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第32話 窮地のキャンセルラッシュと、波に揺れる屋形船

 厳しい夏の日差しがアスファルトを焦がす、火曜日の朝。

 田村範朝は、1Kのアパートのリビングで、柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』の夏バテ対策を行っていた。


 サークルの中に、ペット用の接触冷感マットを新しく敷き詰める。ダイズはひんやりとした感触が気に入ったのか、さっそくマットの上に腹ばいになり、「クゥ〜ン」と気持ちよさそうな声を漏らして短い尻尾をパタパタと振った。

 新鮮な飲み水をたっぷりと用意し、自動給餌器のタイマーを再確認する。犬にとって夏の暑さは命に関わるため、室温管理には細心の注意を払う必要がある。


(エアコンは26度。ひんやりマットも敷いた。飲み水もたっぷりあるな)


 田村は指差し確認を終え、パツパツのスーツのネクタイを締めた。


「行ってくるぞ、ダイズ。涼しいところで大人しく待っていろよ」

「ワンッ!」


 愛らしい見送りの声に背中を押され、田村はアパートを出発し、高天原プロダクションの事務所へと向かった。


★★★★★★★★★★★


 事務所のドアを開けると、ミーティングルームにはかつてないほど重く、ピリピリとした空気が充満していた。

 長机の奥で、特別顧問の宮崎真琴がスマートフォンを耳に当てながら、険しい顔で何事かを交渉している。神無月の四人のメンバーたちは、口を真一文字に結んでその様子を見守っていた。


「ええ、そうですか。上の決定なら仕方ないわね。……ええ、またの機会に」


 真琴が通話を切り、大きなため息をつきながらスマートフォンをテーブルに放り投げた。


「おはようございます。朝から随分と空気が重いですね。何かトラブルですか」


 田村が自分のデスクにカバンを置きながら尋ねると、真琴は力なく首を横に振った。


「ノリくん。状況は最悪よ。今週末に出演予定だった地方の大型アイドルフェス、主催者都合で突然キャンセルになったわ」

「キャンセル? 出演の契約は既に交わしていたはずですが」

「それだけじゃないわ。来週予定していた音楽雑誌のインタビューも、ネット番組のゲスト出演も、たった今、全部白紙になったの。見事なまでのキャンセルラッシュよ」


 真琴の言葉に、田村は腕を組んだ。

 キャパ500人のワンマンライブを大成功させ、合同フェスでも引き分けという結果を残し、順調にプロモーションの階段を上り始めていた矢先の出来事だ。これほど不自然なタイミングで全ての仕事が飛ぶなど、偶然で片付けられる話ではない。


「……桜子の仕業ね」


 真琴が、ギリッと奥歯を噛み締めた。


「帝国芸能の女社長。あいつ、ノリくんが引き抜き工作を断った途端に、自分の持つ業界の全ネットワークを使って圧力をかけてきたのよ。自分たちの傘下に入らないなら、日本の芸能界から完全に干し上げるつもりね」


(帝国芸能の圧力か。業界のパワーゲームだな。理不尽だが仕方がない)


 田村は巨大な権力による嫌がらせの事実を、静かに飲み込んだ。


 しかし、神無月のメンバーたちは田村のように冷静ではいられなかった。


「……ふざけないで。人間の分際で、妾たちの輝かしいステージを邪魔するなんて……!」


 センターのタマモが顔を真っ赤にして立ち上がった。彼女の全身からバチバチッと青白い火花が弾け飛び、金色の髪が天井に向かって激しく逆立つ。トップアイドルとしての気高いプライドが、理不尽な圧力によって深く傷つけられていた。


「アタシらのシマを荒らすだけじゃ飽き足らず、仕事まで奪うってのか! 上等だ、今すぐその帝国芸能のビルに乗り込んで、社長室ごとぶっ壊してやる!」


 森田が吠え、パイプ椅子の背もたれを力任せに握りしめた。ベキィッという嫌な音とともに、頑丈なスチールパイプが飴細工のようにひしゃげる。


「……むかつく。許さない。全員、凍らせてやる……」


 和田の周囲の温度が急降下し、彼女の足元から真っ白な霜が床一面に放射状に広がっていく。室内の空気が一瞬にして冬場のように冷え込んだ。


「マネージャー君の努力を無駄にするなんて、万死に値するわ。あの女社長、丸呑みにしてあげましょうか……」


 イ・サラの瞳が暗く沈み込み、彼女の足元から伸びた影が不気味な八叉の蛇へと姿を変えて、獲物を威嚇するように荒々しく立ち上がった。


 怒りと殺意。四人の『祟り神』としての恐ろしい瘴気が一斉に暴走し、ミーティングルームの蛍光灯が激しく明滅を始めた。窓ガラスがビリビリと震え、常人であれば息をするのも困難なほどのプレッシャーが空間を支配する。


(古いビルだから漏電しそうだ。空調もおかしい。換気扇を回そう)


 田村は部屋を包む超常現象を、老朽化した建物の設備不良だと一人で納得し、全く動じることなく壁の換気扇のスイッチを強に入れた。


「全員、落ち着け」


 田村の低く力強い声が、部屋の空気を震わせた。

 パツパツのスーツに包まれた巨漢が、怒り狂う四人の前に立ちはだかる。


「仕事がキャンセルされたくらいで騒ぐな。スケジュールが空いたなら、その分、基礎体力作りとボイストレーニングに時間を回せる。どんな嫌がらせを受けようと、お前たちが最高のパフォーマンスを磨き続ければ、必ず道は開ける」

「タムラ……」

「パイプ椅子を壊しても仕事は戻ってこないぞ、森田。ほら、今日はスタジオに籠もらず、外へランニングに行くぞ。全員着替えてこい」


 田村のブレない真っ直ぐな言葉と、圧倒的な安心感を放つ丸太のような腕。

 それを見た四人の怒りのオーラは急速に萎み、バチバチと鳴っていた静電気も、足元の霜も、威嚇する大蛇の影もスゥッと消え去っていった。


「……仕方ないわね。タムラがそう言うなら、走ってあげるわ」


 タマモがツンとそっぽを向きながらも、おとなしく更衣室へ向かった。


 メンバーが部屋を出て行った直後。

 田村のズボンのポケットで、スマートフォンが軽快な着信音を鳴らした。

 画面には、見覚えのある海外の番号が表示されている。


「はい、田村です」

『チャオ、タムラ! 私ですわ、ジュリアです!』


 スピーカー越しに、ジュリア・ロッシの明るく弾むような声が響いた。


『風の噂で聞きましたわ。神無月の今週のスケジュール、すべて白紙になってしまったそうですわね。……つまり、タムラは今日、お休みということですわよね?』

「ええ。ですが、タレントの基礎レッスンの管理があります」

『そんなの他のスタッフに任せておけばいいんですの! タムラ、私とデートしてくださいな! 今からすぐにでもお会いしたいですわ!』


 突然のデートの誘い。

 相手は、今まさに自分たちを業界から干し上げようとしている敵対事務所のトップアイドルだ。


「宮崎さん。ジュリア・ロッシから外出の誘いです」


 田村は通話を保留にし、真琴に報告と相談を行った。有能なビジネスマンにとって、ライバル陣営との接触における「報・連・相」は絶対の義務である。


「あら、敵の姫君からのご指名ね」


 真琴は面白そうに口角を上げた。


「行ってきなさい、ノリくん。桜子社長の強引なやり方に、ジュリアちゃん自身がどう思っているのか、本音を聞き出してくるのよ。マスコミの目が届かない、絶対に安全な場所を私が手配するわ」

「分かりました。お任せします」


 真琴の許可を得た田村は通話を再開し、ジュリアの誘いを承諾した。


★★★★★★★★★★★


 19時。東京湾の穏やかな波に揺れる、お台場の海。

 田村は、真琴が独自のコネクションで手配した、完全貸し切りの豪華な屋形船の座敷に座っていた。


 お台場の人気のない指定の船着き場。目深に被った帽子と大きなサングラス、そして薄手のロングカーディガンで完全に変装したジュリアが、周囲を警戒しながら足早に近づいてきて、船へと乗り込んだ。


(海の上ならパパラッチの望遠レンズも届かない。真琴さんの手配は完璧だ)


 田村はスキャンダル対策の万全さに感心しつつ、正面に座る女性を見つめた。


「お待たせしましたわ、タムラ!」


 他人の目が完全にシャットアウトされた屋形船の個室に入った瞬間、ジュリアは変装の帽子とカーディガンを脱ぎ捨てた。

 その下から現れたのは、深く鮮やかな瑠璃色の浴衣姿だった。

 普段の洗練されたドレスやスキニーデニムとは違う、日本の伝統的な衣装。金糸のような長い髪は綺麗にまとめられ、うなじが美しく強調されている。長身で彫りの深い外国人美女が着る浴衣は、息を呑むほどに艶やかで、周囲の風景を切り取るような圧倒的なオーラを放っていた。


「日本の夏といえば、屋形船と浴衣ですわよね! ずっと着てみたかったんですの!」

「よく似合っていますよ。しかし、一人でその着付けとヘアセットを行ってきたのですか?」

「まさか! 実はホテルを抜け出す前に、親しい日本人のメイクスタッフにこっそり手伝ってもらったんですの。桜子社長には内緒ですわよ」


 ジュリアがイタズラっぽくウインクをする。


 屋形船が出航し、東京湾の美しい夜景が窓の外を流れていく。

 テーブルには、屋形船のコース料理として運ばれてきた新鮮な刺身の舟盛りや、揚げたての天ぷらが次々と並べられていく。田村はそれらを、アイドルの護衛業務に必要なカロリー補給として、黙々と胃に収めていった。


「それで。わざわざ俺を呼び出した理由はなんですか?」


 田村が冷たい烏龍茶を飲みながら本題を切り出すと、ジュリアの表情からパッと笑顔が消え、真剣な眼差しになった。


「……桜子社長のやり方、私は好きじゃありませんわ」


 ジュリアは、自分のグラスを両手で包み込むようにして俯いた。


「神無月のスケジュールを意図的に白紙にするなんて。そんな政治的な圧力を使ってライバルを排除するなんて、エンターテインメントに対する冒涜ですわ」

「あなたの事務所の社長の決定です。俺たちが文句を言える立場にありません」

「でも、私は嫌なんですの!」


 ジュリアが顔を上げ、サファイアのような瞳で田村を真っ直ぐに見据えた。


「私は、正々堂々とステージの上で、歌とダンスの力だけで神無月をねじ伏せたいんです! 裏工作で手に入れた不戦勝なんて、何の意味もありませんわ。私は、私の実力であなたたちに勝って、そしてタムラを迎えに行きたいんですの!」


(社長のやり方に不満があるのか。プロ意識が高くて立派なアイドルだ)


 田村は、彼女のパフォーマンスに対する一切の妥協のない姿勢に、深く感銘を受けた。


「あなたのその心意気は素晴らしい。だが、俺たちはどんな逆境でも潰れたりしませんよ。次のステージが開催される限り、最高の状態に仕上げたタレントたちを送り出します」

「……ええ。そうでなくては困りますわ。私の愛した人は、どんな権力にも屈しない強い男性ですもの」


 ジュリアの瞳が、再び熱っぽい輝きを取り戻した。


「タムラ。次の対決で私が勝ったら、絶対に私のアモーレになっていただきますわ! これは譲れませんからね!」


 ジュリアは立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して、田村の太い首に両腕を絡ませてギュッと抱きついてきた。

 彼女の浴衣越しに伝わる体温と、甘い香水の匂いが田村を包み込む。


(船が揺れてバランスを崩したのだろう。危ないな)


 田村はジュリアが転倒しないよう、そっと彼女の背中を支えた。


「俺は神無月のマネージャーです。負けるつもりはありませんよ」

「ふふっ、楽しみにしておりますわ!」


 ジュリアは田村の胸板から顔を離し、挑戦的で眩しい笑顔を咲かせた。


★★★★★★★★★★★


 22時。

 田村がアパートに帰宅すると、サークルの中からダイズが「ワォン!」と元気な声で出迎えてくれた。


「ただいま、ダイズ。いい子で待っていたな」


 田村はしゃがみ込み、ダイズの柔らかな体を抱き上げた。ダイズは嬉しそうに田村の指先をペロペロと舐め回す。冷感マットと適切な空調のおかげで、ダイズの体調は万全のようだ。


 帝国芸能という巨大な権力による容赦ないキャンセルラッシュ。

 しかし、ジュリアという正統派アイドルの真っ直ぐな闘志に触れたことで、田村の中に焦りは一切なかった。

 どんな圧力がかかろうとも、自分が盾となって神無月のメンバーを守り、鍛え上げるだけだ。

 霊感ゼロの最強マネージャーは、愛犬の温もりに癒やされながら、来るべき次なる決戦に向けて静かに闘志を燃やし続けるのだった。

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