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第31話 女帝の引き抜き工作と、覇王色のプレッシャー

 休日の朝。

 田村範朝は、1Kのアパートのリビングで、柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』のケアを行っていた。

 今日は定期的なメンテナンスの日だ。犬用の爪切りを取り出し、ダイズの小さな前足を優しく、しかししっかりとホールドする。ダイズは少し怖がって「クゥーン」と鼻を鳴らして身をよじったが、田村が「大丈夫だ、すぐ終わる」と低く落ち着いた声で声をかけると、観念したようにおとなしくなった。

 パチン、パチンと手際よく爪を整えた後、専用のイヤークリーナーを含ませたコットンで、キャラメル色の耳の内側を丁寧に拭き取っていく。


「よし、これで終わりだ」

「ワンッ!」


 解放されたダイズは嬉しそうに短い尻尾を振り、田村の太い指先をペロペロと舐めた。


 本日の午後は、他事務所の代表から個人的な呼び出しを受けている。一種のビジネスミーティングであり、田村はダイズを留守番させるための念入りな準備を進めていた。


(エアコンの設定温度は26度。自動給餌器のタイマーと水も問題ない。誤飲しそうな小物もすべて片付けたな)


 サークル内の環境を指差し確認し、最後にダイズの柔らかな頭を撫でる。


「夕方には帰る。いい子で待っていろ」

「ワォン!」


 元気な鳴き声に見送られ、田村はパツパツのスーツに身を包んでアパートを後にした。


 本日の面会について、田村は独断で動いているわけではない。

 あらかじめ高天原プロダクションの特別顧問である宮崎真琴には、帝国芸能の社長から直々の呼び出しがあった件をしっかりと報告・相談してある。


『敵のトップが直々に動くなんて面白いわね。もちろん行ってきてちょうだい。危なくなったらすぐに連絡しなさい。向こうの出方をしっかり探ってくるのよ』


 真琴からそう指示を受けた上での、明確な意図を持った情報収集活動だ。有能なビジネスマンにとって、組織内での「報・連・相」は基本中の基本である。


★★★★★★★★★★★


 指定された場所は、都心の一等地にそびえ立つ超高級ホテルの最上階だった。

 一般客は決して立ち入ることのできない、完全会員制のVIPラウンジ。分厚い絨毯が足音を吸い込み、静寂が支配する空間だ。そのさらに奥にある、東京の街並みを一望できる広々とした完全個室に、田村は案内された。


「よく来てくれたわね、田村範朝さん」


 部屋の中央に置かれた高級な革張りのソファで、一人の女性が優雅に足を組んで待ち構えていた。

 息を呑むほどの妖艶さと、他を圧する威厳を備えた完璧なアジアンビューティー。隙のないメイクと、体のラインを美しく見せるハイブランドの漆黒のドレスを涼しい顔で着こなしている。


 彼女こそが、ジュリア・ロッシが所属する巨大芸能プロダクション『帝国芸能』の若き女社長であり、自らも現役のトップスターとして君臨する生ける伝説、柴田桜子であった。


「初めまして。高天原プロダクションの田村です。本日はどのようなご用件でしょうか」


 田村は名刺を取り出し、深々と頭を下げた。

 桜子は田村の名刺を受け取ると、面白そうにその分厚い大胸筋と、スーツ越しにも分かる丸太のような腕の筋肉を上から下まで値踏みするように眺めた。


「そんなに堅苦しくしないでちょうだい。今日はあなたとゆっくりお話がしたくて、この部屋を貸し切ったの。いわば、休日のデートのお誘いよ」

「デート、ですか」


(他事務所のタレントや重役と人前で会うのはスキャンダルの元だ。完全個室を用意してくれたのは助かる)


 田村は彼女の「デート」という言葉を、業界特有のフランクな接待の口実だと受け取り、警戒を解かずに向かいのソファに腰を下ろした。田村の体重で、高級ソファが微かに悲鳴を上げる。


「ええ。あなた、最近業界で少しずつ噂になっているわよ。あのワガママで厄介な『神無月』のメンバーを完璧に手懐けている、凄腕の新人マネージャーがいるってね」

「俺はただ、担当タレントたちの体調を管理し、スケジュールを回しているだけです」

「謙遜しなくていいわ。彼女たちがどれほど『危険な才能』を秘めているか、私はよく知っているもの」


 桜子はグラスに入ったミネラルウォーターを一口飲み、鋭い視線を田村に向けた。


「あの『狐』や『雪女』、『蛇』たちの抱える異常な熱量……並の人間じゃ、到底抑えきれるものじゃない。一歩間違えれば、周囲を巻き込んで破滅するわ。でも、あなたはそれを涼しい顔でコントロールしている」


(タレントの尖った個性や設定を、動物や危険な熱量に例えているのだな。流石はトップだ、表現が独特で面白い)


 田村は桜子の言葉を、アイドルたちの持つ強力なキャラクター性に対する評価だと受け取った。


「彼女たちは素晴らしい個性を持っています。俺は彼女たちをトップアイドルに育てるために、全力を尽くすだけです」

「だから、もったいないのよ」


 桜子が、スッと身を乗り出した。

 その瞬間、彼女から放たれる大人の甘い香りが田村の鼻腔をくすぐった。


「あんな今にも潰れそうな弱小事務所で、彼女たちの才能を腐らせる気? 私の『帝国芸能』の傘下に入りなさい。あなたたちのグループをすべて、私の持つ最高のコネクションと資金力で、世界中に売り出してあげる。もちろん、あなたの給与も今の数倍は保証するわ」


 それは、日本の芸能界の頂点に君臨する女帝からの、直接的な引き抜き工作だった。

 並の人間であれば、その圧倒的な好条件と、桜子自身の凄まじいカリスマ性を前にして、二つ返事で頷いてしまうだろう。神無月というグループごと、帝国芸能の豊富なリソースのもとで活動できるという提案は、喉から手が出るほど魅力的な話に違いない。


「光栄なオファーですが、お断りします」


 しかし、田村の返答は、一切の迷いがない即答だった。


「俺は高天原プロダクションのマネージャーです。彼女たちと、あのオンボロな事務所でトップを目指すことにやりがいを感じています。それに、俺の担当タレントを安売りするつもりはありません」


 田村の言葉を聞いた桜子の表情から、ふっと笑みが消えた。

 数秒の沈黙の後。


 ピキッ……。


 テーブルの上に置かれていたクリスタルグラスが、微かに震えるような音を立てた。

 桜子の身体から、圧倒的な『覇気』が放たれたのだ。

 それは、純粋な人間でありながら、並のあやかしを遥かに凌駕するほどの凄まじい威圧感だった。彼女が本気で怒り、あるいは相手を屈服させようとした時に放つ、芸能界の女帝としてのプレッシャー。

 室内の空気がドスンと重くなり、肌を刺すような冷たく厳しいオーラが、田村の巨体を包み込んだ。窓の外の陽光すらも、一瞬暗く沈んだように錯覚するほどの重厚な空気だった。


(……ホテルの空調設定が低すぎるな。風が直接当たって肌寒い)


 田村は、太い首をゴキゴキと鳴らしながら、パツパツのスーツの腕を軽くさすった。


「……あなた、本当にただの人間なの?」


 桜子の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。

 彼女の放つ本気のプレッシャーを正面から浴びて、顔色一つ変えずに首を鳴らす人間など、これまで彼女の人生において一人も存在しなかったのだ。長年、あらゆる強者や権力者、そして人間ではない存在とすら渡り合ってきた彼女にとって、目の前の光景は信じがたいものだった。


「ええ、筋トレが趣味のただの新人マネージャーですよ。それより、室温を少し上げてもらうよう、ホテルのスタッフに頼みましょうか? 少し風が冷たいようですから」


 田村が平然と呼び出しのベルに手を伸ばそうとした瞬間。


「……ふふっ。あははははっ!」


 桜子は突然、口元を押さえて楽しそうに笑い出した。

 部屋を覆っていた冷たく重いプレッシャーが、一瞬にして春の風のように華やかに霧散していく。


「面白いわ。本当に面白い男ね、あなた。私の威圧を『風が冷たい』で済ませるなんて、規格外にも程があるわ」


 桜子は、田村の分厚い大胸筋と、頼もしい丸太のような腕を見つめ、これまでに見せたことのないような熱っぽい視線を送った。

 それは、ビジネスの駒としてではなく、一人の興味深い存在に対する純粋な独占欲の表れだった。


「神無月のメンバーだけじゃなく、あなた自身にも強烈な興味が湧いてきたわ。田村範朝……あなた、私のモノになりなさい」


(俺のマネジメント能力を高く評価してくれているようだな。ありがたい話だ)


 田村は、彼女の言葉を「優秀な人材としてのヘッドハンティング」と受け取り、静かに首を横に振った。


「お誘いは大変光栄ですが、先ほども申し上げた通り、俺は今の職場と担当タレントに満足しています。それに、他事務所の代表と個人的な専属契約を結ぶような公私混同をするつもりはありませんので」

「ふふっ。つれないのね。でも、私は欲しいと思ったものは、どんな手段を使ってでも必ず手に入れる主義なの。覚悟しておきなさい」


 桜子は妖艶に微笑み、ワイングラスを傾けた。


 その後、個室には最高級のフレンチのフルコースが運ばれてきた。

 色鮮やかな前菜から始まり、トリュフをあしらったスープ、オマール海老のポワレ、そしてメインの黒毛和牛のフィレステーキ。

 田村はテーブルマナーを完璧に守りつつ、出された料理を淡々と胃に収めていった。彼にとって食事はフィジカルを維持するための健康管理の一環であり、高級食材であろうと出されたものは残さず食べるのが礼儀だったからだ。一口ごとに正確な咀嚼を繰り返し、上質なタンパク質と脂質を自らの巨大な筋肉へと変換していく。


 桜子は、そんな田村の豪快でありながら洗練された食べっぷりを、ひどく嬉しそうに眺め続けていた。彼女自身はグラスの赤ワインをゆっくりと嗜むだけで、視線の大部分を田村の食事風景に注いでいるようだった。

 引き抜き交渉は決裂したが、二人の間には不思議と穏やかな空気が流れていた。


★★★★★★★★★★★


 夕方。

 田村がアパートに帰宅すると、玄関を開けた瞬間に「ワォン!」と元気な鳴き声が響いた。

 サークルの中から、ダイズがちぎれんばかりに短い尻尾を振って、田村の帰りを大歓迎してくれている。


「ただいま、ダイズ。いい子で留守番できたな」


 田村はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、しゃがみ込んでダイズの柔らかな体を両手でしっかりと抱きしめた。ダイズは嬉しそうに田村の顔中をペロペロと舐め回してくる。


(帝国芸能の女社長。なかなかに手強い相手だったが、真琴さんへの報告事項は十分に引き出せた。それに、俺たちのスタンスを明確に提示できたはずだ)


 田村はダイズのミルクのような匂いに癒やされながら、今日の休日の出来事を振り返った。


 日本の芸能界を牛耳る女帝、柴田桜子。

 彼女の圧倒的なカリスマ性と、巨大な権力。それは、神無月がトップアイドルを目指す上で、いつか必ずぶつかるであろう巨大な壁だ。

 だが、霊感ゼロで物理防御力最強のマネージャーにとって、どんなに高い壁であろうとも、自分の担当タレントたちを守り抜くという決意が揺らぐことは決してない。


 田村はダイズを抱き上げたまま、夕食の準備に取り掛かるべくキッチンへと向かった。

 新たな波乱の火種が燻り始めたことなど気にも留めず、最強のマネージャーの休日は、愛犬との穏やかな時間の中で静かに暮れていくのだった。

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