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第37話 炎上を逆手にとったプロモーションと、天才のメディア戦略

 金曜日の朝。

 田村は、1Kのアパートの玄関で、硬い表情のままキャリーバッグを手に提げていた。

 中には、柴犬の『ダイズ』が入っている。今日は、月に一度の定期検診と、フィラリアおよびノミダニ予防薬の処方のために、近所の動物病院へ連れて行く日だ。


「ダイズ、すぐ終わるからな」


 田村が声をかけるが、キャリーバッグの中からは「クゥ〜ン……」という情けない鳴き声しか返ってこない。いつもなら田村の足元で元気に尻尾を振るダイズだが、これから向かう場所の匂いや雰囲気を本能的に察知しているのか、奥で小さく丸まって小刻みに震えていた。


(定期的な健康チェックと予防薬の投与は、犬の健康管理における絶対条件だ。心を鬼にしよう)


 田村はキャリーバッグを慎重に持ち上げ、アパートを出た。


 動物病院の待合室。

 大型犬の低い吠え声や、見知らぬ猫の鳴き声にビクビクしながら、ダイズはキャリーバッグのメッシュの窓から田村をすがるような目で見つめている。田村はメッシュ越しに指を差し込み、ダイズの湿った鼻先を優しく撫で続けた。


「田村ダイズちゃん、診察室へどうぞ」


 看護師に呼ばれ、診察室へ入る。

 田村が冷たいステンレスの診察台の上にダイズを出そうとするが、ダイズはキャリーバッグの奥に四肢を踏ん張って必死に抵抗した。


「ほら、おいで」


 田村が大きな手でダイズの体を包み込むようにして引きずり出すと、ダイズは田村の太い腕に必死にしがみつき、ブルブルと震え始めた。白衣を着た獣医師が聴診器を当てようとすると、たまらず田村の胸元に顔を隠してしまう。


「飼い主さんがしっかり保定してあげてくださいね」


 獣医師の指示に従い、田村はダイズの首元と腰のあたりを両手でしっかりと、しかし極めて優しくホールドした。


「大丈夫だ」


 田村の低く落ち着いた声と、分厚い手のひらから伝わる温もりに、ダイズの震えが少しだけ収まる。

 獣医師の手でパチン、パチンと爪が切られ、最後に背中へノミダニ予防の冷たいスポット薬をポトリと垂らされた瞬間。


「ヒャウンッ!」


 ダイズは慣れない感触に驚いて短い悲鳴を上げ、反射的に田村の腕をギュッと噛んだ。もちろん、甘噛みにも満たない、痛くも痒くもない力だ。


「よく頑張ったな」


 田村がダイズの頭を撫でると、ダイズは涙目で田村の指をペロペロと舐めた。


(よし。これで今月の医療タスクは完了だ。健康状態も問題ない)


 アパートに戻り、キャリーバッグの扉を開けると、ダイズは弾かれたように飛び出し、サークルの中の新しい木製ハウスへと一目散に逃げ込んだ。

 ハウスの奥から顔だけを出し、警戒するような様子を見せている。

 田村は無添加のササミジャーキーを取り出し、ハウスの入り口に置いた。ダイズは鼻をひくひくさせ、恐る恐る近づいてくると、ジャーキーを素早く咥えて再び奥へと引っ込んでいった。


(病院のストレスは食欲と静かな環境でカバーできる。数時間そっとしておけば元通りだろう)


 田村は自動給餌器のタイマーと室温を再度確認し、身支度を整えて出社した。


★★★★★★★★★★★


 午前11時。

 高天原プロダクションの事務所に出社すると、一階のミーティングルームでは、特別顧問の宮崎真琴が、タブレットを片手に神無月のメンバー四人を前にして何やら熱弁を振るっていた。


「おはようございます。ミーティング中ですか」


 田村がデスクにカバンを置くと、真琴がニヤリと笑った。


「ええ、ちょうどいいところに来たわねノリくん。昨日出た週刊誌のスクープ記事についての、今後のメディア戦略を話していたところよ」


「あの記事、昨日の夜からさらに拡散されて、SNSのトレンド1位になってるわ」


 真琴がタブレットの画面を田村に見せる。

 そこには、神無月のライブ映像の切り抜きとともに、無数の憶測や議論が飛び交うタイムラインが映し出されていた。


『あの冷気、マジでどうやってんの?』

『ホログラムにしてはリアルすぎないか?』

『オカルトとか信じないけど、このアイドルはガチでヤバい』


(火が燃え広がっているな。だが、炎上というよりは純粋な熱狂と好奇心に近い)


 田村は画面をスクロールしながら、世間の反応を冷静に確認した。


「これだけ騒がれている以上、無反応を貫くのは悪手だわ。かといって『全て演出です』と公式に味気ない声明を出すのもつまらない」


 真琴はコーヒーを一口飲み、鋭いクリエイターの目つきになった。


「火消しはしない。むしろ、こちらから薪をくべて、炎の大きさをコントロールするのよ」

「具体的にはどう動くつもりですか」


 田村が尋ねる。


「今朝、事務所の公式アカウントから、短い声明を出しておいたわ。これよ」


 真琴が提示した画面には、たった一文だけが記されていた。


『神無月のステージは、常に常識を超えていく。来月の東京スーパーライブをお楽しみに』


「否定も肯定もしない。ただ、来月の特番への期待だけを煽る。これで、ネットの連中は勝手に『特番で、何かとんでもないことが起きる』と解釈して盛り上がり続けるわ」


「それだけじゃありませんのよ」


 タマモが少し得意げに口を挟んだ。


「真琴の指示で、妾たちもSNSで匂わせの投稿をしたの」


 タマモのアカウントを見ると、彼女の足元で青白い静電気の火花が弾けている短い動画がアップされていた。キャプションには『最新のARエフェクト、調整中』とだけ書かれている。

 和田のアカウントには、彼女の足元から白い霧が立ち上る写真と共に『冷却装置のテスト。本番はもっとすごいかも』という投稿が。

 森田とサラもそれぞれ、異常なほどの地響きや怪しい影の演出テストといった名目で、小出しに動画をアップしている。


(なるほど。未知の超常現象への恐怖を、最先端技術のテストというラベルで上書きしたか。これならオカルトの噂もエンタメの一部として消費される)


 田村は真琴の巧みなメディアコントロールに、静かに頷いた。


「世間は、自分たちが理解できないものを怖がるわ。でも、そこに『最先端のテクノロジー』というもっともらしいラベルを貼ってあげれば、恐怖は好奇心と熱狂に変わるのよ」


 真琴は妖艶に微笑んだ。


「これで、神無月は『得体の知れない妖怪』から、『誰も見たことがない最新技術を駆使する、ミステリアスな最先端アイドル』にすり替わったわ。オカルト好きも、アイドルオタクも、新しいもの好きの野次馬も、全員が来月の特番に釘付けになるはずよ」


「素晴らしい戦略です。これなら、彼女たちがステージで全力を出しても、全て『圧倒的な演出』として世間は受け入れてくれる」


 田村の言葉に、真琴も「ええ」と力強く応じた。


「だからあなたたち、来月の特番では遠慮なんて一切いらないわよ。ジュリアのステージを完全に食ってやるくらいのつもりで、あなたたちの『本当の力』を、全部エンターテインメントとしてぶち撒けてきなさい」


 真琴の言葉に、四人のアイドルたちの目に力強い闘志が宿った。


「当然よ! 妾の歌声で、全国の視聴者を平伏させてみせるわ!」


 タマモが胸を張る。


「ああ。アタシのステップで、特番のセットごと揺らしてやるぜ!」


 森田が拳を打ち合わせた。


「……うん。私、もう怖くない。最高のダンス、見せる」


 和田がジャージの袖をぎゅっと握りしめた。


「ふふっ。マネージャー君が見ていてくれるなら、私、どんなことだってできるわ」


 サラが熱っぽい視線を田村に向けた。


「よし。方針は固まったな」


 田村はパンパンと手を叩き、空気を引き締めた。


「特番までの約一ヶ月。世間の注目が集まっている分、プレッシャーも跳ね上がる。ここからの体調管理とメンタルケアは、今まで以上に徹底していくぞ。まずは今日の午後から、スタミナをつけるための厳しい体力トレーニングだ」


「ええーっ!?」


 四人から悲鳴が上がるが、田村は微動だにしない。


「文句は聞かない。練習後には、良質なタンパク質を補給するための食事を作ってやる。……行くぞ」


 田村はバインダーを手に取り、ミーティングルームを出て地下スタジオへと向かった。四人も渋々といった様子ながら、すぐに後を追ってくる。


 地下スタジオに入ると、田村は四人を一直線に並ばせた。


「いいか。お前たちが何者であるかは、もう関係ない。ステージに立つ以上、お前たちはプロのアイドルだ。そして、プロなら観客を満足させるパフォーマンスをしなければならない」


「タマモさん。声の出し方がまだ単調だ。感情の乗せ方を、もっとコントロールしろ。お前の持つ本来の『力』を、歌声の艶に変えるんだ」

「……ええ、分かっているわ。妾の全てを、歌に込めてみせる」


 タマモの瞳に、強い意志が宿る。


「和田。ステップが小さい。お前が放つ『冷気』を、もっと広範囲に届けるつもりで大きく踊れ。空間全体をお前のステージにするんだ」

「……うん。やってみる。もっと、大きく」


 和田がジャージを脱ぎ捨て、真剣な表情でステップの確認を始める。


「森田。ただ力任せに動くだけじゃダメだ。緩急をつけろ。お前の『怪力』は、止まる時のピタッとした静寂にこそ活きるはずだ」

「なるほどな! ピタッと止まって、ドカンと動く。やってやるぜ!」


 森田が床を蹴り、鋭いターンを見せる。


「サラ。コーラスの厚みを増すために、もっと意識を分散させろ。お前の持つ『多面的な視点』は、全体のバランスを取るのに最適だ。リーダーとして、全員の声を聞け」

「ふふっ、任せて。マネージャー君の期待には、完璧に応えてみせるわ」


 サラが妖艶に微笑み、マイクを握る。


(彼女たちの能力を最大限に引き出し、観客の熱狂に変換する。それが俺の仕事だ)


 激しいレッスンの後、田村は約束通り、特製のステーキ丼を用意した。

 分厚くカットされた赤身の牛肉がミディアムレアに焼き上げられ、表面にはニンニクと玉ねぎをすりおろした特製の醤油ソースがたっぷりとかかっている。


 長机に並べられた丼を見るなり、四人のアイドルたちは歓声を上げた。


「ウメェ! 疲れた体に肉の旨味がガツンと来るぜ!」


 森田が猛然と箸を動かし、豪快に肉と米をかき込む。


「……お肉柔らかい。ソースがご飯に染みてて、すごく美味しい」


 和田も小さな口を限界まで開けて頬張り、満足そうに目を細めている。


「本当、このソースの酸味がお肉の脂をサッパリさせてくれて、いくらでも食べられそうね」


 タマモも上品さを保ちつつも、かなりのハイペースで肉を口に運んでいた。


「ふふっ。マネージャー君が私たちのために焼いてくれたお肉……全部、残さずいただくわ」


 サラも妖艶に微笑みながら、味わうように肉を噛みしめている。


 四人は、午後の過酷なレッスンを乗り切るための活力として、あっという間に特製ステーキ丼を平らげていった。


 スタジオの重厚な扉を閉める前、田村は振り返って真琴に声をかけた。


「宮崎さん。ネットの反応のコントロールは引き続きお願いします。俺は、現場の彼女たちを完璧な状態に仕上げます」

「ええ、任せてちょうだい。……ノリくん、あなたも無理しすぎないようにね。特番は、私たちにとっても正念場になるわよ」


 真琴の真剣な言葉に、田村は短く頷いた。


(全ては来月の大舞台のためだ。どんなノイズがあろうと、俺が道を作る)


 田村はスタジオの戸締まりを確認し、事務所を後にした。

 夕方、アパートに帰ると、新しい木製ハウスの中で丸くなっていたダイズが、田村の足音に気づいて短い尻尾を振りながら出迎えてくれた。病院での恐怖はすっかり忘れ、いつもの元気を取り戻しているようだ。


「ただいま、ダイズ。ご飯にするか」


 田村はダイズの頭を優しく撫でながら、明日のレッスンのための高タンパクな献立を頭の中で組み立て始めていた。

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