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第33話 単身での乗り込みと、女帝のプレッシャー

 水曜日の朝。

 田村範朝は、1Kのアパートのリビングで柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』のブラッシングを行っていた。

 専用のブラシで背中を撫でてやると、ダイズは短い尻尾をパタパタと振り、田村の太い太ももに顎を乗せて甘えてくる。ブラシに絡みつく抜け毛の量は、数日前に比べて明らかに少なくなっていた。


(抜け毛が減ってきた。換毛期も終わりだな。室温は26度で安定している)


 田村はサークル内の環境を指差し確認し、新鮮な水と自動給餌器のタイマーをセットした。犬の健康管理は、担当するアイドルのメンタルケアにも直結する重要な業務だ。

 パツパツのスーツを着込んだ田村は、愛らしいダイズの鳴き声に見送られ、高天原プロダクションの事務所へと出社した。


★★★★★★★★★★★


 事務所の地下防音スタジオでは、神無月の四人が滝のような汗を流しながら、激しい自主レッスンを行っていた。

 帝国芸能の圧力による、度重なる仕事のキャンセル。その理不尽な仕打ちに対する怒りと悔しさを、彼女たちは全てパフォーマンスの向上へとぶつけていたのだ。

 タマモの歌声は以前よりも鋭く響き渡り、和田の軽やかなステップは正確にリズムを刻む。森田のダイナミックな動きは空気を切り裂き、サラの深く艶やかなコーラスが全体を力強く包み込んでいる。


 田村は彼女たちの頼もしい姿を無言で見届けた後、1階の事務室にいる特別顧問の宮崎真琴に声をかけた。


「宮崎さん。仕事のキャンセルが相次いでいる件で、帝国芸能に直接抗議に行ってきます」


 田村の唐突な宣言に、コーヒーを飲んでいた真琴は目を丸くした。


「ノリくん、本気? 桜子に直接乗り込むなんて、危険すぎるわ。あの女は怒らせると本当に何をされるか分からないわよ」

「ええ。ですが、これ以上の不当な圧力は、彼女たちのモチベーションに関わります。それに、昨日ジュリアさん本人から、裏工作による不戦勝は望んでいないと明確な意思表示を受けました」


 田村は真っ直ぐに真琴を見据えた。


「直接、柴田社長と交渉する席を設けてもらえませんか」


 真琴は小さくため息をつき、やがて面白そうに口角を上げた。


「……分かったわ。私がアポを取ってあげる。でも気をつけてね、向こうは業界のトップよ。無理だと思ったらすぐに撤退しなさい」

「問題ありません。俺のスーツは頑丈ですから」


 真琴の迅速な手配により、田村は今日の午後に帝国芸能の社長室を訪れる約束を取り付けた。有能なビジネスマンとして、事前の「報・連・相」と根回しは完璧に完了した。


★★★★★★★★★★★


 14時。六本木の一等地にそびえ立つ、巨大な超高層ビル。

 そこが日本の芸能界を牛耳る『帝国芸能』の本社だった。

 田村は真琴から渡された特別通行パスを提示し、厳重なセキュリティゲートを無表情で通り抜けた。周囲のエリート社員や洗練されたタレントたちが、田村の異常なガタイの良さに道を譲っていく。


 専用エレベーターで最上階へ上がり、重厚なマホガニーの扉を開ける。

 広大な社長室は、全面ガラス張りで東京の街並みが一望できる作りになっていた。

 その巨大なデスクの奥で、漆黒のドレスに身を包んだ柴田桜子が、妖艶な笑みを浮かべて待ち構えていた。


「まさか本当に、一人で乗り込んでくるなんて。命知らずな男ね、田村範朝さん」

「お時間をいただき感謝します。本日は、御社からの不当な圧力の撤回を求めて参りました」


 田村は名刺を差し出すこともなく、部屋の中央で立ち止まり、単刀直入に切り出した。


 桜子は優雅に立ち上がり、ヒールの音を響かせながらゆっくりと田村に近づいてくる。


「弱小事務所の仕事を白紙にするなんて、私にとっては造作もないことよ。私の傘下に入らないなら、干し上げるまで。それがこの業界のルールよ」

「ジュリアさんも、裏工作を不服としていました。御社の看板タレントの意思を無視するのは、経営のトップとして悪手ではありませんか」

「……生意気な口を叩くのね」


 桜子の目が細められ、その美しい顔からスッと表情が消えた。

 その瞬間、彼女の身体から凄まじい『覇気』が放たれた。


 それは、純粋な人間でありながら、並のあやかしを遥かに凌駕する圧倒的なプレッシャーだった。長年、芸能界の頂点に君臨し続けてきた女帝としての本気の威圧感。

 部屋の空気が鉛のように重くなり、巨大な窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げる。観葉植物の葉が激しく揺れ、常人であれば息絶え絶えに這いつくばるほどの極限のオーラが、田村の巨体を包み込んだ。先日のホテルでの対峙を優に超える、殺気すら混じった本気の力だ。


(風切り音が酷いな。高層階は隙間風が入りやすいのだろうか)


 田村は太い首をコキリと鳴らし、眉をひそめた。


「柴田社長。少しエアコン効きすぎですか? 先日のホテルでも申し上げましたが、冷風が直接当たると喉に悪影響ですよ。設定温度を上げた方がいい」


 桜子は、呆れたように小さく息を吐いた。

 自分の全力の威圧を正面から浴びて、顔色一つ変えずにまたしてもエアコンのせいにする人間など、これまでの彼女の人生において一人も存在しなかったからだ。


「……ふふっ。あははははっ!」


 数秒の沈黙の後、桜子は腹を抱えて笑い出した。

 部屋を包んでいた重く冷たいプレッシャーが一瞬で霧散し、華やかな空気が戻る。


「本当に規格外の男ね。私の最大の威圧を、また空調の不具合で済ませるなんて。いいわ、あなたのその度胸に免じて、交渉の続きをしてあげる。私をエスコートしなさい」

「外出ですか? マスコミの目があります。スキャンダルは防がなければなりません」

「心配いらないわ。この近隣にある、絶対に身元のバレない会員制の高級料亭を手配させる。そこなら絶対に安全よ。……まさか、逃げる気?」


 桜子が挑発するように視線を向ける。


「分かりました。完全個室であり、スキャンダルのリスクがないのであれば同行します」


 田村は一切の躊躇なく頷いた。タレントや事務所の不利益になるリスクが排除されているのであれば、交渉の席を蹴る理由はない。


★★★★★★★★★★★


 六本木の裏路地にひっそりと佇む、会員制の高級料亭の奥座敷。

 周囲の喧騒から完全に隔離された和の空間で、二人は向かい合って座っていた。


 白木の一枚板のテーブルには、次々と最高級の江戸前寿司が運ばれてくる。

 田村はそれらを、午後のマネジメント業務に不可欠なエネルギー補給として、ただ黙々と胃に収めていった。


(美味いな。上質なタンパク質だ)


 田村は目の前の料理を平らげることに集中した。どれほど高価な職人の握りであろうと、彼にとっては己の巨大な筋肉を維持し、激務をこなすための燃料に過ぎない。完璧な箸使いで、圧倒的なスピードで皿を空にしていく。


 桜子は日本酒の入ったお猪口を傾けながら、田村の豪快な食べっぷりを熱っぽい視線で見つめていた。


「相変わらず、見ていて気持ちのいい食べっぷりね。あなたを見ていると、退屈しないわ」

「食事は資本ですから。それで、先ほどの交渉の件ですが」


 田村がおしぼりで手を拭き、本題を切り出す。


 桜子は妖艶に微笑み、お猪口をテーブルに置いた。


「いいわ。ジュリアの直訴の顔も立てて、今日から営業妨害はストップしてあげる。あなたたちには、万全の状態でステージに立ってもらうわ」

「感謝します。これで担当タレントたちもレッスンに集中できます」


 田村が短く頭を下げると、桜子はスッと身を乗り出した。


「でも、条件があるわ。来月末に開催される大型音楽特番『東京スーパーライブ』。そこにジュリアと神無月を出演させるよう手配する。そこで直接対決よ。もし神無月が負けたら……あなたとあなたの担当タレントたちは、全て帝国芸能の傘下に入りなさい」


 それは、巨大な権力を持つ女帝からの、絶対に逃れられない賭けの提示だった。

 だが、田村の表情に一切のブレは生じなかった。


「……お断りします」

「あら? 逃げるの?」


 桜子が眉を吊り上げるが、田村は冷静に首を横に振った。


「俺は高天原プロダクションの一介のマネージャーです。会社ごと傘下に入るという契約を、俺の独断で勝手に決める権限はありません。ですが……」


 田村は、鋭い眼光で桜子を真っ直ぐに見据えた。


「俺個人の専属移籍であれば、社長に掛け合って賭けの対象にすることは可能です」


 田村の言葉を聞き、桜子の目が怪しく細められた。


「ふふっ……いいわ。私が欲しいのはあなたよ。あなたが手に入るなら、それで十分。もっとも、その時は神無月の息の根も完全に止まっているでしょうけれどね」

「分かりました。交渉成立ですね。ですが、俺の担当タレントたちは絶対に負けません」


 田村が揺るぎない視線で断言すると、桜子の頬がほんのりと紅潮した。


「その強気な瞳、たまらないわ。来月の勝負の日が楽しみね」


 桜子は満足げに微笑み、再びお猪口を手に取った。

 巨大な権力との直接対決は、田村の圧倒的な鈍感力と冷静なビジネスマネジメントによって、明確なルールを伴う真剣勝負へと持ち込まれたのだ。


★★★★★★★★★★★


 夕方。

 田村がアパートに帰宅すると、サークルの中からダイズが「ワォン!」と元気な声で出迎えてくれた。


「ただいま、ダイズ。いい子で待っていたな」


 田村はしゃがみ込み、ダイズの柔らかな体を両手で抱き上げた。ダイズは短い尻尾をちぎれんばかりに振り、田村の指先をペロペロと舐め回す。


(交渉は成立した。これで次の対決までの業務に専念できる)


 田村はダイズのミルクのような匂いに癒やされながら、来るべき決戦に向けて静かに闘志を燃やしていた。

 日本の芸能界を牛耳る女帝のプレッシャーすらも平然と跳ね除けた、霊感ゼロの最強マネージャー。彼と神無月のメンバーたちの前に立ちはだかる障害は、もはや純粋なステージでのパフォーマンス対決のみとなっていた。

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