第38話 タマモの狐火と「最先端AR」の証明
土曜日の朝。
田村範朝はアパートの近くにある公園の芝生の上で、愛犬のダイズと短いボール遊びをしていた。
使用しているのは、犬の強い顎で噛みちぎって誤飲する危険性がない、非常に頑丈な硬質ゴム製の専用ボールだ。ダイズは短い足で器用に芝生を蹴り、田村が軽く投げた赤いボールを元気よく追いかけていく。しっかりと咥えて戻ってくると、田村の足元にポトリと落とし、「ワン!」と得意げに短い尻尾を振った。
(適度な運動で足腰の筋肉が育っている。健康状態は万全だ)
田村はしゃがみ込み、ダイズの丸い頭を分厚い手のひらで優しく撫でた。
アパートに戻り、ダイズの足を専用のシートで丁寧に拭き取る。ブラッシングを行い、抜け毛の量や皮膚の状態をチェックする。給餌と新鮮な水の交換を済ませた後、田村は部屋の環境整備に徹底して取り掛かった。
今日は午前中からタレントのメンタルケアのための外出業務が入っている。ダイズを一人で留守番させる以上、犬の安全管理において少しの油断も許されない。サークル内の室温をエアコンで適温に保ち、コンセントのコード類にはカバーをかける。さらに、ダイズが万が一にも飲み込んでしまう可能性のある小物は、すべて扉付きの収納棚の中へ完全にロックした。
完璧な安全環境を構築し終え、田村は黒のポロシャツにチノパンという休日用の動きやすい服装で部屋を出た。
★★★★★★★★★★★
午前8時。都内にある高層タワーの特別展望室。
一般客の入場が始まる前の早朝貸切枠を利用し、田村は和田佐千絵をこの場所に連れ出していた。
先日、水族館でのケアの帰りに彼女が口にした「もっと明るいところも見てみたい」という要望に応えるための手配だ。スキャンダルのリスクを完全に排除するため、マネージャーである田村自身の裁量と手腕により、マスコミや一般客の目から隔離された安全な環境を確保している。
「……すごい。東京の街、全部……おもちゃみたいに、見える」
和田は足元から天井まで続く巨大なガラス窓に手をつき、眼下に広がる街並みを見下ろしていた。
今日の彼女は、ダボダボのジャージではなく、白いブラウスに淡いグレーのフレアスカートという清楚で可愛らしい私服姿だ。朝の明るい陽光を全身に浴びて、彼女の透き通るような白い肌が眩しく輝いている。
(視界が開けているため不審者の接近もすぐに察知できる。護衛には最適な場所だ)
田村は和田の斜め後ろに立ち、周囲に一切の危険がないことを確認した。
「怖くないのか」
田村が静かに尋ねると、和田は振り返って小さく首を横に振った。
「……ううん。来るまでは、明るいところ、ちょっと怖かった。でも……ここから見たら、なんだか、すっきりした」
和田は窓辺から離れ、田村の太い腕にそっと両手を絡ませてきた。
「……田村が、隣にいるから。田村の腕、あったかい。……安心する。だから、平気」
彼女の表情には、以前のような極度の対人恐怖やパニックの兆候は微塵もなかった。周囲の空気が急激に冷え込むこともなく、ただ一人の等身大の女の子としての穏やかな体温が、ポロシャツ越しに田村の腕に伝わってくる。
「そうか。なら良かった」
田村は極めて事務的に、しかし確かな力強さで和田の背中を軽くポンと叩いた。
「少し休もう。朝食を持ってきた」
田村は展望室の片隅にあるソファに和田を促し、持参した保冷バッグからタッパーを取り出した。一口大にカットされた具沢山のサンドイッチだ。
和田は嬉しそうにフォークを受け取り、それらを美味しそうな笑顔で次々と平らげていった。田村も自身のタッパーを開け、午後の業務に備えて手早く食事を済ませた。
(恐怖を克服した良い表情だ。メンタルケアの確かな効果が出ている)
田村は空になったタッパーを片付けながら、和田の成長に確かな手応えを感じていた。
★★★★★★★★★★★
午後。
田村と和田は、都内のストリーミング配信専用スタジオに到着した。
フロアには無数のカメラと複雑な照明機材がセッティングされており、真琴が腕を組んでスタッフたちにテキパキと指示を出している。タマモ、森田、サラの三人も既に到着しており、衣装の最終チェックを行っていた。
「おはようございます。準備は順調のようですね」
田村が声をかけると、真琴は振り返って不敵な笑みを浮かべた。
「ええ、完璧よ。ノリくん、和田ちゃんのケアはお疲れ様。さあ、今日は私たちからの『反撃』の第一弾よ」
真琴は手元のタブレットで配信ソフトの動作を確認し、フロアの中央に立つタマモへと視線を向けた。
「タマモちゃん。今日のテスト配信は、あなたのソロパフォーマンスで行くわ。準備はいい?」
「ええ、当然よ。愚民どもに、妾の最先端の技術力を見せつけてやるわ!」
タマモは自信満々に胸を張り、マイクスタンドの前へと歩み出た。
「カメラの配置は彼女の導線を邪魔しない位置に固定してあります。安全確認は完了しています」
田村が機材の最終チェックを終えて真琴に合図を送る。
「本番行きます。3、2、1、配信スタート!」
フロアディレクターの声と共に、生配信が開始された。
事前のSNSでの告知効果もあり、配信の同時接続者数は開始数分で数万人に膨れ上がっていた。モニターの画面の端を、凄まじいスピードで視聴者のコメントが流れていく。
重低音のトラックが鳴り響き、タマモが歌い始める。
スタジオの空気が震えるほどの圧倒的な声量。そしてサビに差し掛かった瞬間、タマモは意図的に自らの力を解放した。
バチバチバチッ!!
タマモの足元から、青白い炎のような光が激しく弾け飛んだ。
それは照明の反射でも合成CGでもない、彼女自身から放たれた本物の『狐火』だ。青白い炎はタマモの周囲を美しい軌道を描いて飛び回り、やがて彼女の背後に集まって九つの巨大な尾のシルエットを形成した。
「……すばらしいわ」
モニターを見ていた真琴が、感嘆の声を漏らした。
真琴が操作するミキサーと照明システムが、タマモの狐火の光量と完璧に連動し、空間全体を幻想的な光の海へと変貌させている。
(見事な出力コントロールだ。これなら完全に映像技術の演出として成立する)
舞台袖に立つ田村は、タマモの圧倒的なパフォーマンスを冷静に見守っていた。
配信のコメント欄は、爆発的な熱狂に包まれていた。
『うおおおおっ! なんだこの炎!?』
『CG!? いや、生配信だぞ!?』
『AR技術エグすぎだろwww リアルすぎるwww』
『これが最新のホログラム投影か』
『神無月の運営、金のかけ方バグってて草』
『来月の特番、絶対見るわ』
タマモの放つ超常現象は、視聴者の目には「企業秘密の最新鋭AR(拡張現実)技術」として完全に消費されていた。オカルト的な恐怖は最先端テクノロジーへの熱狂へと変わり、神無月のブランド価値はさらに一段階上のレベルへと引き上げられたのだ。
「……ありがとう!」
タマモがカメラに向かってウインクを決め、15分のデモンストレーション配信は完璧な大成功のうちに終了した。
「はぁっ、はぁっ……どう? 妾のパフォーマンス、完璧だったでしょ!」
タマモが汗を拭いながら、誇らしげに舞台袖へ戻ってくる。
「ああ。声の伸びも、光のコントロールも文句なしだ」
田村は用意していたタオルをタマモに渡し、さらに四人全員に高タンパクのプロテインバーと冷えたスポーツドリンクを配給した。四人はそれらを受け取ると、疲労回復のための栄養素として手早く消費した。
「アタシも早く暴れてェぜ! 次の配信はアタシの怪力テストにしてくれよ!」
森田がプロテインバーを齧りながら身を乗り出す。
「……私のダンスも、もっとすごいエフェクト出せる」
和田も自信に満ちた瞳で田村を見上げる。
「マネージャー君。私たちの力、もっとたくさん利用してちょうだいね」
サラが妖艶に微笑む。
「ノリくん、お疲れ様。これでプロモーションは完璧よ」
真琴がタブレットを閉じ、満足げに田村の肩を叩いた。
「ええ。彼女たちの力をエンタメとして昇華させる、見事な手腕でした」
「ふふっ。あなたが現場で彼女たちを完璧にコントロールしてくれているからこそよ。さあ、特番まで気を抜かずにいくわよ」
田村はバインダーを小脇に抱え、四人のタレントたちに向き直った。
「今日の配信で、世間の期待値は跳ね上がった。明日のレッスンはさらにハードにいくぞ」
「望むところよ!」
四人の声が、スタジオに力強く響き渡った。
★★★★★★★★★★★
夜。
アパートのドアを開けると、玄関のすぐ先でダイズが短い尻尾を振りちぎりながら待っていた。
ダイズの口には、田村が留守番用に与えていた非常に丈夫なゴム製の知育玩具がしっかりと咥えられている。誤飲のリスクがないよう、田村が厳選して買い与えた安全なおもちゃだ。
「遅かったな、ダイズ。よし、少し遊ぼう」
田村が靴を脱いでリビングに上がると、ダイズは知育玩具をポトリと落とし、「早く投げて!」と全身でアピールしてきた。
田村はゴム製のおもちゃを軽く転がし、ダイズがそれを夢中で追いかける様子をソファから静かに見守る。
(今日の配信の同接データも申し分ない。特番に向けた準備に一切の障害はないな)
田村はバインダーから手帳を開き、ボールを追いかけるダイズの足音を聞きながら、明日のスケジュールの確認作業に入った。




