡っていく。彼女の青白かった頬がほんのりと健康的な桜色に染まり、小さくホッと息を吐いた。


「あら、このキムチとカクテキ、スーパーのものとは全然違うわね」


 イ・サラが箸でカクテキをつまみ、感心したように口元を綻ばせた。


「発酵の酸味と、唐辛子の深い辛味が絶妙だわ。大根の歯ごたえもシャキシャキしていて……ご飯がすごく進むわね」

「高島屋の専門店で買ってきたものだ。乳酸菌とカプサイシンが、疲労回復と代謝の促進に役立つはずだ」


 田村が淡々と答えると、サラは「マネージャー君の気遣い、本当に嬉しいわ」と妖艶に微笑んだ。


「すっぱっ……! でも、すごく目が覚めるわ!」


 タマモは梅干しのおにぎりを上品に食べながら、その強烈な酸味に片目を細めていた。


「クエン酸は筋肉の疲労物質を分解する。今日は午後から通しのダンスレッスンがあるからな。しっかり食べておけ」


 四人は無言で、しかし確かな活力を取り戻しながら、田村の用意した完璧な朝食を胃袋に収めていった。


★★★★★★★★★★★


 14時。

 地下防音スタジオでダンスレッスンを行っていた四人の動きが、唐突にピタリと止まった。


 ゴロゴロゴロ……ッ。


 遠くから、地鳴りのような重い雷鳴が響いてきた。

 それと同時に、防音扉で完全に密閉されているはずのスタジオ内の空気が、まるで深い水底に沈められたかのように、ドスンと鉛のように重く沈み込んだ。耳の奥がキーンと痛くなるほどの、異常な気圧の急降下だ。


「……な、なにこれ。急に空気が……」


 タマモが胸を押さえ、その場に膝をついた。彼女の顔から血の気が引き、呼吸が浅くなっている。


「おい、どうしたんだよ! 気分がワリィ……なんか、すっげェ嫌な匂いがするぞ」


 森田は鼻を押さえ、スタジオの天井をキッと睨みつけた。


「……こわい。すごく、暗くて、冷たいものが……来る」


 和田は床にうずくまり、ガタガタと激しく震え始めた。


「……嘘でしょ。こんな巨大な気配、今まで感じたことがないわ……」


 サラも顔面を蒼白にさせ、背後の影を不規則に揺らしていた。


(気象庁のレーダーに雨雲はない。ただの局地的な嵐じゃないな)


 田村は手元のスマートフォンの天気アプリを確認し、太い眉をひそめた。


 バンッ!!


 スタジオの防音扉が乱暴に開けられ、特別顧問の宮崎真琴が血相を変えて飛び込んできた。

 彼女の額には冷や汗が浮かび、いつもは綺麗にセットされている髪が乱れている。


「ノリくん、みんな! 今すぐレッスンを中止して!」


 真琴は息を切らしながら、手にしていたタブレットを田村に突き出した。

 そこに映っていたのは、日本列島の地図の上に表示された、巨大な赤黒い渦のレーダー画像だった。その渦は、東京の都心部……まさに特番の会場となるエリアに向けて、ゆっくりと、しかし確実に集束しつつあるように見えた。


「陰陽庁の観測システムが、あり得ない数値を弾き出したわ。観測史上例を見ない規模の巨大な『穢れ』が、来月の特番の日に合わせて、この東京に集まろうとしているの!」

「穢れ、ですか」

「人々の不安や絶望、嫉妬といった負の感情が凝り固まった、巨大な霊的災害の予兆よ! これが直撃すれば、局地的な地震や異常気象どころじゃない。日本全体のインフラが停止し、無数の人間の精神が破壊されるわ!」


 真琴の言葉に、四人のアイドルたちは絶望的な顔を見合わせた。


「そ、そんな……妾たちだって、あんな巨大なもの、どうにもならないわよ……!」


 タマモが震える声で叫ぶ。


「アタシの拳でも、空の雲ごと殴り飛ばすなんて無理だぜ……っ」


 森田もギリッと歯を食いしばり、無力感に顔を歪めた。


「……逃げるしかない。巻き込まれる……」


 和田が耳を塞いで首を横に振る。


 重苦しい絶望がスタジオを支配しかけた、その時。

 田村が真琴のタブレットから静かに視線を上げ、口を開いた。


「宮崎さん。裏の組織がわざわざその巨大な災害の予兆を我々に知らせてきたということは、何か具体的な対抗策があるということですね」

「え、ええ。そうよ」


 真琴は田村の異常なまでの冷静さに少しだけ毒気を抜かれたように息を吐き、タブレットの画面を切り替えた。


「あれだけ巨大な穢れを中和するには、同じくらい巨大な『信仰』の力……つまり、無数の人間の熱狂的な『推し活』のエネルギーを一点に集めるしかないの。だから陰陽庁は、帝国芸能のコネクションも利用して、数千万人規模の視聴者が同時に注目する『東京スーパーライブ』のステージを、その浄化の儀式の場として設定したのよ」


 真琴は四人のアイドルたちを見渡した。


「つまり、あなたたちが特番のステージで過去最高のパフォーマンスを見せて、日本中の視聴者を完全に魅了できれば、その熱狂がエネルギーとなって穢れを打ち払える。……でも、もし失敗すれば」

「東京が更地になる、ということですね」


 田村はバインダーを小脇に抱え、真っ直ぐに四人の前に歩み出た。

 パツパツのスーツに包まれた巨体が、恐怖に震える四人の少女たちの前に立ちはだかる。


「田村……?」


 和田が涙目で彼を見上げる。


「パニックになるな」


 田村の低く、絶対に揺るがない声がスタジオに響き渡った。


「東京がどうなるかという規模の話は、俺の専門外だ。だが、お前たちが特番のステージで歌い、踊り、観客を熱狂させなければならないという『仕事の目的』は、昨日までと何一つ変わっていない」

「で、でも! 失敗したら日本が……!」


 タマモが食い下がるが、田村は真っ直ぐに彼女の目を見据えた。


「俺がマネージャーでいる限り、お前たちのステージは絶対に成功させる」


 田村の放つ圧倒的な物理的プレッシャーと、一切の迷いがないその言葉の重みが、四人の心を縛り付けていた恐怖を強引に引き剥がした。


「俺の仕事は、タレントを最高の状態でステージに立たせることだ。お前たちは、目の前の歌とダンスにだけ集中しろ。外の雨雲やプレッシャーに潰されることは、俺が許さないぞ」


(仕事の規模が大きくなっただけだ。コンディション管理を徹底しよう)


 田村の岩壁のような強さと安心感を前にして、四人の震えは少しずつ収まっていった。


「……ええ。そうね。妾たちはアイドルだもの」


 タマモがゆっくりと立ち上がり、拳を強く握りしめた。


「ああ。デカブツがバックについてるなら、アタシらはただ全力で暴れるだけだ!」


 森田も顔を上げ、闘志の炎を瞳に宿した。


「……うん。私、もう逃げない。最高のダンス、見せる」


 和田がジャージの袖をギュッと握りしめる。


「ふふっ。マネージャー君の期待には、絶対に応えてみせるわ」


 サラも、いつもの艶やかな微笑みを取り戻した。


 真琴もまた、田村のブレない背中を見て、ふっと緊張を解いて息を吐いた。


「本当に、恐ろしい男ね、ノリくんは。……分かったわ。陰陽庁の方のバックアップは、私がなんとかする。あなたたちは特番の準備を進めてちょうだい」


 真琴が力強く頷き、タブレットを閉じる。


「よし。休憩は終わりだ。フォーメーションの確認から再開するぞ」


 田村がパンパンと手を叩くと、四人は各々の定位置へと散った。

 スタジオに再び重低音のトラックが鳴り響き、四人の熱気とステップが床を激しく揺らし始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ