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第19話 鴨肉のローストと、天才プロデューサーの暗躍

 休日の午後。

 田村範朝は、麻布十番にある高級スーパーのワイン売り場で、重たい買い物カゴを片手に立っていた。

 隣には、神無月の特別顧問であり天才音楽プロデューサーの宮崎真琴が、田村の太い腕に親しげに腕を絡ませている。今日の彼女は、タイトな黒のタートルネックにハイウエストのワイドパンツという、洗練されたフレンチカジュアルな装いだ。大人の色気と知性が漂う彼女の隣に、パツパツのポロシャツを着た巨漢の田村が並んでいると、周囲の客から好奇の視線を向けられてしまう。


「ノリくん。このブルゴーニュのピノ・ノワールと、ボルドーのシャルドネ。今日のメインディッシュにはどっちが合うかしら?」


 真琴が二本のワインボトルを手に取り、小悪魔的な笑みを浮かべて田村を見上げる。


「ソースにオレンジを使うなら、果実味のあるピノ・ノワールの方が合うでしょう。鴨の脂の強さを、ピノ・ノワールの繊細な酸味が綺麗に洗い流してくれますから」

「さっすが! じゃあ、こっちに決定ね。あ、それからおつまみ用のキャビアと、新鮮なホタテも買っていきましょ。今日はパーッとやりたい気分なの」


 真琴は機嫌よく、次々と高級食材をカゴに放り込んでいく。

 本日のこの外出は、ただの買い物ではない。真琴から「神無月の新曲のマスター音源が完成したから、試聴会をしましょう」と呼び出されたのだ。名目は打ち合わせだが、「ついでに最高の手料理を食べさせてちょうだい」という彼女の強い要望により、田村のアパートで食事を振る舞うことになっていた。


(楽曲の納品を伴う、クライアントとの重要な接待業務だ。最高の料理でもてなすのがマネージャーの務めだろう)


 田村は腕に当たる真琴の柔らかい感触を「フランス帰りのクリエイター特有のフランクなスキンシップ」として即物的に処理し、真剣な顔で食材の鮮度を見極めていた。


 田村の1Kのアパートに到着すると、サークルの中から柴犬の赤ちゃんのダイズが「キャン!」と元気よく吠えて出迎えた。


「あらーっ! ダイズちゃん、今日も可愛いわねえ!」


 真琴はヒールを脱ぐなりサークルに駆け寄り、ダイズを抱き上げて頬ずりをした。ダイズも真琴の洗練された香水の匂いを気にする様子もなく、彼女の鼻先をペロペロと舐めている。


「宮崎さん、音源の確認の前に食事にしますか?」

「ええ、お願い。お腹ペコペコなの」


 真琴がソファでダイズと戯れている間に、田村はキッチンに立ち、手早く調理を開始した。

 今日のメニューは、真琴の好みに合わせたフレンチのコースだ。


 まずは前菜。

 買ってきたばかりの新鮮なホタテの貝柱を薄切りにし、皿に丸く並べる。そこに、上質なオリーブオイル、レモン果汁、岩塩、そして少量のディルを散らしてカルパッチョにする。中央に高級なキャビアをたっぷりと乗せれば、ワインのあてに最高の一皿が完成だ。


「まずは前菜の、ホタテとキャビアのカルパッチョです。ピノ・ノワールも開けておきました」

「最高! いただきます!」


 真琴はワイングラスを傾けながら、カルパッチョを口に運んだ。

 ホタテの濃厚な甘みと、キャビアの心地よい塩気が、赤ワインの果実味と完璧なマリアージュを引き起こす。真琴は「んんっ……!」と艶っぽい感嘆の声を漏らし、幸せそうに目を細めた。


 前菜を楽しんでもらっている間に、田村はメインの調理に取り掛かる。

 本日の主役は、分厚い鴨の胸肉だ。


 鴨肉の皮目に格子状の細かい切れ目を入れ、岩塩と黒胡椒をしっかりと擦り込む。

 熱していない冷たい状態の鉄のフライパンに、皮目を下にして鴨肉を置き、そこから極めて弱火でじっくりと火を入れていく。こうすることで、皮の下にある分厚い脂がゆっくりと溶け出し、その脂で皮自身が揚げ焼きのようにパリパリに仕上がるのだ。


 パチパチ、という小気味よい音が立ち、鴨の野性味溢れる濃厚な香りがアパートの部屋に充満する。


「いい匂い……。ノリくんの料理してる背中、ずっと見ていられるわ」


 真琴がグラス片手にキッチンを覗き込んでくるが、田村は肉から目を離さない。


「脂をスプーンですくって、身の側にもかけ続けます。アロゼという技法です。こうすることで肉が硬くならず、ジューシーに仕上がるんです」

「ふふっ、本当にプロのシェフみたい」


 皮が黄金色にパリッと焼けたら裏返し、身の側はサッと焼き色をつけるだけにする。その後、フライパンから取り出し、アルミホイルで包んで余熱で中までじんわりと火を通す。この温度管理が、鴨肉を美しいロゼ色に仕上げる最大のポイントだ。


 肉を休ませている間に、ソースを作る。

 フライパンに残った鴨の脂を少しだけ残し、そこにバルサミコ酢、赤ワイン、そしてフレッシュなオレンジの果汁と皮のすりおろしを加える。強火で煮詰めて酸味を飛ばし、最後に少量のバターでとろみとコクをつければ、特製のオレンジソースの完成だ。


 休ませた鴨肉を薄くスライスすると、断面は完璧なロゼ色に輝いていた。

 皿にマッシュポテトを敷き、その上に鴨肉を美しく並べ、艶やかなオレンジソースをたっぷりと回しかける。


「お待たせしました。メインの、鴨肉のロースト・特製オレンジソースです」


 テーブルに置かれた皿を見て、真琴は「ブラボー」と小さく拍手をした。


「いただきます」


 真琴はナイフで鴨肉を切り、ソースをたっぷりと絡めて口に運んだ。

 その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。


「……信じられない。皮はパリパリなのに、お肉はしっとりしてて、噛むたびに鴨の強烈な旨味が溢れ出してくるわ。このソースの酸味と香り、絶妙ね! 三ツ星レストランのスペシャリテにも負けてないわよ、これ!」

「お口に合ったなら良かったです。ワインも進むでしょう」


 田村の言葉通り、真琴は鴨肉を一切れ食べるごとにピノ・ノワールを口に含み、あっという間にグラスを空にしていった。


(クライアントの胃袋は完全に掌握した。これで今後の楽曲制作も円滑に進むだろう)


 田村は自身の調理スキルの成果に満足し、自分用に作っておいた山盛りの鶏胸肉とブロッコリーを無心で食べ進めた。


 食事が終わり、コーヒーを淹れると、いよいよ本題の楽曲試聴となった。

 真琴はカバンから高性能なポータブルスピーカーとタブレットを取り出し、テーブルの中央にセットした。


「さあ、聞いてちょうだい。神無月のデビュー曲の、完全なマスター音源よ」


 真琴が再生ボタンをタップする。

 アパートの部屋に、クリアで圧倒的な音圧のダンストラックが鳴り響いた。


 デモの時点でも凄まじかったが、完成版は次元が違った。

 和楽器の繊細な旋律と、骨の髄まで響くような最先端の重低音。そこに、タマモの圧倒的なボーカル、森田の力強いシャウト、サラの艶やかなコーラスが見事に重なり合っている。それぞれの個性がぶつかり合いながらも、決して喧嘩することなく、一つの巨大な「熱狂の塊」として昇華されていた。

 田村の頑丈な鼓膜でさえビリビリと震え、思わず体がリズムを刻んでしまうほどの完成度だ。


「素晴らしい」


 田村は腕を組み、心底感心したように頷いた。


「俺は音楽の専門家ではありませんが、この曲がとんでもないエネルギーを持っていることだけは分かります。これなら、どんな客層でも一瞬で惹きつけられますよ」

「ええ、当然よ。私が寝る間も惜しんで、あの子たちの波長を極限まで引き出したんだから」


 真琴は自信満々に微笑んだ。


「この曲で、神無月は一気にトップアイドルへの階段を駆け上がるわ。ノリくん、覚悟しておきなさいよ。これからはもっと忙しくなるわよ?」

「望むところです。彼女たちの体調管理は俺に任せてください」

「頼もしいわね。……ちょっと、電話だわ。ベランダに出るわね」


 真琴のスマートフォンが震え、彼女はグラスを持ってベランダへと出て行った。

 田村は部屋の中で、足元にじゃれついてきたダイズの頭を撫でながら、空いた皿を片付け始めた。


 ガラス戸越しに見える真琴は、先ほどまでの飄々としたクリエイターの顔から一変し、どこか冷徹で鋭いビジネスウーマンの表情を浮かべていた。夜風に髪を揺らしながら、通話の相手に対して低い声で何事かを指示している。


 田村は換気扇を回しながら、皿を洗う手を止めずにその様子を横目で見ていた。

 網戸の隙間から、彼女の会話の断片がわずかに漏れ聞こえてくる。


『……ええ、私よ。楽曲の最終調整は完了したわ。あの子たちのエネルギー出力は予想以上に安定している……』

『あの新任のマネージャー。彼にかかれば、あの子たちの呪いもただの「仕事のストレス」ね。彼の存在が、現代の「信仰」を完璧に変換できているわ』

『ええ。このままいけば、業界のトップも夢じゃないわね。引き続き、私が現場で彼らをプロデュースするわ。……それと、経費の枠、もっと増やしておいて。彼の手料理に必要な高級食材を買うためにね』


 真琴はふふっと妖艶に笑い、通話を切った。


(なるほど。大手レーベルかスポンサーの人間と、さっそくプロモーションの交渉をしていたようだな。彼女たちアイドルの熱意を「呪い」や「信仰」という強烈な業界用語の比喩で表現するあたり、やはり一流のクリエイターは感性が独特だ)


 田村は漏れ聞こえた言葉を「熱血プロデューサーの業界的言い回し」として完全に即物的に解釈した。


「宮崎さん。デザートのパンナコッタがありますが、食べますか?」


 ベランダから戻ってきた真琴に、田村が声をかける。


「ええ、もちろん! ノリくんの甘いものは別腹よ」


(裏で強気な交渉をしてくれるやり手のプロデューサーが味方で助かる。彼女の胃袋を掴んでおいて正解だったな)


 田村は真琴の暗躍を「頼もしいビジネスパートナーの根回し」と高く評価し、冷やしておいたパンナコッタをテーブルに並べた。


 極上のフレンチと引き換えに完成した、最強のデビュー曲。

 天才プロデューサーの強力なバックアップと、霊感ゼロの最強マネージャーの物理的なサポートにより、神無月の快進撃は誰にも止められない勢いを生み出しつつあった。

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