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第27話 合同フェス本番と、昇華されるオーラ

 週末。合同フェス当日の、早朝。

 田村範朝は、1Kのアパートの浴室でTシャツの袖を肩までまくり上げ、低いスツールに腰掛けていた。

 彼の目の前にある淡いブルーのベビーバスの中には、温かいお湯に浸かって「キュゥン……」と情けない声を出す、柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』がいた。本日は大舞台の朝ということで、田村は早起きしてダイズのシャンプーを行っていた。


 ダイズはお湯が少し苦手なようで、最初はバスルームの入り口で短い四肢を突っ張って必死に抵抗していた。しかし、田村の大きな手にひょいと持ち上げられ、犬の体温に合わせた三十七度の適温のお湯の中にゆっくりと沈められると、観念したようにおとなしくなった。


「暴れるなよ、ダイズ。目や耳にお湯が入るからな」


 田村は分厚い手のひらでダイズの小さな身体をしっかりと、しかし極めて優しくホールドする。犬の皮膚は人間よりも薄くデリケートだ。そのため、田村は事前に成分を厳しくチェックした無添加の低刺激シャンプーを用意し、専用のスポンジでしっかりとキメ細かい泡を作ってから、ダイズの背中に乗せた。

 指の腹を使って、マッサージをするように丁寧に洗っていく。首筋から背中、お尻、そして短い尻尾まで。


 普段はふかふかの丸っこいシルエットのダイズだが、お湯と泡で被毛がペタンと寝てしまうと、驚くほど細く小さな身体が露わになった。まるで別の生き物のように縮んでしまったそのみすぼらしくも愛らしい姿に、田村の厳つい口元が自然と緩む。


「クゥン、クゥン……」


 ダイズは不安げに田村の顔を見上げ、小さな前足を田村の太い腕に乗せてしがみつこうとしてくる。


「大丈夫だ。すぐ終わる」


 田村が低く穏やかな声でなだめると、ダイズは少し安心したのか、目を細めておとなしく泡に包まれ続けた。


 シャワーの温度を少し下げ、すすぎ残しがないようにしっかりと泡を洗い流す。


「ブルルルルッ!」


 お湯から上がった直後、ダイズは本能的に身体を激しく震わせ、水飛沫を浴室のあちこちに撒き散らした。

 田村の顔や服にも水がかかるが、彼は全く意に介さない。すぐに用意していた吸水性の高い大判のマイクロファイバータオルでダイズをすっぽりと包み込んだ。ワシワシと優しく水気を拭き取り、脱衣所へ移動してドライヤーの弱温風を当てていく。

 熱くなりすぎないよう、田村は自分の手をダイズの被毛の間に差し込みながら風を送る。温かい風に吹かれながら、ダイズは気持ちよさそうに目を細め、田村の太い指先をペロペロと舐めてくる。


(ダニやノミの予防、そして皮膚の健康維持。タレントの最大の癒やしとなるペットの体調管理は、マネージャーの重要な必須業務だ)


 完璧にフワフワの毛並みと、お日様のような匂いを取り戻したダイズを抱き上げ、田村は決戦の朝に向けて静かに気合を入れた。


★★★★★★★★★★★


 午後。

 都内の巨大なアリーナ会場は、数万人の観客が発する凄まじい熱気と興奮に包まれていた。

 帝国芸能が主催する『合同フェス』。しかしその実態は、事実上ジュリア・ロッシの来日を大々的にアピールするための巨大なショーケースである。客席を埋め尽くす観客の大半は、世界的なスーパーアイドルであるジュリアの圧倒的なパフォーマンスを目当てに集まったファンたちだった。


「……すごい熱気ね。私たちの初ライブの時とは、次元が違うわ」


 出番を待つステージの舞台袖。

 センターのタマモが、暗がりのセットの隙間から客席の様子を覗き込み、息を呑んだ。

 先ほどまで行われていたジュリアのソロステージの余韻が、まだ会場全体に色濃く残っている。ジュリアのイメージカラーである深紅のペンライトの海が広がり、数万人の観客が彼女の名前を叫び続けていた。その一体感と熱狂は、弱小事務所の新人アイドルである『神無月』がこれから乗り込んでいくには、あまりにも巨大すぎるアウェーの空間だった。


「ジュリアのパフォーマンス、先日のシークレットライブの時よりもさらに進化していたわ。あの子、本当にただの人間なの……?」


 イ・サラが、少しだけ声を震わせて呟いた。


「……むり。あんな空気の中に放り込まれたら、押し潰される。帰りたい……っ」


 和田佐千絵は用意されたステージ衣装の上からすっぽりとジャージを羽織り、ガタガタと歯の根を鳴らして怯えている。


「ビビってんじゃねェよ! とは言いてェけど……流石にあの熱量を見せつけられたら、足がすくむぜ」


 森田祥子も、いつもの豪快さは影を潜め、額に冷や汗を浮かべていた。


 強大なライバルの完璧なステージを見せつけられ、四人の心は再び重圧に押し潰されそうになっていた。


「みんな、聞いてちょうだい」


 そこへ、特別顧問の宮崎真琴が足早に歩み寄ってきた。

 彼女の表情は、かつてないほど真剣で、研ぎ澄まされたクリエイターの顔をしていた。


「ジュリアのステージは確かに完璧だった。圧倒的な『陽』のカリスマ性で、会場を完全に支配していたわ。でも、だからといってあなたたちが彼女と同じ土俵で、同じように綺麗に踊ろうとする必要は全くないのよ」

「……それじゃあ、どうしろって言うのよ」


 タマモが不安げに尋ねる。


「数日前のレッスンで言ったことを思い出して。あなたたちが本来持っている『ヤバい部分』を、そのままステージで出しなさい」


 真琴の言葉に、四人はハッとして息を呑んだ。


「あなたたちの中に渦巻いている、ドス黒い未練や強烈なエゴ、破壊衝動。普段は無意識に漏れ出してしまっているそれを、無理に抑え込むんじゃなくて、曲の最高潮の瞬間に合わせて一気に爆発させるの。ジュリアが『太陽』なら、あなたたちは底知れない『深淵』として、数万人の観客を丸ごと飲み込むのよ」


 真琴の真っ直ぐな言葉が、四人の心に火をつけた。

 自分たちは、人間ではない。古より畏れられてきた『祟り神』だ。その気高くも恐ろしい本性を、最高のエンターテインメントとして昇華させる。それこそが、最強のライバルに対抗するための唯一にして最大の武器なのだ。


「……出番五分前だ」


 傍らで控えていた田村が、静かに声をかけた。

 パツパツのスーツに身を包んだ身長185センチの巨漢が、四人の前に立ちはだかる。


「会場の熱気とアウェーの空気に飲まれるな。お前たちがこれまで積み重ねてきた練習量は、俺が一番よく知っている」


 田村は、和田の肩に手を置き、怯える彼女の目を真っ直ぐに見つめた。


「和田。お前は俺の背中越しに見せつけた、あの最高のダンスを思い出せ」

「森田。遠慮はいらない。ステージの床が抜けるくらい全力でステップを踏んでこい」

「サラ。お前の歌声は、誰よりも深く観客の心に届くはずだ」

「そしてタマモさん。お前はこのグループのセンターだ。堂々と、一番の輝きを見せつけてやれ」


 飾らない真っ直ぐな言葉と、決して揺らぐことのない岩壁のようなその佇まい。それだけで、四人の胸の内に渦巻いていた重圧は、戦いに向かう熱い闘志へと完全に塗り替えられていった。


「……ええ。分かってるわ」


 タマモは帽子を深く被り直し、顔を上げた。

 その瞳には、かつて国を傾けた大妖怪としての気高いプライドと、アイドルとしての圧倒的な覚悟が燃え盛っていた。他の三人も、次々と衣装の乱れを直し、前を見据える。


『――続いてのステージは、高天原プロダクション所属、神無月!』


 会場のアナウンスが響き、数万人の観客のどよめきがアリーナを包む。

 田村は無言で道を空け、四人を光の差すステージへと送り出した。


★★★★★★★★★★★


 暗転したステージ。

 重低音の効いたイントロが鳴り響き、四人にピンスポットライトが当たる。


 客席の大半を占めるジュリアのファンたちは、まだ赤いペンライトを下げたまま、様子見の態勢に入っていた。無名の新人グループが、あのジュリアの後に出てきて何を見せられるのか。そんな冷ややかな空気がアリーナ全体を支配していた。


 しかし、その空気は、タマモの第一声によって物理的に粉砕された。


『――さあ、ひれ伏しなさい!』


 マイクを通したタマモの歌声は、アリーナの巨大なスピーカーの限界を超えるほどの圧倒的な音圧と声量を持っていた。

 いや、それだけではない。

 タマモの足元から、青白い火花がバチバチと激しく弾け飛んだ。それは単なるノイズではなく、曲のビートと完全にリンクした、強烈で美しい光の演出として観客の目に飛び込んだのだ。


「なんだ、今の演出……!?」

「すげえ声量……っ!」


 最前列の観客たちが驚愕の声を上げる中、パフォーマンスはさらに加速していく。


 森田がダイナミックなステップを踏み込み、ステージの床を強く蹴り上げる。

 ドォォォンッ! という重低音とともに、アリーナ全体が地震のようにビリビリと揺れた。森田の有り余る怪力が、スピーカーの振動と見事に共鳴し、観客の足元から内臓を直接揺さぶるような物理的なビートを生み出しているのだ。


「うおおっ、床が震えてるぞ!?」


 さらに、和田がしなやかなターンを決めるたびに、彼女の周囲から極寒の冷気が渦を巻き、濃密な白い霧となってステージから客席の最前列へと流れ込んでいく。

 夏の熱気で満たされていたアリーナの空気が、一瞬にして冷やりとした幻想的な空間へと変貌する。


 そして、サビの最高潮。

 サラの深く艶やかなコーラスがタマモのボーカルに重なり合った瞬間。

 ステージ背後の巨大なLEDモニターと照明がチカチカと不規則に明滅し、四人の背後に、まるで八つの頭を持つ大蛇のような、あるいは九つの尾を持つ狐のような、巨大で恐ろしい影のシルエットが浮かび上がった。


 それは、四人が封印を解かれた「祟り神」としての強烈なエゴと未練を、音楽のグルーヴに乗せて完全に解放した瞬間だった。

 恐ろしくも目が離せない、底知れない深淵の美しさ。

 数万人の観客は、その圧倒的な世界観とパフォーマンスの暴力に息を呑み、完全に金縛りに遭ったように立ち尽くしていた。


(すさまじい音圧と、古い機材の共鳴現象だな。照明の明滅もスモークも、すべてが彼女たちの気迫とリンクして、完璧な舞台演出として機能している。これなら、数万人のアウェーの客も引き込める)


 舞台袖で見守っていた田村は、目の前で起きている超常現象の連続を、すべて物理的なステージの相乗効果だと解釈し、深く感心して頷いていた。


 曲が終盤に差し掛かる頃には、アリーナの空気は完全に塗り替えられていた。

 最初は冷ややかだったジュリアのファンたちでさえも、タマモの圧倒的なボーカルと、四人の気迫に満ちたダンスから目を離すことができず、無意識のうちに手に持ったペンライトを強く握りしめていた。

 やがて、誰からともなく、曲のリズムに合わせてペンライトが振られ始めた。


「オイ! オイ! オイ! オイ!」


 地鳴りのようなコールが、アリーナ全体から巻き起こる。

 五万人近い観客の熱狂が、一つの巨大な「信仰」のエネルギーとなってステージ上の四人に降り注いでいく。

 それは、神無月という無名のアイドルが、最強のライバルと完全に互角のステージを作り上げ、数万人の観客の魂を丸ごと飲み込んだ瞬間だった。


「……ありがとうっ!!」


 最後のポーズを決め、タマモが息を切らしながら叫ぶ。

 その瞬間、アリーナの屋根を吹き飛ばすほどの、割れんばかりの大歓声と拍手が巻き起こった。


 ステージの袖に戻ってきた四人は、全員が肩で息をし、文字通り一歩も歩けないほどに体力を消耗し切っていた。

 しかし、その瞳には、これまでにないほど強烈な光と、やり切ったという確かな自信が宿っていた。


「……見たか、タムラ。これが妾たちの、本当のステージよ」


 タマモが汗だくのまま、誇らしげに微笑む。


「ああ。最高のパフォーマンスだったぞ」


 田村は用意していたスポーツドリンクを手渡し、彼女たちの激闘を真っ直ぐに称えた。


 祟り神としての「業」を、数万人の熱狂へと昇華させた神無月。


 『神の力』と『人間の才能』が激突した合同フェスは、誰も予想しなかった圧倒的な盛り上がりの中で、いよいよ結果発表の時を迎えようとしていた。

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