第25話 シークレットライブと、圧倒的な人間の輝き
日曜日の午前十時。
田村範朝がアパートのリビングで愛犬ダイズのブラッシングをしていると、スマートフォンが軽快な着信音を鳴らした。
画面に表示された見知らぬ番号に首を傾げながら通話ボタンを押すと、耳に飛び込んできたのは、ひどく上機嫌でよく通る女性の声だった。
『チャオ、タムラ! 私ですわ、ジュリアです!』
「ジュリアさん? なぜ俺の個人の連絡先を」
『この前事務所にお邪魔した時、こっそりあなたのデスクから名刺をもらっておきましたの! それよりタムラ、今日は日曜日。あなたはお休みのはずですわよね?』
彼女の背後に、帝国芸能のスタッフらしき人間の「ロッシさん、勝手な行動は困ります!」という慌てた声が微かに聞こえる。
『日本での本格的なレッスンが始まる前に、こちらのエンターテインメントやアイドル文化を視察しておきたいんです。ですから、今から私をエスコートして、東京の街を案内してくださいな!』
「……お断りします。他事務所の、しかも合同フェスで対決するライバルと休日に出歩くなど、スキャンダルのリスクが高すぎます」
『あら、断るんですの? なら仕方ありませんわね。私一人で、変装もせずに渋谷や原宿のど真ん中を歩いて回りますわ! パパラッチに囲まれて大騒ぎになっても知りませんからね!』
(強引な交渉術だ。だが、来日したばかりの世界的トップアイドルが単独行動でトラブルを起こせば、合同フェスそのものが白紙になりかねない)
田村は即座に状況を天秤にかけ、極めて合理的なビジネスの判断を下した。
「……分かりました。ただし、行動ルートはこちらで全て指定します。マスコミの目を欺くため、俺が手配する車に指定の場所で乗り込んでください。少しでも目立つ行動をとれば、即座に視察は中止です」
『グラッツェ! さすが私のアモーレ、話が早いですわ!』
(夜まで帰れないな。急いでダイズの自動給餌器を夜の分までセットし直して、エアコンの温度も確認しておかないと)
田村は通話を切ると、愛犬の健康管理にも完璧を期すため、すぐさま準備に取り掛かった。
★★★★★★★★★★★
一時間後、都内某所の地下駐車場。
田村が手配したスモークガラスのハイヤーのドアが開き、大きなツバの帽子とサングラス、そして目立たない黒のロングコートで完全に変装したジュリアが滑り込んできた。
「お待たせしましたわ、タムラ! 休日のデート、すごく楽しみにしていましたの!」
ジュリアは隣に座る田村の太い腕に、嬉しそうに自分の腕を絡ませた。
(相変わらず距離感の近い女性だ。だが、車内であれば人目は引かないだろう)
田村は彼女の強烈なスキンシップを、陽気な国民性によるものだと解釈し、事務的にシートベルトを締めるように促した。
「デートではありません。あくまで業界の視察です。まずは、日本のアイドルグッズの旗艦店と、最新の設備を備えた中規模ライブハウスを裏口から回ります」
「ええ、どこへでもついて行きますわ!」
田村の徹底した危機管理のもと、二人の視察は極秘裏に進められた。
ショップのバックヤードから日本の精巧なグッズ展開を見学し、ライブハウスの音響設備やステージの導線をプロの目線で確認していく。
ジュリアは田村の腕に抱きついている時は年相応の無邪気な女性だったが、いざステージの機材や客席の構造を見る時になると、その青い瞳は驚くほど真剣で鋭い光を放っていた。
「日本のライブハウスは、観客との距離がとても近いですのね。スタジアムとは違う、緻密で熱量の高いパフォーマンスが要求されますわ。すごく勉強になります」
(ただの我儘なじゃじゃ馬かと思ったが、エンターテインメントに対する姿勢は本物だ。貪欲に吸収しようとしている)
田村は、彼女のトップアイドルとしてのストイックなプロ意識を高く評価した。
視察を終えた午後一時。
田村は、入り口が完全に人目から遮断された、高級和食店の完全個室へとジュリアを案内した。
「和食が食べたいとリクエストがありましたが、あなたは夜に重要なスケジュールを控えているはずだ。胃に負担をかけないよう、消化吸収の穏やかな十割蕎麦と、脂の少ない白身魚の天ぷらを手配しました」
「まあ! 私の夜の予定まで把握して、コンディションを気遣ってくれるんですのね! タムラは本当に最高のマネージャーですわ!」
ジュリアはサングラスを外し、吸い込まれるような青い瞳を輝かせて蕎麦を口に運んだ。
「美味しいですわ! お出汁の香りがとても上品で……でも、やっぱりタムラが作ってくれたカルボナーラの方が、何倍も私好みですけれど!」
「俺のはただの男料理です。帝国芸能なら、専属の優秀な栄養士がついているでしょう」
「栄養士はいますけれど、お料理に愛が足りませんわ! ねぇタムラ、合同フェスで私が勝ったら、本当に私のところに来てくれますのよね?」
身を乗り出してくるジュリアに対し、田村は冷たいお茶をすすりながら淡々と答えた。
「俺は、自分が担当しているタレントたちを最高のステージに立たせ、勝たせるために全力を尽くすだけです」
「ふふっ。タムラのそういう義理堅いところ、ますます惚れ直してしまいますわ。……いいですわ、その自信、今日の夜に打ち砕いてさしあげます」
ジュリアは妖艶な笑みを浮かべ、天ぷらを優雅に平らげた。
★★★★★★★★★★★
夕方。帝国芸能が所有する、都内の巨大な専用劇場。
今日はここで、業界関係者とごく一部のファンクラブ会員のみを招いた、ジュリア・ロッシの来日記念シークレットライブが開催される。彼女が「夜のスケジュール」と言っていたのはこれのことだ。
田村は、ジュリアの強い要望により、関係者用のVIP席に案内されていた。
「これより、ジュリア・ロッシのプレステージを開演いたします」
アナウンスと共に場内の照明が落ち、水を打ったような静寂が訪れる。
次の瞬間、ステージの中央に強烈なスポットライトが降り注ぎ、眩い光の中から一人の女性が姿を現した。
純白のタイトなステージ衣装に身を包んだジュリアだった。
彼女がマイクを握り、第一声を放った瞬間。
劇場の空気が、物理的な衝撃を伴ってビリビリと震えた。
圧倒的な声量と、どこまでも伸びる透明なハイトーン。それに相反するような、力強くソウルフルな低音の響き。
アップテンポなダンスナンバーに合わせ、ジュリアの身体が躍動する。長い手足が描き出すシルエットは、一糸乱れぬ正確さを保ちながらも、野生の豹のようにしなやかで力強い。激しくステップを踏み、ステージを縦横無尽に駆け回っているにもかかわらず、彼女の歌声には一瞬のブレも、わずかな息切れすら生じなかった。
「……見事だ」
VIP席からステージを見下ろしていた田村は、腕を組み、感嘆の息を漏らした。
神無月の四人が感情を爆発させた時に見せる異常な静電気や冷気。田村の目には機材の漏電や空調の不具合にしか見えなかった彼女たちの現象とは全く違う、純度百パーセントのエンターテインメントがそこにあった。
極限まで鍛え抜かれた腹筋と背筋が支える強靭な体幹。常人離れした肺活量。そして、指先の僅かな動き一つで数千人の視線を釘付けにする、洗練され尽くした表現力。
ジュリアのパフォーマンスは、田村の心にストレートに突き刺さったのだ。
(恐ろしいほどの才能だ。だが、それ以上に……どれだけの血の滲むような反復練習と自己研鑽を積めば、あの領域に達することができるんだ)
田村の鋼のような表情が、わずかに引き締まった。
彼女の輝きは、神の力などではない。純粋な人間の肉体と精神が限界まで磨き上げられたことによって放たれる、生命力そのものの輝きだった。
『ジュリアァァァッ!!』
『最高だ!! 愛してるぞォォォッ!!』
関係者や厳しい目を持つ業界人でさえも、彼女の圧倒的なカリスマ性の前に理性を失い、立ち上がって熱狂的な歓声を送っている。
一時間のシークレットライブは、ジュリアの独壇場のまま、熱狂の渦の中で幕を閉じた。
★★★★★★★★★★★
ライブ終了後の、関係者ロビー。
周囲をSPに囲まれながら、白いタオルを首にかけたジュリアが、真っ直ぐに田村の元へと歩み寄ってきた。
額には美しい汗が光り、その青い瞳はステージの熱冷めやらず、キラキラと輝いている。
「どうでしたか、タムラ? 私の、日本の皆さんへの最初のご挨拶は」
「……完璧でした。息を呑むほどの素晴らしいエンターテインメントだ。俺が担当しているタレントたちにとって、これ以上ないほど高く、険しい壁になる」
田村が素直な称賛の言葉と、ライバルとしての率直な感想を口にすると、ジュリアは嬉しそうに花が咲くような笑みを浮かべた。
「グラッツェ! 愛する人に褒めてもらえるのが、一番嬉しいですわ! でも、壁だなんて言わないでくださいな。合同フェスが終われば、タムラは私のマネージャーになるんですから!」
「その勝負、神無月は絶対に負けませんよ」
田村は微かに口角を上げ、静かだが力強い闘志を込めて言い返した。
超大手の帝国芸能が用意した、世界最高峰の輝きを放つスーパーアイドル。
規格外の筋肉を持つ霊感ゼロのマネージャーは、この最強のライバルを前にして怯むどころか、自分のタレントたちをいかにしてプロデュースし、どうやってこの壁を乗り越えさせるかという、激しい情熱を燃やし始めていた。




