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第34話 女帝の誤算と、手作り肉じゃがの陥落

 日曜日の朝。

 田村範朝は、1Kのアパートのリビングで、愛犬である柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』のデンタルケアを行っていた。


 犬用の小さな歯ブラシを手に持ち、ダイズの口元を優しくホールドする。ダイズは嫌がることもなく、おとなしく口を開けて田村の指先に身を委ねていた。田村の分厚く硬い指先が、ダイズの小さな歯を一本ずつ丁寧に磨いていく。


(歯周病予防は健康の基本だ。おとなしくて助かる)


 田村は手早くケアを終わらせると、ご褒美として犬用の無添加ガムを与えた。ダイズは嬉しそうに短い尻尾をパタパタと振り、ガムを両前足で器用に挟んで噛み始めた。小さなアゴを懸命に動かしている姿は、見ていて飽きない。


 今日は休日だが、田村には外出の予定があった。

 高天原プロダクションの特別顧問であり、天才音楽プロデューサーの宮崎真琴からの呼び出しだ。名目は来月末の大型音楽特番『東京スーパーライブ』に向けた楽曲アレンジの打ち合わせだが、真琴は「休日のデートよ」と念を押してきていた。


(休日の人混みはスキャンダルの危険がある)


 田村は事前に真琴に連絡を取り、マスコミや一般客の目が完全に遮断された、安全でセキュリティの強固な場所を指定していた。トップアイドルを相手にするプロデューサーと、これから売り出す新人アイドルのマネージャーが休日に密会していると週刊誌に書かれれば、無用な憶測を呼ぶからだ。

 パツパツの黒のポロシャツとチノパンという、休日仕様だが威圧感たっぷりの服装に着替えた田村は、サークルの中でガムを噛むダイズの頭を撫でた。


「いい子で留守番しているんだぞ。夕方には戻る」

「ワンッ!」


 ダイズの元気な声に見送られ、田村はアパートを後にした。


★★★★★★★★★★★


 正午。

 都内の一等地にある、完全会員制ホテルの地下駐車場。

 田村が車を降りると、専用エレベーターホールの前で真琴が待っていた。彼女は黒のタイトなワンピースに身を包み、大きなサングラスとツバの広い帽子で完璧に変装している。


「お待たせ、ノリくん。休日にわざわざごめんなさいね。デートのお誘い、受けてくれて嬉しいわ」

「打ち合わせの場として、ここならマスコミの目も完全に遮断できます。完璧な手配です」


 真琴はクスリと笑い、サングラスを外して田村の太い腕に自分の腕を絡ませた。


「本当に隙がないわね。でも、そういう堅物なところも嫌いじゃないわ」


 二人は専用エレベーターに乗り込み、防音設備が完備されたVIP向けのプライベートルームへと案内された。

 部屋に入ると、真琴は帽子を脱ぎ、ソファに深く腰を下ろした。テーブルには、ルームサービスで手配されていたクラブハウスサンドイッチとブラックコーヒーが並べられている。


 田村は用意されたクラブハウスサンドイッチを、午後の業務に必要なエネルギー補給として、ただ黙々と胃に収めていった。


「相変わらず、気持ちのいい食べっぷりね」


 真琴はコーヒーを口に運びながら、目を細めた。


「で、この前の水曜日の一件。桜子との交渉、よくやったわ。まさかあなた個人の専属移籍を賭けの対象にするなんてね」

「経営陣の許可なく会社ごと傘下に入る契約を結ぶ権限は、俺にはありませんから。それに、神無月は絶対に負けません」

「頼もしいわね。でも、桜子も本気で潰しに来るわ。あの子、欲しいものはどんな手を使っても手に入れる女だから。特番のステージ、こちらも最高のパフォーマンスを用意しないとね」


 真琴はタブレットを取り出し、神無月の新曲のアレンジ案や、特番でのステージ構成についての専門的な打ち合わせを進めていった。


「特番のステージは巨大な円形になる予定よ。だから、タマモちゃんをセンターに据えつつ、全方位から見ても死角がないフォーメーションを組む必要があるわ」


 真琴が画面に図面を映し出し、田村に説明する。


「なるほど。ならば、森田のアクロバットは南側の花道に誘導しましょう。彼女の運動量とパワーは規格外ですから、狭いセンターステージに留めると他のメンバーと接触して怪我をする危険があります」

「いいわね。和田ちゃんのダンスは北側のリフターを使って、立体感を持たせましょう。サラちゃんのコーラスマイクの配置は……」


 田村もマネージャーの視点から、タレントの導線や体力配分、そして安全管理についての意見を的確に述べていく。音楽の専門知識は真琴に及ばないが、フィジカルのコントロールに関しては田村の右に出る者はいない。

 一時間ほどで密度の濃い打ち合わせが終わり、田村は持参していた大きめの保冷バッグをテーブルの上に置いた。


「実は今日、この後帝国芸能に立ち寄るアポを取っています」

「えっ? 水曜日に行ったばかりなのに、また一人で桜子に会いに行くの?」


 真琴が驚いたように目を丸くする。


「水曜日の口頭での交渉を文書化するための書類提出と、特番当日のスケジュール調整です。ついでに、差し入れを用意しました」


 田村が保冷バッグの中身を指差す。


「桜子に差し入れ? 一体何を作ったの?」

「ただの手作り肉じゃがです。社長業の激務で、食事の栄養バランスが偏っているかと思いまして」


 真琴は一瞬呆れたような顔をした後、腹を抱えて大笑いし始めた。


「あはははっ! 業界の女帝に、タッパーに入れた手作りの肉じゃが!? ノリくん、あなた本当に最高ね! 桜子の反応が見ものだわ!」

「笑うところではありませんよ。栄養管理は重要です」


(打ち合わせは無事に完了した。次の業務に向かうか)


 田村は笑い転げる真琴に軽く頭を下げ、プライベートルームを後にした。


★★★★★★★★★★★


 15時。

 田村は再び、六本木にある帝国芸能本社の最上階、社長室に足を踏み入れた。

 広大なガラス張りの部屋の奥で、柴田桜子が革張りのソファに優雅に足を組んで座っていた。


「水曜日の今日で、また私の顔を見に来たの? ずいぶんとせっかちな男ね」


 桜子が妖艶に微笑む。


「本日は、特番に関するスケジュールの確認と、先日合意した条件の確認書類の提出に参りました」


 田村はバインダーから書類を取り出し、テーブルの上に置いた。


 桜子は書類には目もくれず、ポロシャツ越しにも分かる田村の分厚い大胸筋を、熱っぽい視線で見つめた。


「そんな紙切れなんてどうでもいいわ。あなたが休日にここに来たということは、私のモノになる決心がついたのかしら?」


 桜子の瞳がスッと細められた。

 その瞬間、彼女の身体から凄まじい威圧感が放たれた。日本の芸能界の頂点に君臨する女帝としての、絶対的な覇気だ。

 冷ややかな空気が社長室を満たし、肌を刺すような鋭いプレッシャーが田村の巨体を包み込む。


(高層ビルの気密性が高くて耳が詰まるな。唾を飲み込もう)


 田村は太い首を軽く回し、ごくりと喉を鳴らした。


「俺は神無月のマネージャーです。勝負は来月の特番です」


 田村が顔色一つ変えずに平然と答えると、桜子は呆れたようにため息をつき、威圧感をスッと収めた。


「本当に、何度やっても効かないのね。あなたのそのタフさ、ますます欲しくなったわ」


 田村は持参した保冷バッグを開け、一つのタッパーを取り出してテーブルの上に置いた。


「これは?」


 桜子が訝しげに眉をひそめる。


「差し入れの手作り肉じゃがです。午後の業務のエネルギー補給にどうぞ。持ち歩き用に保冷バッグに入れていましたが、冷たいままでも脂が固まらないよう、赤身肉を使い計算して調理してあります。そのままお召し上がりください」

「……は? 私に、タッパーに入れた家庭料理を食べろと言うの?」


 桜子は信じられないものを見る目でタッパーを見つめた。

 彼女が普段口にするのは、専属シェフが作る高級フレンチや、一流料亭の選び抜かれた食事ばかりだ。プラスチックの容器に入った庶民的な肉じゃがなど、彼女の辞書には存在しない食べ物だった。


「良質な糖質とビタミンの補給は、思考をクリアにします」


 田村が淡々と促すと、桜子は少し苛立ったようにタッパーの蓋を開けた。

 そして、用意された割り箸を手に取り、肉じゃがを一つ口に運んだ。


「……」


 桜子は出された肉じゃがを、無言で次々と箸を進め、あっという間に平らげていった。

 田村は腕を組み、静かにその様子を見守っていた。


 数分後。タッパーの中身は綺麗に空になっていた。

 桜子は箸を置き、小さく息を吐いた。


「……美味しい。ただの肉とジャガイモなのに、どうしてこんなに完璧な栄養バランスと味付けなの。私の胃袋を掴む気?」


 桜子は頬をほんのりと赤く染め、田村を上目遣いで睨みつけた。

 その表情には、女帝としての余裕や冷徹さはなく、ただ一人の女性としての素直な驚きと、抗い難い欲求が表れていた。冷やしても硬くならないように計算された肉の柔らかさと、中までしっかり染み込んだ出汁の旨味。それは高級レストランにはない、素朴で力強い愛情の味だった。


「俺は担当タレントの健康管理のために自炊をしているだけです。お口に合ったなら何よりです。さて、書類の確認をお願いします」


 田村がバインダーを差し出すと、桜子はゆっくりと立ち上がり、書類を受け取りながら田村の胸元にスッと顔を近づけた。


「……田村範朝。あなた、絶対に手に入れてみせるわ。来月の特番、楽しみにしていなさい」


 桜子の瞳には、田村のマネジメント能力と、その手料理に対する強烈な独占欲がはっきりと宿っていた。


 桜子は書類に目を通した。


「合同フェスにおける敗者の傘下入り……ただし、高天原プロダクション全体ではなく、田村範朝個人の専属移籍に限る。間違いないわね」

「ええ。それに加え、特番当日のリハーサル時間と、我々の楽屋の配置についての要望も記載してあります。不当な冷遇を受けないための、最低限の確約です」

「ふふっ、抜かりないわね。いいわ、サインしてあげる」


 桜子が万年筆で流麗なサインを書き込む。帝国芸能の女帝は、自らが仕掛けたパワーゲームの中で、田村の規格外のタフさと完璧な肉じゃがの前に、完全に誤算を強いられていたのだ。


(栄養補給は完了したようだな。無事に署名も得られた)


 田村はサインされた書類と空になったタッパーを回収し、自身の物理的かつ合理的なアプローチが今回も成功したことに小さく頷いた。


★★★★★★★★★★★


 夕暮れ時。

 アパートのドアを開けた田村の足元へ、ダイズが短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら嬉しそうに駆け寄ってきた。


「ただいま、ダイズ。いい子で留守番できたな」


 田村はしゃがみ込んでダイズを抱き上げ、その柔らかな温もりに癒される。ダイズは田村の指先をペロペロと舐め回し、全身で再会の喜びを表現していた。


(明日のためにも、今日はゆっくり休ませよう)


 真琴との密な打ち合わせ、そして桜子への手土産を通じた牽制と書類の確保。休日の業務は完璧に完了した。

 来月の特番に向け、神無月のメンバーを最高の状態に仕上げるため、霊感ゼロの最強マネージャーは決意を新たにするのだった。

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