第20話 ワンマンライブと、熱狂のフィッシュ&チップス
日曜日。
渋谷にある中規模ライブハウスの楽屋は、これまでにない異様な緊張感に包まれていた。
今日は、アイドルグループ『神無月』の初となるワンマンライブである。
会場のキャパシティは500人。事前のチケットは、初ライブの噂とSNSでのバズ、そして天才音楽プロデューサー・宮崎真琴が手掛けたデビュー曲のプロモーション効果により、見事に完売していた。
開演まであと一時間。
楽屋の中では、四人のメンバーがそれぞれの方法でプレッシャーと戦っていた。
タマモは鏡の前でブツブツと歌詞を反芻し、森田はパイプ椅子をギシギシと言わせながら貧乏ゆすりをしている。和田はジャージのフードを被って壁に向かって体育座りをし、サラは自分の指を絡め合わせて落ち着きなく視線を泳がせていた。
彼女たちの極度の緊張のせいか、楽屋内の空気は重く、ひどく淀んでいた。
蛍光灯がジリジリと明滅し、和田の足元からはうっすらと白い冷気が漂い、タマモの髪は静電気で逆立っている。サラの背後には、照明のチラつきのせいか、大きな蛇のような影が不気味に揺れていた。
(換気が悪いな。それに、全員過緊張で呼吸が浅くなっている)
田村範朝は、腕組みをしながら即物的に状況を把握した。
500人というかつてない人数の観客を前にして、素人の彼女たちがプレッシャーを感じるのは当然だ。このままでは、ステージに立つ前に過呼吸などで倒れてしまうかもしれない。
田村は、自宅でおとなしく留守番をしているだろう愛犬ダイズの姿を少し思い浮かべながら、持参した巨大な保温ボックスを開けた。
「全員、少し休憩だ。本番前のエネルギー補給をしておくぞ」
「……た、食べる余裕なんてないわよ、タムラ。吐きそう……」
タマモが青ざめた顔で抗議するが、田村は手を止めることなく保温ボックスから幾つもの密閉容器を取り出した。
「無理にでも胃に物を入れないと、500人の熱気には勝てないぞ。今日はタマモさんの『イギリス人設定』に合わせた特別なメニューを用意した。衣装に油の匂いがつかないよう、今朝、自宅で完璧に仕上げてきたものだ」
「イギリスの……?」
タマモがピクッと反応した。
田村は今朝、アパートのキッチンでプロ顔負けの調理を行っていた。
大きく分厚い真鱈の切り身と、メークインのジャガイモ。ジャガイモは皮ごと太めの拍子木切りにし、水に晒してデンプンを抜いてから、キッチンペーパーで徹底的に水気を拭き取る。
ボウルには小麦粉、少量のベーキングパウダー、塩、そして『黒ビール』を注ぎ入れた。ビールの炭酸とアルコールが、衣を極限まで軽く、サクサクに仕上げるための隠し技だ。菜箸でさっくりと混ぜ合わせたバッター液は、ふわふわとした独特の質感を持っていた。
ジャガイモを低温と高温の二度揚げで外をカリッと、中をホクホクに仕上げた後、真鱈に黒ビールの衣をたっぷりと纏わせて高温の油へ滑り込ませる。絶妙なタイミングで裏返し、衣がキツネ色に色づき、表面に無数の細かな気泡が浮き上がったところで引き上げる。
そうして完璧に調理されたフィッシュ&チップスは、特殊な保温容器に入れられ、サクサクの食感と熱を保ったまま楽屋に持ち込まれていたのだ。
「特製フィッシュ&チップスだ。本場の味を再現してある」
田村が密閉容器の蓋を開けると、香ばしい揚げ物の匂いが淀んだ空気を一掃した。
大皿には、山盛りのフライドポテトと、黄金色に輝く巨大な白身魚のフリット。田村はそこに、モルトビネガーをたっぷりと振りかけ、自家製のタルタルソースとレモンを添えた。
さらに、ペアリングとして用意したオレンジ色の液体をボトルからグラスに注ぐ。
「フィッシュ&チップスと、フレッシュ・キャロットジュースだ」
田村がテーブルに食事を並べると、その暴力的なまでに香ばしい匂いに、四人のアイドルたちの腹の虫が「グゥゥ」と正直な音を立てた。
「さあ、冷めないうちに食え。モルトビネガーの酸味が、食欲を刺激するはずだ」
「い、いただきます……」
タマモがフォークで魚の衣を割ると、サクッ! という小気味よい音が鳴った。
中からは、雪のように真っ白でフワフワの鱈の身が、熱々の湯気とともに顔を出す。たっぷりとタルタルソースをつけて口に運んだ瞬間、タマモの瞳が大きく見開かれた。
「んんっ……!! なにこれ、衣が信じられないくらいサクサクで軽い! なのに、お魚の身はしっとりホクホクしてて……モルトビネガーの酸っぱさが、油っこさを完全に消してくれてるわ!」
「ウメェ! このポテト、外カリカリで中ホクホクだ! 最高にパワーが出るぜ!」
森田も手掴みでポテトを口に放り込み、目を輝かせている。
「……おいしい。あったかくて、サクサクしてる……」
和田は魚のフリットを小さな口でハフハフと頬張り、サラも「マネージャー君の揚げ物、本当に絶品ね」とうっとりとした表情で食べていた。
「合間に、このキャロットジュースを飲んでみろ。ニンジン特有の臭みを消すために、リンゴと少量のレモンを一緒に搾ってある」
田村がグラスを差し出すと、タマモがゴクリと喉を鳴らして飲んだ。
「あまっ……! ニンジンなのにフルーツみたいに甘くて爽やか! 揚げ物の後に飲むと、口の中がすごくスッキリするわ!」
「そうだ。βカロテンとビタミンが豊富で、油と一緒に摂ることで吸収率も上がる。疲労回復と肌の調子を整える、最強のペアリングだ」
田村の計算し尽くされたカロリーと栄養素の暴力により、四人の強張っていた表情はみるみるうちに緩み、血色が戻っていった。
楽屋を満たしていた異常な冷気や、明滅する照明のチラつき、重苦しい空気も、彼女たちの過呼吸が治まったことでスゥッと自然に解消されていた。
(よし。緊張は美味しい食事でリセットできたな。これなら大丈夫だ)
田村は満足げに頷き、空になった容器を素早く片付け始めた。
「ノリくん、流石ね。あの子たちのコンディション、完璧に仕上がったじゃない」
PA席のチェックから戻ってきた真琴が、感心したように笑いかけてくる。
「ええ。あとは、彼女たちがステージで全力を出し切るだけです」
「ええ、期待してるわよ。……さあ、みんな! 開演5分前よ! スタンバイして!」
真琴の号令に、神無月の四人が力強く立ち上がった。
その瞳に、もう迷いや恐れはなかった。
ドォォォォンッ!!
会場のスピーカーから、腹の底を揺らすような重低音が鳴り響いた。
キャパ500人のライブハウスは、文字通り「すし詰め状態」だった。色とりどりのペンライトが海のように揺れ、観客たちの熱気でフロアの温度は異常なほど上昇している。
「いくわよ、渋谷ァァァァッ!!」
ステージの中央に躍り出たタマモのシャウトを皮切りに、神無月の初ワンマンライブが幕を開けた。
一曲目は、真琴が手掛けた最強のデビュー曲。和楽器の旋律とEDMが融合した、攻撃的でエモーショナルなダンストラックだ。
『オイ! オイ! オイ! オイ!』
500人の観客から、地鳴りのようなコールが巻き起こる。
初ライブの時の50人とは次元が違う、圧倒的な音圧と熱量。しかし、ステージ上の四人はそのプレッシャーに押し潰されるどころか、その熱狂を自分たちのエネルギーへと変換し、完璧なパフォーマンスを披露していた。
タマモの歌声は会場の空気を震わせるほどの覇気を帯び、500人の鼓膜と魂を直接鷲掴みにする。森田の跳躍は重力を無視したかのように高く激しく、和田のステップは指先まで研ぎ澄まされた芸術品のように観客を魅了する。そしてサラの幾重にも重なる幻惑的なコーラスが、ステージ全体を一つの巨大な熱狂の塊へとまとめ上げていた。
「すごい熱気だな……」
舞台袖から見守っていた田村は、その圧倒的な光景に静かに息を呑んだ。
ライブが中盤に差し掛かった頃、ステージ上に不思議な現象が起き始めた。
タマモたち四人の身体が、まるで内側から発光しているかのように、淡く、神々しい光を帯びて見えたのだ。
彼女たちの周囲の空間がゆらゆらと歪み、時には桜の花びらのような光の粒子が舞い散り、時にはきらきらと輝く雪の結晶が空中に浮かび上がっているように見える。
それは、彼女たち「祟り神」が抱えていた古い未練が、500人の観客からの純粋な「推し活」のエネルギーを受け、浄化されつつある証だった。
(宮崎さんのレーザー演出も完璧だな)
田村は、目の前で起きている神話的な浄化の奇跡を即物的に解釈し、深く納得していた。
『うおおおおっ!! 神無月、最高だァァァッ!!』
『タマモちゃーん!!』
『一生ついていくぞォォォッ!!』
観客たちのボルテージは天井知らずに上がり続け、フロアは狂乱の渦と化していた。
しかし、そこに初ライブの時のような危険な暴走の気配はない。全員が純粋に音楽を楽しみ、アイドルを応援するという、極めて健全で熱狂的な空間が形成されていた。
2時間後。
最後の曲が終わり、割れんばかりの拍手と歓声の中で、四人は手をつないで深くお辞儀をした。
「みんな……今日は本当に、本当にありがとう!!」
タマモが涙声で叫ぶと、会場からはさらに温かい拍手が巻き起こった。
終演後の楽屋。
汗だくになった四人は、ソファに雪崩れ込むようにして倒れ込んだ。
「はぁっ、はぁっ……やり切った……!」
タマモが天井を見上げて、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「アタシ、もう体力ゼロだ……でも、最高に気持ちよかったぜ……」
森田も床に転がりながら満足げに笑っている。
「……楽しかった。みんなのペンライト、すごく綺麗だった……」
和田もフードを外し、憑き物が落ちたような澄んだ表情をしている。
「ええ。私たちの歌が、あんなにたくさんの人に届くなんて……」
サラも穏やかな微笑みを浮かべ、その背後に不気味な影は一切見当たらなかった。
(よし。全員いい表情をしている。充実した仕事の後の、心地よい疲労感だ)
田村は、彼女たちの未練が浄化され、祟り神としての異常なオーラが薄まっていることに気づきもしなかったが、タレントのメンタルが安定していることには大いに満足していた。
「お疲れ様。全員、最高のステージだったぞ」
田村が冷えたスポーツドリンクを配りながら声をかけると、四人は一斉に田村を見上げた。
「タムラ……! あなたのご飯のおかげよ! 最高のマネージャーね!」
タマモが満面の笑みで親指を立てる。
キャパ500人のワンマンライブ、大成功。
田村は早く自宅に帰ってダイズの顔が見たいと思いながらも、充実した達成感の中で小さく微笑んだ。
霊感ゼロの筋肉マネージャーの物理的なサポートは、着実に彼女たちをトップアイドルへと押し上げ、結果的に世界を救う「信仰」を集め始めているのだった。




