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第30話 帰国するライバルと、ガラス越しの植物園

 合同フェスと激動の打ち上げから数日後。

 羽田空港の国際線出発ロビーは、凄まじい数のファンと報道陣でごった返していた。彼らの手には深紅のペンライトや応援うちわが握られ、熱気でむせ返るような空間が形成されている。

 その視線の先には、帝国芸能のスーパーアイドル、ジュリア・ロッシの姿があった。彼女は日本でのプロモーション活動に一定の区切りをつけ、今後のグローバルツアーの準備のために、一度母国イタリアへ帰国するのだ。


 そのVIPラウンジの入り口付近。

 田村範朝と神無月のメンバー四人は、ジュリアの個人的な招待を受けて見送りに来ていた。


「タムラ! わざわざお見送りに来てくれて、グラッツェ!」


 ジュリアは報道陣の目を巧みに躱してラウンジに入ってくるなり、満面の笑みで田村に歩み寄った。彼女の流れるようなブロンドの髪が揺れ、洗練された高級ブランドの香水の香りがふわりと漂う。


「日本での活動、お疲れ様でした。素晴らしいステージでしたよ」


 田村が事務的に頭を下げると、ジュリアは「そんな堅苦しい挨拶は抜きですわ!」と田村の分厚い胸板に躊躇なく飛び込み、彼の両頬にチュッチュッと軽いキスをした。


(親愛を示す欧州の挨拶だな。だが、VIPラウンジ内とはいえ外には無数のマスコミが張っている。こんなところを撮られでもしたら、双方の事務所を巻き込む国際的な大スキャンダルだ)


 田村は一切の動揺を見せることなく、彼女の背中を軽く叩いて引き離すと、外からの死角になるラウンジの奥へとさりげなくジュリアを誘導した。プロのマネージャーとして、タレントの危機管理には常に万全を期さなければならない。


「ちょっと! アンタ、何どさくさに紛れてタムラにキスしてんのよ!」


 センターのタマモが顔を真っ赤にして前に出る。彼女の美しい金髪が、激しい怒りと静電気でチリチリと逆立っていた。


「抜け駆けはずるいぜ、金髪! アタシだってまだデカブツにそんなことしたことねェのに!」


 森田も袖をまくり上げ、今にも飛びかかりそうな勢いで抗議する。


「……泥棒。許さない。田村は私たちの……」


 和田がジャージのフードを深く被り、周囲の空気を急激に冷え込ませた。


「あらあら。空港で大きな蛇を出したくはないのだけれど、少しお仕置きが必要かしら……」


 イ・サラがニコニコと笑いながら、恐ろしい言葉を口にする。


 四人の険悪なオーラがVIPラウンジの空気を重くし、室内の温度が急低下した。


(……また空調の不具合か。空港のVIPラウンジにしては設備管理がなっていないな。急に冷え込んできた)


 田村はパツパツのスーツの腕をさすりながら、天井のエアコンの吹き出し口を訝しげに見上げた。

 四人のアイドルが放つ致死量の瘴気とプレッシャーを浴びても、霊感ゼロの田村はそれを単なる室温センサーのエラーだと即物的に解釈していた。


 一方のジュリアも、四人の凄まじい気迫を真っ向から浴びながら、全く怯む様子を見せなかった。


「ふふっ。相変わらず元気なライバルたちですわね! フェスは引き分けに終わりましたけれど、次は絶対に私が勝ちますわ。ステージの上でも……そして、タムラの隣の席もいただきますわ!」


 ジュリアはサファイアのように青い瞳を輝かせ、真っ直ぐに田村を見つめた。


「タムラ。私、イタリアに戻ってもあなたのこと、片時も忘れませんわ。次に日本に来る時は、必ずあなたを私のアモーレにしてみせますから!」

「光栄です。ですが俺は神無月のマネージャーですから、引き抜きには応じられませんよ」

「ええ、知っていますわ。あなたのそういう義理堅いところが、たまらなく好きなんですの!」


 ジュリアは妖艶に微笑み、田村の丸太のように太い腕にそっと指を這わせた。

 田村は彼女の熱烈なアプローチを、トップアイドルとしての強気なジョークと受け取り、静かに頷き返した。


「じゃあね、タマモ、みんな! 次のステージで会えるのを楽しみにしていますわ!」

「言われなくても、次は妾たちが完全に叩き潰してあげるんだから!」


 タマモが負けじと胸を張る。


 ジュリアは最後まで太陽のような眩しい笑顔を振りまきながら、搭乗口へと向かっていった。

 黒船として来日し、神無月の前に立ちはだかった最強のライバルは、圧倒的な存在感と田村への明確な好意を残したまま、爽やかに去っていったのだった。


★★★★★★★★★★★


 ジュリアが帰国した週末。

 日曜日の朝、田村はアパートのリビングで柴犬の赤ちゃん『ダイズ』のブラッシングを行っていた。


「じっとしてろよ、ダイズ」


 田村が専用のブラシで被毛を梳くと、ダイズは気持ちよさそうに目を細め、田村の太い太ももに顎を乗せてきた。夏毛への生え変わりの時期なのか、ブラシにはふわふわとした柔らかい抜け毛がたくさん絡みついてくる。

 今日の午後は、タレントのメンタルケアのための外出業務が入っている。田村はダイズを留守番させるため、念入りな準備を進めていた。


(エアコンの設定温度は26度。自動給餌器のタイマーと、水も完璧だ。誤飲しそうな小物もすべて片付けた)


 田村はサークル内の環境を指差し確認し、最後にダイズの頭を優しく撫でた。


「夕方には帰る。いい子で待っていろ」

「ワンッ!」


 ダイズの元気な鳴き声に見送られ、田村はアパートを後にした。


 午後。

 田村は都内にある巨大な屋内植物園の入り口に立っていた。

 広大なガラスドームに覆われたその施設は、一年中一定の温度と湿度が保たれ、熱帯から温帯まで様々な植物が青々と生い茂っている。週末とはいえ、入場制限が設けられているため、館内は驚くほど静かで穏やかな空気が流れていた。


「……マネージャー君。今日はわざわざ、私のお休みに付き合ってくれてありがとう」


 田村の隣を歩くのは、神無月のリーダーであるイ・サラだった。

 今日の彼女は、淡いミントグリーンのサマードレスに、ツバの広い麦わら帽子という清楚な装いだ。透き通るような色白の肌と、しっとりとした大人の色気が、周囲の鮮やかな緑によく映えている。

 サラに見惚れていた客たちも、隣を歩く巨漢の鋭い眼光と丸太のような腕に震え上がり、そそくさと道を譲っていく。身長185センチ、体重90キロの田村の放つ物理的なプレッシャーは、タレントを護衛する上でこの上なく役に立っていた。


(パニック後のメンタルケアには、静かで自然の多い環境が最適だ)


 田村は、サラの歩調に合わせてゆっくりとガラスドームの中を進んだ。


「気にするな。大勢の人間がいるパーティー会場は、ストレスが溜まりやすいからな。こうして静かな場所で深呼吸をして、リフレッシュしてくれ」

「ふふっ。マネージャー君のそういう優しいところ、本当にずるいわ」


 サラは嬉しそうに目を細め、自然な動作で田村の太い右腕に自分の両腕を絡ませてきた。

 柔らかく豊かな胸の感触が、ポロシャツ越しに田村の腕に押し付けられる。しかし、田村の表情に動揺は全くない。


(タレントの不安を和らげるための、軽いスキンシップだ。拒絶する必要はない)


 田村はされるがままに腕を貸し、植物園の奥へと進んでいった。


 巨大なシダ植物や、色鮮やかなハイビスカス、希少な蘭の花が咲き乱れる熱帯エリアを抜け、二人は人工の滝が流れる水辺のベンチに腰を下ろした。

 水の流れる心地よい音と、植物から発せられる濃密なマイナスイオンが、ガラスドーム特有の湿気を和らげ、夏の暑さを忘れさせてくれる。


「……ねえ、マネージャー君」


 サラが、帽子を外して膝の上に置き、少しだけ真剣な表情で口を開いた。


「打ち上げの時……私、すごく取り乱してしまって、ごめんなさい。あの時、ジュリアさんがあなたに告白したのを見て……私の中の、ドロドロした嫌な感情が抑えきれなくなってしまったの」


 サラの瞳が少しだけ伏せられ、長いまつ毛が影を落とす。


「俺は気にしていない。誰にでも息苦しくなる時はある」


 田村は短く、力強い声で答えた。


「でも……もし、あのまま私が暴走して、取り返しのつかないことをしてしまったら……マネージャー君は、私のことを見捨ててしまうんじゃないかって、すごく怖かったの。私、一度執着すると、自分でも止められなくなっちゃうから……」


 サラの言葉に合わせて、彼女の足元の影が少しだけ不自然に濃くなり、ウネウネと蠢き始めた。周囲の空気が微かに重くなり、滝の音が遠のいたように感じる。


(また過呼吸の兆候が出始めている。不安を取り除かないとな)


 田村は、サラの華奢な肩に大きな手をそっと乗せた。


「俺が担当タレントを見捨てることは絶対にない。お前たちがどんなに不安定になっても、俺が全て受け止めてやる。だから安心しろ」


 田村の分厚い手から伝わる温もりと、絶対に揺るがない大木のような安心感。

 その言葉を聞いた瞬間、サラの足元の影はスゥッと元の形に戻り、周囲の重い空気も霧散していった。


「……本当?」


 サラが上目遣いで田村を見つめる。


「ああ。お前たちがトップアイドルになるまで、いや、なってからも、俺はずっとそばでサポートし続ける」

「ふふっ……嬉しい」


 サラは満面の笑みを浮かべ、田村の肩にコトリと頭を乗せた。


「マネージャー君。私、あなたのためなら何だってするわ。どんなに辛いレッスンも、どんなに高い壁も、あなたが隣にいてくれるなら乗り越えられる」


 サラの甘く、少し重たい愛情のこもった言葉が、静かな植物園に響く。


「俺も全力で応える。まずは、次の仕事に向けてしっかり英気を養ってくれ」

「ええ。こうしてあなたと二人きりで過ごせる時間が、私にとって一番のエネルギー補給よ」


 サラは幸せそうに目を閉じ、田村の太い腕をさらに強く抱きしめた。

 ヤンデレ気質なアイドルの重すぎる愛情も、田村の圧倒的な鈍感力とフィジカルの前では、ただの「健気なタレントの信頼」として穏やかに消化されていく。


 緑に囲まれたガラスドームの中で、二人の穏やかな時間はゆっくりと過ぎていく。

 強大なライバルの帰国と、次なるステージへの予感。

 最強のマネージャーと問題児アイドルたちの物語は、さらに深い絆を紡ぎながら、新たな波乱の幕開けへと向かっていた。

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