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第35話 大人組のバチバチと、完全会員制のティーサロン

 夏の厳しい日差しがアスファルトを熱し始める前の、早朝。

 田村範朝は、愛犬である柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』を連れて、アパート周辺の短い散歩を済ませていた。

 帰宅し、濡れタオルで丁寧に四本の足を拭いてやる。ダイズはハアハアと短い舌を出しながら、嬉しそうに短い尻尾をパタパタと振ってサークルの中へ戻っていった。


(適度な運動は犬の健康の基本だ。新鮮な水を用意しよう)


 田村はダイズの水入れを満たし、自動給餌器のタイマーを確認した。犬の体調管理は、日々のルーティンを正確にこなすことが最も重要である。

 自身の朝食も済ませた田村は、休日の外出用に着替えた。黒のタイトな半袖シャツと細身のチノパンというシンプルな装いだが、服の上からでも隆起した大胸筋と太い首回りがはっきりと分かり、周囲に強烈な威圧感を与えている。


 今日は日曜日だが、田村には業務の予定があった。

 神無月のセンターであるタマモ・ヴィヴィアン・フォックスから、「特番に向けた息抜きに付き合いなさい」と呼び出しを受けていたのだ。

 もちろん、田村はこの件について、事前に特別顧問の宮崎真琴へ報告と相談を行っている。


『タマモちゃんのメンタルケアね。よろしく頼むわ。マスコミ対策は万全にね』という真琴の許可を得て、田村は完全会員制の高級ティーサロンの個室を予約済みだった。


「行ってくるぞ、ダイズ。涼しい部屋で待っていてくれ」


 サークルの中でおもちゃを噛んでいるダイズの頭を優しく撫で、田村は静かにアパートの扉を閉めた。


★★★★★★★★★★★


 10時。タレント寮の地下駐車場。

 田村が手配したスモークガラスのハイヤーが、コンクリートの柱の陰にひっそりと停まっていた。スキャンダルを極度に警戒する田村は、タマモを外で待たせるようなリスクは冒さず、直接寮の地下まで車を回していたのだ。

 エレベーターホールの扉が開き、大きなツバの帽子とサングラスで顔を隠したタマモが、周囲に誰もいないことを確認しながら小走りで車内に乗り込んできた。

 今日の彼女は、淡いブルーのサマードレス姿だ。金糸のような髪が綺麗にまとめられ、気品ある美しさを放っている。


「おはよう、タムラ。わざわざ地下まで迎えに来させてやったわよ」

「おはようございます。人目を避けるにはここが一番安全ですからね。速やかな乗車に感謝します」


 田村が冷静にシートベルトを締めるように促すと、タマモはサングラスを外してふんぞり返った。


「分かってるわよ。でも、たまにはこうして外の空気を吸わないと、来月の特番のプレッシャーで気が狂いそうなの」

「正しい判断です。適度な息抜きはパフォーマンスの向上に直結します」


 ハイヤーはスムーズに走り出し、予約していた完全会員制サロンの裏口へ到着した。

 他客と一切顔を合わせない専用の個室に通されると、タマモはほうっと安堵の息を吐き、帽子をテーブルに置いた。静かで落ち着いた空間に、高級な紅茶の香りが漂っている。

 田村はタマモの向かいに座った。


「ねえ、タムラ。来月の特番……ジュリアとの直接対決、本当に勝てるかしら」


 タマモが紅茶のカップを両手で包み込みながら、ぽつりとこぼした。


「相手はスタジアムを埋めるトップアイドル。でも、妾たちだって絶対に負けられないわ。あなたが帝国芸能の傘下に入るかどうかの賭けの対象になっているんだから。もし負けたら、タムラはあの女社長のモノになっちゃうのよ……」


 タマモの声が微かに震え、彼女の金髪がバチバチと静電気を帯び始めた。頭頂部の髪が不自然に丸まり、二つの狐の耳のような形に逆立っていく。


(空気が乾燥しているな。卓上のポータブル加湿器をつけよう)


 田村は無言で加湿器のスイッチを入れ、タマモに温かいスコーンを勧めた。


「焦る必要はありません。お前たちのパフォーマンスは日々のレッスンで確実に向上している。それに、相手の事務所の規模がどうであれ、ステージに立ってしまえば関係ない。お前がセンターとして全力を出し切れば、必ず観客の心に届きます」

「……そうね。あなたがそこまで言うなら、信じてあげるわ」


 加湿器の柔らかな蒸気と田村の真っ直ぐな言葉を受け、タマモの髪の静電気はスゥッと収まっていった。彼女はスコーンを小さく齧り、頬をほんのりと赤く染めた。


「タムラとこうして二人でお茶を飲んでいると、なんだか本当に……デートみたいね」

「これはタレントのメンタルケアを目的とした重要な業務です。しっかり糖分を補給してください」

「……もう、相変わらず堅物なんだから」


 タマモは不満げに唇を尖らせたが、その表情はどこか嬉しそうだった。

 田村は自分の前に置かれたサンドイッチと焼き菓子を、これからの業務に向けた適切な栄養補給と捉え、的確なペースで咀嚼して胃に収めた。


★★★★★★★★★★★


 14時。

 タマモを安全にタレント寮に送り届けた田村は、高天原プロダクションの事務所に戻ってきた。

 応接室のドアを開けると、そこには洗練された大人の女性が二人、ソファに向かい合って座っていた。


「あら、おかえりなさいノリくん。タマモちゃんのケアは無事に終わった?」


 ソファで優雅にワイングラスを傾けているのは、特別顧問の宮崎真琴だ。


「ええ、完璧です。お待ちしておりました、柴田社長」


 田村は一切の動揺を見せることなく、真琴の向かいに座る漆黒のタイトなドレスを着こなした帝国芸能の女社長、柴田桜子に向かって深く一礼した。

 真琴から事前に、来月の特番の進行に関する打ち合わせで桜子本人が事務所を訪れると報告を受けていたため、田村にとって彼女の来訪は完全に想定内のスケジュールであった。


「こんにちは、田村範朝さん。休日の大事な時間をいただいてしまって悪かったわね」


 桜子が妖艶に微笑む。


「いえ、特番に向けた重要なすり合わせですから。お気になさらず」


 田村は自分のデスクに荷物を置いた。


 応接室の空気は、真琴と桜子という二人の大人の女性が放つオーラによって、バチバチと火花が散るような緊張感に包まれていた。

 二人は同い年の33歳であり、日本のエンタメ業界の裏と表を知り尽くした宿命のライバルだ。


「それにしても桜子、あなた本当にうちのノリくんがお気に入りなのね。わざわざ休日に社長自らこんなオンボロ事務所に足を運ぶなんて」


 真琴が挑発的に笑う。


「当然よ。彼は来月の特番の後、私が手に入れる男だもの。それに、先日ごちそうになった彼の手料理の味が忘れられなくてね。真琴、あなたも彼に胃袋を掴まれているんでしょう?」


 桜子も負けじと冷笑を返す。


「ええ、もちろん。ノリくんの料理は私が一番よく知っているわ。彼の作るおつまみは、私の持ってくるワインと最高のマリアージュを生み出すのよ」


 二人の視線が激しく交錯し、目に見えない火花が散る。特番の打ち合わせという名目でありながら、その実態は田村を巡る激しいマウントの取り合いだった。


(白熱した議論にはエネルギーが必要だ。すぐに出せるものを用意しよう)


 田村はネクタイを緩め、給湯室のキッチンへ向かった。

 二人の大物女性を相手にした「おつまみ対決」という名目の接待業務が、唐突に幕を開けたのだ。


 田村は冷蔵庫から食材を取り出し、手早く調理を進める。

 用意したのは、自家製の鶏ハムとオリーブのマリネ、そしてカマンベールチーズのオーブン焼きだ。どちらも赤ワインと白ワインの双方に合うよう、塩分と脂質のバランスを完璧に計算している。


「お待たせしました。午後の打ち合わせのエネルギー補給にどうぞ」


 田村が応接室のテーブルにおつまみを並べると、真琴と桜子は一瞬で目を輝かせた。


「……いただきます」

「……いただくわ」


 二人はフォークを手に取り、田村の用意したおつまみを口に運んだ。

 真琴は鶏ハムとオリーブのマリネを、桜子は熱々のカマンベールチーズのオーブン焼きを、それぞれ無言で凄まじいスピードで平らげていった。

 田村は壁際に立ち、二人の様子を静かに見守っていた。


 数分後。皿の上は綺麗に空になっていた。


「……美味しいわ。やっぱりノリくんの料理は最高ね」


 真琴がワイングラスを置き、満足げに息を吐く。


「……私の時の方が、もう少しパンチが効いていて美味しかった気がするけれど。でも、悪くないわね」


 桜子は少しだけ悔しそうにしながらも、口元をナプキンで優雅に拭った。


「俺はただ、お二人の業務効率を上げるためにタンパク質と脂質を提供しただけです。打ち合わせの続きをお願いします」


 田村が淡々と告げると、二人は顔を見合わせてふっと笑った。


「本当に、ブレない男ね。いいわ、特番の演出についての詳細を詰めていきましょう」


 桜子がタブレットを取り出し、真琴も真剣なプロデューサーの顔に戻った。

 帝国芸能が持つ圧倒的なメディア・ネットワークと、真琴が構築する最先端のステージ演出。二人の天才による綿密なプランニングが、田村の提供したカロリーを燃料にして凄まじいスピードで組み上げられていく。


(よし。カロリーの補給によって場の空気が和らいだ。これで交渉もスムーズに進むだろう)


 田村は空になった皿を回収し、給湯室へと下がった。

 日本の芸能界を揺るがす特番に向けた準備は、田村の徹底したフィジカル管理によって、着実に進行していくのだった。


★★★★★★★★★★★


 夕方。

 アパートに帰宅した田村の足元へ、サークルの柵に短い前足をかけて立ち上がったダイズが、クゥンクゥンと甘えた声を出してアピールしてきた。


「ただいま、ダイズ。いい子で待っていたな」


 田村はダイズの柔らかな体を抱き上げ、その温もりに静かな安らぎを覚えた。

 特番へのプレッシャー、そして大人たちの思惑。様々な波乱が渦巻く中、霊感ゼロの最強マネージャーは、愛犬の匂いに癒やされながら明日の激務へと備えるのだった。

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