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第39話 女帝の暗躍と、二つの休日の過ごし方

 日曜日の朝。

 田村は、1Kのアパートのリビングで、愛犬ダイズの肉球の状態をチェックしていた。

 指先で優しく触れ、乾燥やひび割れがないかを確認する。ダイズはおとなしく仰向けになり、田村の太い腕に完全に身を委ねていた。田村は専用の保湿クリームを極少量だけ指に取り、ダイズの四つの肉球に丁寧に擦り込んでいく。健康な肉球は適度な弾力と潤いを保っている。夏の時期は特に、日々の散歩で熱したアスファルトの熱や摩擦に晒されるため、こうしたこまめなケアが欠かせない。


「よし、問題ない。健康だ」

「ワォン!」


 お手入れが終わると、ダイズは身をよじって立ち上がり、硬質ゴム製の知育玩具を前足で押さえて噛み始めた。犬の強い顎でも絶対に千切れない、安全性の高い専用のおもちゃだ。ダイズは夢中になってゴムの弾力を楽しんでいる。


(今日は長時間の外出になる。戸締まりと火の元だけは確実に確認しよう)


 犬の安全と室内の環境を整え、田村は黒のポロシャツとチノパンという動きやすい服装でアパートを出た。


★★★★★★★★★★★


 13時。

 都内近郊にある、貸切可能な巨大な屋内トランポリン施設。

 田村は、ショートパンツとタンクトップ姿に着替えた森田祥子と向かい合っていた。


「行くぜェェェッ!」


 森田が短い助走をつけて、メインの巨大なトランポリンに飛び乗る。

 彼女の驚異的な脚力とトランポリンの反発力が合わさり、常人では考えられないほどの高くまで身体が跳ね上がった。バシィッ! という強い踏み込みの音が、体育館のような広大な施設内に反響して響き渡る。田村は、目の前で繰り広げられる凄まじい跳躍力に、改めて彼女のフィジカルの底知れなさを実感していた。


「ヒャッハー! 最高だぜデカブツ! アタシ、空飛んでるみたいだ!」


 森田は空中で鮮やかな宙返りを決め、豪快に笑った。

 そのまま隣のトランポリンへ飛び移り、壁面に設置された斜めのトランポリンを使って三角飛びのように軌道を変え、縦横無尽に空間を駆け回る。まるで重力という概念が存在しないかのような、軽やかで暴力的なまでの運動量だ。


「着地の姿勢に気をつけろ。膝と足首に負担がかかるぞ」


 田村はトランポリンの縁に立ち、彼女の不規則な軌道を正確に目で追っていた。

 森田が連続ジャンプの勢いでバランスを崩し、トランポリンの外枠に向けて斜めに落下してくる。


「おっと!」


 田村は一歩踏み出し、落下してくる森田の身体を、分厚い両腕でガシッと受け止めた。

 ドスッという重い衝撃が田村の腕に伝わるが、彼は少しも体勢を崩すことなく、森田を安全にマットの上へと下ろした。


「サンキュー! やっぱお前、すげェ安定感だな!」


 森田は田村の腕の中でニカッと笑い、ヒラリと床に降り立った。


「最近、レッスンばっかりで体が鈍ってたからな。思い切り暴れられて、この前のアクリル板割りで溜まったフラストレーションも、これで全部吹き飛んだぜ!」

「それは良かった。だが、明日のレッスンに響かない程度にしておけよ」


(全身の筋肉を使った激しい有酸素運動だ。エネルギーの発散に丁度いい)


 森田はマットの上にドカッと座り込み、首に巻いたタオルで豪快に汗を拭った。

 その横顔には、いつもの底抜けに明るい笑みだけでなく、どこか真剣で研ぎ澄まされた光が宿っていた。


「……なあ、デカブツ。アタシ、合同フェスで引き分けたの、本当はすげェ悔しかったんだぜ」


 森田が、ぽつりとこぼした。


「あのジュリアとかいう金髪の小娘。たしかに歌もダンスもバケモン級だった。でも、一番ムカつくのは、あいつがアタシらの気迫を真っ向から受け止めて、一歩も引かなかったことだ。ただの人間なのに、アタシら『神』にパワー負けしてなかったんだよ」

「トップアイドルとしての覚悟の差だろうな」


 田村が短く答えると、森田は強く頷いた。


「だからよ、来月の特番のステージでは、絶対にアタシのパワーでぶっちぎってやる。アタシのステップで、あの小娘ごと会場の空気を揺らしてやるんだ。……そのためにも、アタシをもっと鍛えてくれよな」

「ああ、任せておけ。お前の規格外のエネルギーを完璧にコントロールするカリキュラムを組んでやる」


 田村の力強い返答に、森田はパッと顔を輝かせた。


 数十分後。汗だくになった森田に、田村は持参した鶏胸肉の特製サンドイッチを手渡した。


「ウオオオッ! 腹ペコだったんだ! いただきます!」


 森田は歓声を上げ、大きな口を開けてサンドイッチにかぶりついた。激しい運動の後の空腹を満たすため、彼女はあっという間にそれを平らげる。田村も持参したプロテイン飲料を飲み、自身の筋肉に必要なタンパク質を確保した。


★★★★★★★★★★★


 17時。

 森田を寮へ送り届けた田村のスマートフォンが鳴った。


「はい、田村です」

『遅いわね。待っているわよ』


 電話の主は、帝国芸能の社長、柴田桜子だった。

 田村は通話を終えると、スマートフォンをポケットに仕舞い、真っ直ぐに指定された都内の高級ホテルのスイートルームへと向かった。


 広々としたリビングのソファで、桜子がワイングラスを傾けていた。漆黒のタイトなドレスが、彼女の妖艶な美しさと圧倒的な威厳を引き立てている。窓の外には、夕暮れの東京の街並みが広がっていた。


「お休みのところ、呼び立てて悪かったわね」

「タレントのケア業務の帰りですから、問題ありません」


 田村は向かいのソファに腰を下ろした。


「この前の週刊誌のスクープ記事。見たわよ」


 桜子がグラスを置き、スッと目を細める。


「真琴がネットで『AR技術のテスト』なんて面白い仕掛けをしていたから、少しアシストしてあげたの。私のネットワークを使って、テレビや週刊誌などの大手メディアが一切あのオカルト記事の『後追い報道』をしないように、各局の報道局長に直接釘を刺しておいたわ」

「……」

「ネットの炎上なんて、テレビなどのマスメディアが取り上げなければ、一週間もすればただの噂として消費されて終わるわ。テレビ局が騒ぎ立てて、あなたたちの活動に支障が出るような事態にはならないはずよ」


(大手メディアが完全に沈黙していたのは、彼女の圧力のおかげか)


 田村は静かに頭を下げた。


「強力なアシスト、感謝します。ネットでの火消しはうちのプロデューサーが行いましたが、マスメディアが不自然なほど動かなかった理由は疑問でした。これで彼女たちもパフォーマンスに集中できます」

「ふふっ。タダじゃないわよ」


 桜子が妖艶に微笑み、身を乗り出す。


「約束の対価、持ってきたんでしょうね?」

「ええ。こちらです」


 田村は持参した保冷バッグから、三段の重箱を取り出してテーブルに置いた。


「手作りの和風弁当です。冷めても味が落ちないよう、出汁の濃度を調整してあります」


 桜子は重箱の蓋を開けた。中には、美しく焼かれた鮭の西京焼き、出汁巻き卵、そして色鮮やかな野菜の煮物が整然と詰められている。

 桜子は用意された箸を手に取り、和風弁当のおかずを次々と口に運び、手早く平らげた。


「……美味しい。相変わらず、完璧な味付けね。私の胃袋、すっかりあなたに掴まれてしまったみたい」


 桜子は口元をナプキンで拭い、熱っぽい視線を田村に向けた。


「多忙な社長業の栄養補給になれば幸いです」


 田村が事務的に答えると、桜子は小さく息を吐いた。


「来月の特番。私の可愛いジュリアが、あなたたちを完全に叩き潰すわ。楽しみにしていることね」

「ええ。俺のタレントたちも、最高のステージを用意して迎え撃ちますよ」


 田村は一切の躊躇なく、真っ直ぐに桜子の目を見て応じた。その目には、巨大な権力に対する恐れも、媚びへつらうような卑屈さも微塵もない。ただ自分の担当するタレントを信じ、勝利へと導くという絶対的な決意だけが静かに燃えていた。


★★★★★★★★★★★


 夜。

 アパートに帰宅した田村が玄関のドアを開けると、奥のサークルでボールを噛んでいたダイズがポトリとおもちゃを落とし、顔を上げた。


「ただいま、ダイズ」


 田村が靴を脱いでリビングに上がると、ダイズは短い足でトコトコと歩み寄り、田村の足首にすりすりとおでこを擦り付けてきた。田村はしゃがみ込み、その柔らかな背中を大きな手で静かに撫でる。

 ダイズは気持ちよさそうに目を細め、田村の手にすっぽりと頭を預けてくる。


(明日のスケジュールの確認をして、早めに休もう)


 田村はダイズの温もりを手のひらに感じながら、手帳を開いて特番までのタレントたちの調整項目に視線を落とした。

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