第26話 プレッシャーの崩壊と、愛情たっぷり特製おにぎり
月曜日の朝。
田村範朝は、1Kのアパートの玄関で靴紐を締めながら、サークルの中でお座りをしている愛犬のダイズに声をかけた。
「ダイズ、今日も留守番を頼むぞ」
ダイズは「ワン!」と元気よく短い尻尾を振り、自動給餌器の前にちょこんと座り直した。昨日は急な外出で長時間の留守番をさせてしまったため、田村は今朝、いつもより多めにブラッシングとスキンシップの時間を取ってダイズのメンタルケアを済ませていた。
(よし。室温も餌のタイマーも完璧だ)
田村は安心してアパートを出発し、高天原プロダクションの事務所へと向かった。
彼の胸中には、昨日見た帝国芸能のスーパーアイドル、ジュリア・ロッシの圧倒的なステージの残像が焼き付いていた。純粋な人間の努力と才能が生み出す、圧倒的な輝き。その強大なライバルと『合同フェス』で激突することになった神無月のメンバーたちをどう導くか、田村はマネージャーとしての情熱を静かに燃やしていた。
★★★★★★★★★★★
地下防音スタジオの重厚な扉を開けると、そこにはひどく張り詰めた、ピリピリとした空気が充満していた。
スタジオの大型モニターには、昨日行われたジュリアのシークレットライブのダイジェスト映像が映し出されていた。
「……ちょっと、今のステップ遅いわよ、吹雪! もっとキレを出して!」
「茨! 声の張りが足りないわ! ジュリアのあの圧倒的な声量を見なさいよ、あんなんじゃ合同フェスで完全に食われちゃうわよ!」
「サラ、コーラスのピッチが半音ズレてるわ! 集中しなさい!」
センターのタマモが、目を血走らせながら他の三人に容赦ないダメ出しを連発していた。
静電気のせいで、彼女の美しい金髪がまるで威嚇する獣のようにバチバチと逆立っている。
「あァ!? アタシのステップは完璧だっただろ! アンタこそ、さっきから一人で走りすぎなんだよ!」
森田が不満げに吠えると、彼女の足元の床がミシッと嫌な音を立てた。
「……こわい。タマモ、ピリピリしてる。息苦しい……」
和田はジャージのフードを被って身体を縮こまらせ、彼女の周囲にだけ冷たい霜が張り始めている。
「あらあら、タマモちゃん。少し落ち着きましょう? みんなの波長がバラバラになっているわ」
イ・サラが宥めようとするが、その背後には不気味に揺れる蛇のような巨大な影が色濃く落ちていた。
「落ち着いてなんかいられないわよ! あの金髪の小娘、人間とは思えないほど完璧じゃない! 妾たちが勝つには、今の十倍、いや百倍は練習しなきゃダメなのよ!」
タマモが悲痛な声で叫んだ瞬間、スタジオの蛍光灯が激しく明滅し、パリンと一本の電球が弾け飛んだ。同時に、耳を突ん裂くような気圧の変化と、肌を刺すような極寒の冷気が渦巻く。
四人の焦りと苛立ちが絡み合い、スタジオの空間そのものが悲鳴を上げているような最悪の惨状だった。
(また古いビルの設備が過負荷で悲鳴を上げているな。それに、極度のプレッシャーからくる焦りで、完全にチームワークが崩壊している。これ以上の練習は怪我の元だ)
田村は冷静に状況を判断し、パンパンと大きく手を叩いて音楽を止めた。
「今日の合同レッスンは一旦中止だ。ここは電球の破片が落ちていて危ないし、冷房も効きすぎている。森田、和田、サラの三人は、上の階のミーティングルームに移動して各自クールダウンしておけ」
「えっ……ちょっとタムラ! 何言ってるのよ、まだ全然練習が足りてないのに!」
タマモが食ってかかるが、田村は無言でタマモの腕を掴んだ。
「タマモさん。お前は俺と少し外の空気を吸いに行くぞ」
「離しなさいよ! 妾はセンターなのよ、誰よりも完璧でいなきゃいけないの!」
「いいから来い」
田村の有無を言わさぬ物理的な力と、絶対に揺るがない低い声に、タマモはハッとして口をつぐんだ。田村はタマモに帽子とサングラスを渡して変装させると、一階の事務所の冷蔵庫から朝用意していたクーラーボックスを回収し、半ば強引に彼女をビルの外へと連れ出した。
★★★★★★★★★★★
田村がタマモを連れてきたのは、事務所から少し歩いた場所にある、緑豊かな日本庭園だった。
平日の午前中ということもあり、人は少なく、静寂に包まれている。池を泳ぐ鯉や、手入れの行き届いた松の木が、東京のど真ん中とは思えない落ち着いた空間を作り出していた。
タマモは「和の雰囲気」を好むため、少しでも心が落ち着く場所を選んだ田村の配慮だった。
二人は、池のほとりにある東屋のベンチに腰を下ろした。
「……どこに行くのかと思ったら、こんなところ。練習の時間がもったいないわ」
タマモは帽子を深く被り直し、そっぽを向いて不満げに唇を尖らせた。
「焦るな。トップアイドルになるためには、時には頭を空っぽにする時間も必要だ」
田村は自動販売機で買った冷たいお茶をタマモに手渡した。
「昨日のジュリアのステージ映像を見て、焦る気持ちは分かる。相手はスタジアムを沸かせるプロ中のプロだ。それに引き換え、うちはようやくキャパ500人を埋めたばかりの駆け出しだからな」
「……そうよ。あの子のパフォーマンス、凄まじかったわ。歌もダンスも、観客を惹きつけるオーラも……。妾たち『神』の力なんか使わなくても、あんなに眩しく輝ける人間がいるなんて」
タマモは膝の上で両手をギュッと握りしめ、ぽつりと本音をこぼした。
「だからこそ、妾がもっとしっかりしなきゃいけないのよ! 妾はセンターなんだから! 他のメンバーを引っ張って、妾が一番完璧な姿を見せないと、合同フェスで絶対に勝てないわ!」
タマモの声が震え、彼女の肩が小さく上下した。強すぎる責任感とプライドが、彼女自身を極限まで追い詰めているのだ。
「一人で背負い込むな」
田村の太く、力強い声がタマモの言葉を遮った。
「お前は一人でステージに立つわけじゃない。お前には森田の圧倒的なパワーがあり、和田の繊細なダンスがあり、サラの完璧なコーラスがある。足りない部分は、四人で補い合えばいい」
「でも……」
「重圧があるなら、俺も含めた五人で分割すればいい。お前を最高のステージに立たせるために、俺は全力でサポートする。だから、一人で空回りしてチームを壊すような真似はするな」
田村の言葉は不器用だが、決して揺るがない大木のような安心感があった。
タマモはサングラスを少しだけずらし、潤んだ瞳で田村の横顔を見つめた。
(脳が疲労して視野が狭くなっているな。まずは腹に入れさせよう)
田村は傍らに置いていたクーラーボックスを開けた。
「朝早く起きて握ってきた。特製の『具沢山・ごちそうおにぎり』だ」
田村がタッパーの蓋を開けると、海苔の香ばしい匂いと、ほかほかのご飯の甘い香りが東屋にフワリと広がった。
そこには、コンビニのおにぎりの倍はあろうかという巨大で美しい三角形のおにぎりが、ぎっしりと並んでいた。
「米は脳の最高のエネルギー源だ。食って落ち着け」
「……おにぎり」
タマモは恐る恐る、一つのおにぎりを手に取った。
ずっしりとした重みがあるが、握り加減は絶妙で、米粒がふっくらと立っているのが分かる。タマモが大きく口を開けてかぶりつくと、中からたっぷりの具材が顔を出した。
「……っ!」
タマモの目が丸くなった。
中に入っていたのは、ただの鮭ではない。脂の乗った極上の鮭ハラスを香ばしく焼き上げ、丁寧に骨を取り除いて粗めにほぐしたものだ。程よい塩気と鮭の強烈な旨味が、甘みのある白米と完璧なハーモニーを奏でている。さらに、海苔は最高級の有明海産で、パリッとした食感と磯の香りがたまらない。
「美味しい……。お米がすごくふっくらしてて、お魚の味が濃くて……」
「まだあるぞ。こっちは豚の角煮を細かく刻んで煮汁と一緒に握り込んだものだ。そっちはツナマヨネーズに刻んだいぶりがっこを混ぜてある」
タマモは夢中になって二つ目、三つ目のおにぎりを頬張った。
噛みしめるたびに、田村が早朝から一つ一つ丁寧に仕込んでくれたであろう、手作りの温かさと愛情が口いっぱいに広がっていく。
美味しいご飯は、どんな理屈よりも雄弁に凝り固まった心を解きほぐす。田村の徹底したフィジカルケアは、タマモの極度のプレッシャーを見事に打ち砕いていた。
「……タムラ」
三つ目のおにぎりを食べ終えたタマモの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……。妾、焦って、みんなに酷いこと言っちゃった……。本当は、あの金髪の小娘に負けるのが怖かったの……っ」
「分かっている。怖いからこそ、練習に熱が入るんだ。だが、その恐怖を仲間にぶつけるな。ステージで全て吐き出してこい」
田村が大きな手でタマモの背中を優しくポンポンと叩くと、タマモは「うわぁぁぁんっ」と声を上げて田村の分厚い胸板に顔を押し付けて泣きじゃくった。
公園の静寂の中、タマモの泣き声だけが響き渡る。田村は彼女の気が済むまで、黙ってその涙を受け止めていた。
★★★★★★★★★★★
一時間後。
一階のミーティングルームの扉が開き、すっかり落ち着きを取り戻したタマモと田村が戻ってきた。
部屋の中では、森田、和田、サラの三人が、パイプ椅子に座って重苦しい空気を漂わせていた。
「……みんな」
タマモは帽子とサングラスを外し、三人の前に進み出た。
その瞳は少し赤く腫れていたが、先ほどまでの刺々しいオーラは完全に消え去り、センターとしての気高い、しかし柔らかな光が戻っていた。
「さっきは、酷いことを言ってごめんなさい。妾、ジュリアのステージに焦って、みんなに八つ当たりしちゃったわ」
タマモが深々と頭を下げると、三人は顔を見合わせた。
「気にしてねェよ。アタシらだって、あの金髪の小娘の動画見てビビってたのは確かだしな。焦る気持ちは同じだ」
森田がニカッと笑ってタマモの肩を叩く。
「……うん。タマモが一番、プレッシャー感じてたの、分かるから。一緒に頑張ろ」
和田もフードを浅く被り直し、小さく頷いた。
「ええ。私たちは四人で『神無月』だもの。誰か一人が無理をする必要なんてないわ」
サラが優しく微笑むと、彼女の背後に落ちていた不気味な影もすっかり元の形に戻っていた。
(良いチームワークだ。これで問題ない)
田村は満足げに頷き、クーラーボックスを長机に置いた。
「仲直りが済んだなら、全員で腹ごしらえだ。お前たちの分も、メガサイズのごちそうおにぎりを作ってきてあるぞ」
「うおおおおっ! デカブツの飯だ! 待ってましたァ!」
「……おにぎり、美味しそう。食べる」
「ふふっ、マネージャー君の愛情たっぷりのおにぎり、嬉しいわ」
田村がタッパーの蓋を開けると、森田たちは歓声を上げておにぎりに群がった。
美味しいご飯を口いっぱいに頬張りながら、四人のアイドルたちの間に笑顔が弾ける。ミーティングルームの蛍光灯のちらつきも、嘘のように消え去っていた。
強大なライバルを前に崩れかけた連携は、霊感ゼロの最強マネージャーが握る特製おにぎりの温もりによって、より強固な絆へと結び直された。
合同フェスに向けた神無月の猛特訓が、再び力強く動き出そうとしていた。




