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第22話 街角の救出劇と、アモーレの絶品パスタ

 休日の昼下がり。

 田村範朝は、スーパーでの買い出しを終え、両手に重いエコバッグを提げて事務所への帰路についていた。エコバッグの中には、特売で手に入れた大量の鶏胸肉と、新鮮な卵、そして愛犬ダイズのための無添加おやつが詰まっている。


 大通りから一本入った、人通りの少ない裏路地を歩いていた時のことだった。

 前方の路地の奥から、女性の困惑した声と、男たちの下品な笑い声が聞こえてきた。


「ヘイヘイ、金髪のお姉さん。スタイル抜群じゃん。これから俺たちと遊ばない?」

「No, grazie(結構です)。道をあけてください」


 声のする方へ視線をやると、大きなサングラスとツバの広い帽子で顔を隠した長身の女性が、三人のガラの悪い男たちに進路を塞がれていた。女性はシンプルな白いTシャツにスキニーデニムというラフな格好だが、その服の上からでも分かるほど、均整の取れた極めて美しいプロポーションをしている。


(カツアゲか、質の悪いナンパか。面倒だが、見過ごすわけにはいかないな)


 田村は手にしたエコバッグを静かに地面に置くと、男たちの背後へと足音もなく歩み寄った。


「おい。道幅が狭くて通れないんだが」


 腹の底から響く野太い声に、三人の不良たちがビクッと肩を跳ねさせて振り返った。

 彼らの目に飛び込んできたのは、黒のタイトなポロシャツから鋼のような大胸筋と前腕の筋肉を覗かせた、威圧感の塊のような圧倒的な巨躯だった。


「あァ? なんだテメェ、すっこんでろ!」


 血の気の多い不良の一人が凄み、田村の胸ぐらめがけて右ストレートを放ってきた。


 ドスッ。


 鈍い音が路地裏に響いた。

 田村は一歩も動かず、避けることすらしないで、その拳を分厚い大胸筋で直接受け止めた。田村の体は1ミリたりともブレず、ポロシャツにわずかなシワが寄っただけだった。


「いっ……てぇぇっ!?」


 殴りつけた不良の方が、まるで硬い岩盤を全力で殴ったかのように顔を歪め、自分の右手を押さえてうずくまった。


「痛くないのか? なら、次は俺が通る番だ」


 田村が一歩前に踏み出し、太い首の関節をゴキゴキと鳴らした。田村に冷徹な目で見下ろされた不良たちは、その規格外のフィジカルと圧倒的な覇気に完全に戦意を喪失し、「ひぃっ!」と悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。


「大丈夫ですか、怪我は?」


 田村が振り返って声をかけると、壁際に立っていた女性が、ほうっと安堵の息を吐きながらサングラスを外した。

 現れたのは、流れるようなブロンドの髪と、宝石のように輝く青い瞳。まるで彫像のように整った顔立ちをした外国人美女だった。


(昨日、宮崎さんが見せてくれたニュースの動画に映っていたな。帝国芸能が海外から招き入れたスーパーアイドルだ)


 田村は、彼女の顔を見てすぐにその正体を認識した。ジュリア・ロッシ。弱小事務所である高天原プロダクションにとって、最大の壁となるであろう最強のライバルだ。


「Grazie! 助けてくれて本当にありがとうございます。あなた、まるでローマの剣闘士みたいに強くてカッコいいですね!」


 ジュリアは身の危険が去ったことでパッと顔を輝かせ、流暢な日本語で田村の手をギュッと握りしめた。その瞳には、田村のタフで男らしい姿に対する純粋な称賛の光が宿っている。


 その時だった。


 キュルルルルゥゥゥ……。

 ジュリアのお腹の辺りから、盛大で、とても可愛らしい音が鳴り響いた。


「あっ……」


 ジュリアはハッとして両手でお腹を押さえ、透き通るような白い頬を真っ赤に染めた。


「お恥ずかしいですわ……。実は、日本をもっと知るためにお忍びでホテルを抜け出したんですが、道に迷ってしまって。朝から何も食べていないんです」


(極度の空腹で倒れそうなんだな。トップアイドルが行き倒れては、業界全体の損失だ)


 田村は彼女の空腹を、タレントの健康管理上の深刻なエラーとして即物的に処理した。


「俺の所属する芸能事務所がすぐ近くにあります。あなたのようなトップアイドルを外の店や男の自宅に連れ込めばスキャンダルになりますが、うちの事務所なら休日は誰もいないし、セキュリティも万全です。よければ、そこで何か腹に入れるものを作りますよ」

「本当ですか!? グルメの国・日本の家庭料理、すごく興味があります! お願いします、グラディエーターさん!」


 警戒心というものが全くないのか、ジュリアは田村の合理的な提案に嬉しそうに飛びついた。


★★★★★★★★★★★


 高天原プロダクションの事務所のドアを開けると、休日のため誰もいない静かな空間が広がっていた。

 田村はジュリアをリビングスペースのソファに座らせると、エプロンを身につけ、手洗いを済ませてから給湯室のキッチンに立った。


「まずは、下がった血糖値を急速に上げるためのスイーツを用意します」


 彼が取り出したのは、製菓用のアーモンドプードルと、きめ細かい粉砂糖、そして卵だ。

 ボウルにアーモンドプードルと粉砂糖を同量ずつ入れ、そこに卵白を少しずつ加えながら、ゴムベラで力強く練り合わせていく。


 これは、ヨーロッパの伝統的なお菓子である『マジパン』のベースとなる生地だ。イタリアでもシチリア島などで「フルッタ・マルトラーナ」として親しまれている、アーモンドの豊かな風味が特徴のスイーツである。

 田村の鋼のような前腕の筋肉が躍動し、ボウルの中の粉と水分が瞬く間に均一に混ざり合い、滑らかで艶のある粘土状の生地へと変わっていく。プロのパティシエも顔負けの、正確で力強い手際だった。


 田村は完成した生地を一口大に丸め、クッキングシートの上に並べる。

 そして、小型のガストーチバーナーを取り出し、マジパンの表面にサッと火を当てた。


 ゴォォォッという青い炎が表面を舐めると、砂糖が焦げてキャラメリゼされ、アーモンドの極めて香ばしい匂いが部屋中に広がった。


「お待たせしました。特製マジパンの炙り仕立てです。飲み物には、天然の電解質が豊富で吸収が早い、100%のココナッツウォーターを用意しました」


 田村がローテーブルに小皿とグラスを並べると、ジュリアは目を丸くした。


「マジパン!? 日本の男の人が、こんな本格的なヨーロッパの伝統菓子をサッと作れるなんて……!」


 ジュリアは驚きながらも、表面がほんのりと焦げたマジパンを指でつまみ、口に運んだ。


「……!!」


 ジュリアの青い瞳が、カッと見開かれた。


「マンマミーア……! アーモンドの濃厚な香りと、卵白のしっとりとした口当たり。それに、表面を炙ったキャラメルの苦味が、強烈な甘さを引き締めていて……すごく美味しいです! イタリアの老舗菓子店にも負けていませんわ!」


 ジュリアは感動の声を上げながら、グラスのココナッツウォーターを飲んだ。

 アーモンドの重厚な風味を、ココナッツウォーターのクリアで爽やかな甘みがスッと洗い流し、渇ききっていた細胞に素早く水分と糖分を補給していく。


「素晴らしいペアリングです! 疲れた体にエネルギーが漲ってくるのが分かりますわ!」


(よし。糖分と水分の補給は完了した。これでメインディッシュを消化するための胃の準備が整ったな)


 田村は空になった小皿を下げ、再びキッチンに立った。


「メインはパスタにします。本場イタリアの味を知っているあなたには恐縮ですが、俺の男料理で我慢してください」

「パスタ! 大好きです! 期待していますわね!」


 田村が作るのは、余計な具材を一切使わない、本場ローマ仕様の純粋な『カルボナーラ』だ。

 日本の一般的なカフェで出されるような、生クリームやベーコンを使ったものではない。


 フライパンに少量のオリーブオイルを引き、細かく刻んだパンチェッタを極めて弱火でじっくりと炒める。肉から透明で甘い脂が溶け出し、カリカリになるまで火を通すのがポイントだ。

 同時に、隣のコンロでパスタを茹で始める。


 ボウルには、新鮮な卵の黄身だけを二つ落とし、そこに削りたてのペコリーノ・ロマーノをたっぷりと加える。さらに、粗挽きの黒胡椒をこれでもかと大量に振りかけ、少量のパスタの茹で汁を加えてペースト状に練り上げておく。


「ここからは時間と温度の勝負だ」


 パスタがアルデンテに茹で上がった瞬間、田村はそれを素早くパンチェッタのフライパンに移し、濃厚な豚の脂を麺の一本一本にしっかりとコーティングする。

 そして、フライパンを火から完全に下ろし、粗熱を少し取ってから、ボウルに用意しておいた卵黄とチーズのソースを一気に流し込んだ。


 田村の分厚い手がフライパンを巧みに煽り、トングでパスタを激しくかき混ぜる。

 卵が熱で固まってボソボソになるのを防ぎ、チーズと茹で汁が乳化することで、極限までトロトロのクリーミーな黄金色のソースが完成していく。


「特製・本場風カルボナーラです。冷めないうちにどうぞ」


 皿の中央に高く盛り付けられ、仕上げにさらに黒胡椒と追いチーズが振りかけられたパスタがテーブルに置かれた。

 ジュリアはフォークを手に取り、美しくソースが絡んだパスタを巻き上げて、口へと運んだ。


「……っ!!」


 ジュリアの動きが、彫刻のようにピタリと止まった。

 彼女の脳裏に、故郷イタリアの風が吹き抜けた。ペコリーノ・ロマーノ特有の力強い塩気と、卵黄の圧倒的なコク。カリカリに焼かれたパンチェッタの濃厚な旨味が噛むたびに溢れ出し、大量の黒胡椒のパンチが味全体を完璧に引き締めている。

 生クリームの野暮ったさは一切ない、純粋で力強い、本物のカルボナーラの味がそこにあった。


「……ボーノ。信じられないくらい、ボーノですわ……!」


 ジュリアは夢中でフォークを動かした。

 彼女は日本の家庭で作られるパスタを少し舐めていた自分を恥じた。目の前の大柄な男は、一流のイタリアンシェフに匹敵する、いや、それ以上の完璧な火入れと乳化の技術を持っているのだ。


「私、日本に来てから食べたものの中で、これが一番美味しいです! あなた、本当にただの通りすがりの人なんですの!?」

「俺は田村。この芸能事務所で、アイドルのマネージャーをやっています」

「マネージャー!? こんなに強くて、お料理も完璧なのに!?」


 ジュリアは綺麗に空になった皿を置くと、熱を帯びた潤んだ瞳で田村を真っ直ぐに見つめた。

 異国の地での心細さ、不良に絡まれた恐怖、そこから救い出してくれた圧倒的な強さ。そして、疲れた心と体を完璧に満たしてくれた、極上のスイーツとパスタ。

 彼女の真っ直ぐで情熱的なイタリアの血が、限界点を超えて沸騰した。


「タムラ……あなた、私の専属シェフになって! ううん、違いますわ!」


 ジュリアは勢いよく立ち上がると、テーブル越しに身を乗り出し、田村の太い首に両腕を回してギュッと強く抱きついた。


「アモーレ! あなたこそ、私が日本で見つけた運命の人です!」

「……おっと」


 田村は彼女の背中を「どういたしまして」と事務的にポンポンと叩き返した。


 黒船として来日した帝国芸能のスーパーアイドルは、高天原プロダクションを潰すどころか、霊感ゼロの筋肉マネージャーの圧倒的なタフさと手料理によって、あっさりと胃袋とハートを掌握されてしまったのだった。

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