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第29話 打ち上げと、八つの影のパニック

 合同フェスから数日後の、休日の午後。

 田村範朝は、都内にある巨大なスポーツアミューズメント施設のバッティングエリアに立っていた。

 彼の隣のケージでは、ショートパンツにタンクトップという極めて身軽で動きやすい服装の森田祥子が、金属バットを構えてピッチャーマシーンを鋭く睨みつけていた。


「行くぜェェェッ!!」


 森田の豪快な掛け声とともに、時速150キロに設定された硬球が放たれる。

 彼女は長い手足と驚異的な体幹を活かし、一切の迷いなくバットをフルスイングした。


 カアァァァンッ!!


 耳を劈くような凄まじい金属音と同時に、ボールは猛烈なスピードで弾き返され、奥のネットに深く突き刺さった。もし防護ネットがなければ、そのままコンクリートの壁を貫通していたかもしれないほどの桁外れな打球だ。


「うおおおっ! たまんねェ! 筋肉が喜んでるのが分かるぜ!」


 森田は興奮した様子でバットを振り回し、次々と飛んでくる150キロの剛速球を、ことごとく特大ホームラン性の当たりで弾き返していく。


(有り余る体力の適切な発散だ。フェス後のメンタルケアに丁度いい)


 田村は隣のケージからその様子を見守り、小さく頷いた。

 大舞台を終えた後、タレントの体内には大量のアドレナリンが残留している。特にフィジカル担当である森田は、その膨大なエネルギーを物理的に発散させないとフラストレーションを溜め込んでしまう。休日のデートという名目でこの施設に連れ出したのは、彼女の健康管理の一環だった。


(今朝、ダイズのエアコンと給餌器は完璧にセットしてきた。夜には戻れるだろう)


 田村はアパートで留守番をしている愛犬の丸っこい背中を思い浮かべながら、自身もバットを握り、飛んできたボールを軽く正確に打ち返した。


「おいデカブツ! アタシの打球を見たか! アタシの手にかかれば、150キロなんて止まって見えるぜ!」


 20球を打ち終えた森田が、汗を拭いながらフェンス越しに満面の笑顔を向けてくる。


「素晴らしいスイングだ。だが、グリップを強く握りすぎている。手がマメだらけになるぞ」


 田村はケージを出ると、持参したスポーツ用のテーピングを取り出し、森田の手のひらに手際よく巻いて保護した。


「次はパンチングマシーンに行こう。お前のパンチ力を安全に測定できる」

「おう! 記録をぶち抜いてやるぜ!」


 2人は施設内のアーケードコーナーへと移動した。

 森田はパンチングマシーンの前に立つと、深く息を吐き、右腕を大きく振りかぶった。


 ドゴォォォンッ!!


 森田の拳がターゲットを捉えた瞬間、機械全体が大きく揺れ、激しいエラー音が鳴り響いた。画面の数字がバグったように激しく点滅し、最終的に「測定不能」の文字が表示される。


「ちぇっ。なんだよこの機械、壊れてんじゃねェか」


 森田が不満そうにターゲットを小突く。


「殴り方が悪い。力任せに叩きつけるのではなく、体重を乗せて押し込むんだ。こうやってな」


 田村は森田の横に立つと、軽くステップを踏み、ターゲットに向かって太い腕を真っ直ぐに突き出した。

 ズドンッ、という低く鈍い音が周囲に響き渡る。

 画面には「999」というカンストの数字が表示され、そのままフリーズしてしまった。


「……お前、マジで何モンだよ。アタシより力が強い人間なんて、初めて見たぜ」


 森田は目を丸くして、田村の分厚い大胸筋と丸太のような腕を見上げた。


「日々の筋トレの賜物だ。さあ、次はバスケットボールのコートが空いているぞ」


 その後も、森田はバスケットボールでの激しい1on1や、卓球での超高速ラリー、フットサルなど、施設内のあらゆるスポーツを全力で楽しんだ。田村はそのすべての種目において、森田の規格外のパワーとスピードを真正面から受け止め、完璧な壁打ち相手として機能し続けた。


 数時間後。

 たっぷりと汗を流した森田は、ベンチに座って冷えたスポーツドリンクを勢いよく煽った。


「ぷはーッ! 最高にスッキリしたぜ!」


 森田の顔から、ここ数日の張り詰めていた緊張感や苛立ちが完全に消え去り、底抜けに晴れやかな笑顔が咲き誇っていた。


「田村」


 森田が、少しだけ照れくさそうに田村の顔を見た。


「アタシ、お前といると最高に楽しいぜ。お前みたいにアタシの全力を受け止めてくれる奴なんて、他に誰もいねェからな。……これからも、ずっとアタシの隣で見ててくれよな」

「ああ、マネージャーの仕事だからな。お前が望む限り、全力でサポートする」


 田村が大きな手で森田の頭をポンと撫でると、森田は顔を赤くして「子供扱いすんな!」と吠えたが、その表情は心底嬉しそうだった。


★★★★★★★★★★★


 その日の夜。

 都内の高層ビルにある豪華な貸し切りパーティースペースで、合同フェスの打ち上げが開催されていた。

 帝国芸能のスタッフや業界関係者、そして高天原プロダクションのメンバーが一堂に会する、華やかで盛大な宴だ。会場には色とりどりの食事が並び、シャンパングラスがぶつかり合う上品な音が響いている。


 神無月の四人は、それぞれ個性に合わせた美しいドレスアップ姿で参加していた。タマモは黒と金のシックなドレス、森田は動きやすいパンツドレス、和田は肌の露出を抑えたロングスカート、サラはボディラインの際立つ深紅のドレスを纏っている。

 田村は黒のスーツ姿で壁際に立ち、未成年のメンバーたちが誤って酒を口にしないように目を光らせながら、静かに周囲の状況を監視していた。


「皆様、本日は素晴らしいフェスを成功させることができ、本当に嬉しく思いますわ!」


 会場の中央で、深紅のドレスを纏ったジュリア・ロッシがマイクを握り、華やかなスピーチを始めた。

 彼女が微笑むだけで、会場中の視線が釘付けになる。圧倒的な美貌と、スタジアムを熱狂させたカリスマ性は、打ち上げの場でも少しも色褪せることはなかった。


「特に、神無月の皆様のパフォーマンスは最高でした! 私、日本に来て本当に良かったですわ」


 ジュリアはグラスを掲げ、タマモたちに向かってウインクをした。

 会場から温かい拍手が沸き起こる。


「そして……私から、もう一つ皆様にお伝えしたいことがありますの」


 ジュリアはマイクを持ったまま、人混みを縫って真っ直ぐに田村の元へと歩み寄ってきた。

 周囲のスタッフたちが道を空け、会場の注目が一斉に田村へと集まる。


「私、日本で運命の出会いを果たしました」


 ジュリアはサファイアのように青い瞳で、田村の顔を真っ直ぐに見つめた。

 そして、数多の業界関係者が注目する中、マイクを通して高らかに宣言した。


「タムラ! あなたの強さと優しさに、私は心を奪われました! どうか私の専属マネージャーになって、そして、私のアモーレになってください!」


 会場全体が、水を打ったように静まり返った。

 帝国芸能のトップアイドルが、弱小事務所の一介のマネージャーに対して行った、前代未聞の公開告白。

 数秒の後、事態を飲み込んだスタッフたちから「ええええっ!?」という驚愕のどよめきが爆発的に巻き起こった。


(ジュリアはイタリア仕込みの冗談が好きだな。引き抜きは困る)


 田村は表情を一切変えず、彼女の真っ直ぐな言葉を陽気なジョークとして受け止めた。


「ちょっと、アンタ何勝手なこと言ってんのよ!?」


 真っ先に声を上げたのはタマモだった。彼女はグラスをテーブルに叩きつけ、顔を真っ赤にしてジュリアを睨みつける。


「おい金髪! デカブツはアタシらのもんだぞ! いい加減にしろ!」


 森田が袖をまくり上げ、今にも飛びかかりそうな勢いで前に出る。


「……泥棒。田村は、絶対に渡さない」


 和田もジャージを羽織り直し、周囲の空気を急激に冷え込ませていた。


 三人が激しい抗議の声を上げる中、この公開告白を笑って済ませられない者がもう一人いた。


「…………」


 会場の隅に立っていたイ・サラの瞳から、完全にハイライトが消え失せていた。

 彼女の美しい顔が、能面のように無表情に凍りついている。


 パチンッ、パチンッ。


 突然、パーティースペースの豪華なシャンデリアが不規則に明滅し始めた。

 窓の外の夜景が歪み、会場の空気がドプンと水底に沈んだように重くなる。


「な、なんだ!? 急に空気が重く……」

「息が、苦しい……!」


 帝国芸能のスタッフたちが次々と喉を押さえてうずくまり始めた。

 明滅する光の中、サラの足元から漆黒の影が溢れ出し、瞬く間に壁を覆い尽くすほどの大きさに膨張した。その影は壁や天井を這い上がり、八つの頭を持つ巨大な蛇の姿となって具現化したのだ。


『シュルルルルゥゥゥ……』


 実体を持った八つの巨大な蛇の頭が、真っ赤な舌を出しながらジュリアと田村を取り囲むように鎌首をもたげた。

 会場の温度が一気に下がり、底知れない恐怖が空間を支配する。


「ひぃぃぃっ! ば、化け物だァァァッ!」

「助けてくれェェ!」


 関係者たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、会場は完全な大パニックに陥った。

 ジュリアも巨大な蛇の頭を見て目を見開いたが、彼女は逃げるどころか、不敵な笑みを浮かべた。


「これが神無月の新しい舞台演出ですのね! 素晴らしい熱量ですわ! でも、私は絶対に負けません!」


 彼女は蛇の威圧感を、ライバルアイドルの熱意あるパフォーマンスだと都合よく解釈し、一歩も引かずに胸を張っている。


(照明が故障したか。サラは極度のストレスで過呼吸を起こしている。危ないな)


 田村は、会場を阿鼻叫喚の地獄に変えている巨大な八岐大蛇の具現化を、完全に『アイドルの過呼吸による錯乱と、照明機材のショートが生み出した幻影』だと一人で納得した。


 田村は迷うことなく、蠢く巨大な蛇の影を物理的に掻き分け、無表情のまま立ち尽くすサラの元へと歩み寄った。


「落ち着け、サラ。機材の前に立つな」


 田村は低く穏やかな声でそう言うと、サラの華奢な肩を大きな両手でしっかりと抱き寄せた。


「えっ……マネージャー君……?」


 サラの身体がビクッと跳ねる。


「こんな場所で倒れられたら困る。俺は深呼吸に合わせて背中を叩くから、ゆっくり息を吐け」


 田村はサラの背中を、一定のリズムで優しくポンポンと叩き始めた。


 身長185センチの巨体から発せられる圧倒的な安心感と、静かで力強い鼓動。

 その温もりに包まれた瞬間、サラの瞳にスッと光が戻った。


「私、マネージャー君が遠くに行っちゃうかと思って……すごく、すごく怖かったの……!」


 サラは田村の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


 サラの感情が落ち着きを取り戻すと同時に、壁に張り付いていた巨大な八つの蛇の影はシュルシュルと縮み、霧散するように消え去った。

 明滅していたシャンデリアの光も元に戻り、会場を覆っていた重苦しい空気も嘘のように晴れ渡る。


「よし、照明が直ったな。落ち着いたか?」


 田村が優しく声をかけると、サラは頬を真っ赤にして何度も頷いた。


「ジュリアさん」


 田村はサラの肩を抱いたまま、ジュリアの方へ振り返った。


「冗談はさておき、俺は神無月のマネージャーです。引き抜きのお誘いはお断りします。恋愛も業務の管轄外ですから」


 田村が極めて事務的に、しかし揺るがない態度できっぱりと断りをいれると、ジュリアは少しだけ悔しそうに唇を尖らせた後、パッと華やかな笑顔を咲かせた。


「分かりましたわ! でも、私は絶対に諦めません! いつか必ず、タムラを振り向かせてみせますから!」


 ジュリアの力強い宣言に対し、タマモや森田、和田たち神無月のメンバーが再び一斉に田村の周囲に集まり、彼を守るように立ちはだかった。


(タレントのメンタル管理も、他事務所との付き合いも大変だ。明日はゆっくりダイズの散歩をしてやろう)


 田村はパニックの収まった会場を見渡し、早くアパートで待つ愛犬に会いたいと静かに思考を切り替えるのだった。

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