第18話 ストーカー撃退と鯛出汁茶漬け、そして初めてのお留守
月曜日の朝。
田村範朝は、1Kのアパートの玄関で靴紐を結びながら、大きくため息をついた。
彼の視線の先、リビングに設置された犬用のサークルの中から、柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』が、短い前足を柵にちょこんと乗せて、うるうるした瞳でこちらを見つめていたからだ。
「クゥーン……」
ダイズは鼻を鳴らし、少し垂れた耳を後ろにペタンと寝かせて、今にも泣き出しそうな声を上げている。尻尾は股の間に丸く巻き込まれていた。
今日から、ダイズの『初めてのお留守番』が始まるのだ。
先週までは田村がスリングに入れて事務所に同伴していたが、本来、アイドルの仕事場にペットを連れ込むのは衛生面やアレルギーの観点から推奨されない。それに、ダイズも少しずつ一匹で過ごす時間に慣れさせなければ、分離不安症になってしまう。
「ダイズ。いい子でお留守番してるんだぞ」
田村はサークルに歩み寄り、分厚い手のひらでダイズの柔らかな頭を撫でた。
ダイズは田村の太い指をペロペロと舐め、柵の隙間から小さな鼻先を懸命に押し付けてくる。その温もりと健気な仕草に、田村の大胸筋の奥がキュッと締め付けられるような錯覚を覚えた。
(いかん。仕事は仕事だ)
「夕方には帰ってくる。ご飯は自動給餌器にセットしてあるし、エアコンの温度も完璧だ。……行ってくるぞ」
田村は心を鬼にして立ち上がり、玄関のドアを開けた。
ドアが閉まる直前まで、ダイズの「ワォン、クゥゥゥン……」という心細げな鳴き声が響いており、田村は前職の激務の時でさえ感じたことのない、強烈な後ろ髪を引かれる思いでアパートを後にした。
高天原プロダクションの事務所に出社した田村は、開口一番、眉をひそめた。
「……ストーカー、ですか」
「ええ。ここ数日、私の後をずっとつけてくる不審な男の人がいて……。事務所にも、無言電話がかかってくるの」
ソファに座るイ・サラが、不安そうに身をすくめていた。
彼女は透き通るような色白の肌と、大人の色気を漂わせる抜群のプロポーションの持ち主だ。初ライブ以降、神無月の人気はネットを中心にじわじわと上がり始めており、中でもお姉さん的な包容力を見せるサラには、熱狂的なファンがつき始めていた。
「特徴は分かりますか?」
「帽子を深く被って、マスクをしているから顔までは……。でも、いつも黒いリュックを背負っていて、私が寮からコンビニに行く時も、じっと暗がりから見つめてくるのよ……」
サラが震える手で自身の二の腕を抱きしめる。
しかし、田村の鋭い観察眼は、彼女の怯えた態度の奥にある『違和感』を捉えていた。サラの瞳の奥からハイライトが消えており、その視線はどこか冷酷な光を孕んでいたからだ。
(随分と腹を立てているようだな。無理もない。ストレスでタレントが胃を壊す前に対処しよう)
「分かりました。人気が出てきた証拠とはいえ、実害が出てからでは遅い。今日から当分の間、サラさんの送迎と外出時の護衛は俺が完璧に行います」
「マネージャー君が、私をずっと守ってくれるの……?」
サラの瞳にパッと光が戻り、頬がほんのりと桜色に染まった。
「当然です。アイドルの安全管理はマネージャーの絶対の義務ですから」
「ふふっ……嬉しいわ。あなたとずっと一緒にいられるなら、ストーカーなんて可愛いものね」
サラの背後の空間が少しだけ歪み、部屋の空気が微かに重くなった気がしたが、田村は「エアコンの除湿が効きすぎているな」とスルーした。
その日の夜、二十一時。
田村はボイストレーニングを終えたサラを連れて、事務所ビルから数百メートル離れた場所にある、タレント専用の寮へと歩いていた。
街灯の少ない、静かな住宅街の裏路地。
田村は身長185センチ、体重90キロの巨体を活かし、サラの斜め前を歩きながら周囲に鋭い視線を配っていた。スーツの下の筋肉が、いつでも動けるように適度な緊張状態を保っている。
「マネージャー君の背中、大きくて安心するわ。……ねえ、もし本当にストーカーが襲ってきたら、どうするの?」
サラが田村の太い腕にスリリと体を寄せながら、甘えるように上目遣いで尋ねてきた。
「まずは俺が盾になります。相手が武器を持っていれば、プロの警備員でもない限り制圧は危険ですが……俺の筋肉とスーツは特注級の頑丈さなので、数分の時間稼ぎにはなります。その間にサラさんは逃げてください」
「そんなのダメよ! 私のためにあなたが傷つくなんて、絶対に許さないんだから……!」
サラの握る手にギリッと強い力がこもった、その時だった。
前方の暗がり、電柱の陰から、黒いパーカーにマスク姿の男がヌッと姿を現した。
男の目は血走り、異常な興奮状態にあることが一目で分かった。その手には、銀色に光るカッターナイフが握られている。
「サラちゃん……! なんで、なんで僕の気持ちに答えてくれないんだよォ! ずっと見てたのに! ずっと見守ってたのに!!」
男が奇声を上げながら、サラに向けて一直線に突進してきた。
「っ……!」
その瞬間、サラの瞳から完全にハイライトが消え失せた。
彼女の周囲の空気が、ドプンと水に沈んだように急激に重くなる。街灯の光がチカチカと明滅し、アスファルトの上に落ちたサラの影が、ブワッと異常なほど巨大に膨れ上がった。
その巨大な影は、まるで八つの頭を持つ大蛇のようにウネウネと蠢き、鎌首をもたげて突進してくる男の頭上へと覆い被さろうとしていた。
(過呼吸か。それに、男が刃物を持っている。危ないな)
考えるより先に、田村の身体は勝手に動いていた。
影の大蛇が男を文字通り「丸呑み」にしようと大きく口を開けた、まさにその刹那。
田村の巨体が、サラと男の間に凄まじいスピードで滑り込んだ。
「俺の担当タレントに、気安く近づかないでいただきたい」
ドスッ!!
田村は、振り下ろされようとした男の右腕を、丸太のように太い左手でガシッと掴み取った。
「ぐっ、ああっ!?」
男の口から、悲鳴が漏れた。
田村の握力は、リンゴを片手で粉砕するレベルだ。その巨大な万力のような手で手首をギリィッと握り込まれ、男の手からカッターナイフがカランとアスファルトに落ちた。
「な、なんだお前は! 邪魔をするな! サラちゃんは僕の……!」
「夜道で女性を待ち伏せして刃物を向けるのは、純然たる犯罪行為ですよ。警察を呼びます。……それとも、来るまで俺と少し『物理的なお話し』でもしますか?」
田村は男の手首を握ったまま、一歩前に出た。
身長185センチ、体重90キロ。街灯の逆光を背に浴びた田村の姿は、まさに黒い筋肉の壁。その顔には一切の感情が乗っておらず、ただ圧倒的な『暴力の予感』だけが男の全身を震え上がらせた。
「ひっ……! い、いやだっ! 離せ! 離せェェェッ!」
男は田村の威圧感に完全に恐怖し、腰を抜かさんばかりに暴れた。
田村が「仕方ない」とパッと手を離すと、男は脱兎のごとく暗闇の中へ逃げ去っていった。
「……逃げ足の速い奴だ。サラさん、怪我はありませんか?」
田村が振り返ると、サラの足元に蠢いていた巨大な影はすっかり消え去り、元の美しい女性の姿だけがそこにあった。
「マネージャー君……」
サラは震える声で田村を呼び、そのまま彼の分厚い胸板に飛び込んできた。
「怖かった……! あの男、刃物を持っていたのよ……! あなたが刺されたらどうしようって……私、もう頭が真っ白になっちゃって……!」
「もう大丈夫です。刃物を持った不審者も、俺のガタイを見れば大抵はビビって逃げていきますから」
田村は極めて事務的に、しかし優しくサラの背中をポンポンと叩いた。
(極度の緊張で自律神経が乱れているな。温かいものを腹に入れさせよう)
「寮まで送ります。少し落ち着いたら、俺が温かい夜食を作ってやりますから」
タレント寮の共用キッチン。
田村はコンロに鍋をかけ、手際よく調理を進めていた。
用意したのは、新鮮な真鯛の切り身。これに熱湯をサッとかけて霜降りにし、氷水で締めて臭みを完全に抜く。水気を拭き取った切り身を、すりごま、醤油、みりん、少量の酒で作った特製の『濃厚ごまだれ』にたっぷりと漬け込む。
どんぶりに炊きたての白米を浅く盛り、その上に漬け込んだ鯛の切り身を贅沢に並べる。細かく刻んだ大葉とミョウガ、白ごまを散らし、最後に、昆布と鰹節から引いた熱々の特製一番出汁を、鯛の上から一気に回しかけた。
ジュウウウゥゥ……。
熱い出汁に触れた瞬間、鯛の表面がほんのりと白く霜降り状になり、ごまだれの香ばしい匂いと大葉の爽やかな香りが爆発的に立ち昇った。
「お待たせしました。特製・真鯛の濃厚ごまだれ出汁茶漬けです」
田村がダイニングテーブルに茶漬けを置くと、パジャマ姿に着替えたサラは、目を輝かせてスプーンを握った。
「いただきます……」
サラがフーフーと息を吹きかけ、鯛の切り身とご飯を出汁と一緒に口に運ぶ。
「……っ! 美味しい……!」
サラの頬が、蕩けるように緩んだ。
熱い出汁によって半分火が通った鯛のプリプリとした食感と、濃厚なごまだれのコク。大葉とミョウガの爽やかな風味が、疲れ切った胃腸に優しく染み渡っていく。
極上の温かい出汁が、恐怖とパニックで強張っていたサラの心と身体を、芯からジンジンと温めていくのが分かった。
「消化に良いものですから、スルスルと食べられるでしょう。今夜はゆっくり休んでください」
田村が温かいお茶を淹れていると、サラが不意に立ち上がり、後ろから田村の広い背中にギュッと抱きついてきた。
「……マネージャー君。私ね、今日、本当に嬉しかったの。あなたが、私のために命懸けで守ってくれたこと……一生忘れないわ」
サラの豊満な胸が、田村の背中にピタリと押し付けられる。彼女の声は、どこまでも甘く、重く、そして深い執着に満ちていた。
「俺は自分の仕事をしただけです。それに、命懸けというほど相手は強くありませんでしたよ」
田村は背中の柔らかな感触と、サラから漂う甘い香りを「タレントの過度なスキンシップ」として冷静に処理し、優しく彼女の手を解いた。
「出汁が冷めますよ。早く食べてください」
「ふふっ……マネージャー君のそういう朴念仁なところも、大好きよ」
サラは満面の笑みで席に戻り、出汁茶漬けを最後の一滴まで美味しそうに飲み干した。
こうして、ヤンデレお姉さんの怒りが丸呑みという最悪の形で暴走する前に、田村は物理的な威圧感と極上の夜食によって、トラブルを見事に未然に防いだのであった。
深夜。
タレントの安全を確認し、全ての後片付けを終えた田村は、自分のアパートのドアを開けた。
「ただいま」
ガチャリと鍵を開けた瞬間。
「ワン! ワォン! キャンキャンキャンッ!!」
部屋の奥から、短い爪がフローリングをカシャカシャと滑る音とともに、茶色い毛玉が猛スピードで突進してきた。
サークルの扉は開けっ放しにしていなかったはずだが、どうやら田村の帰宅の気配を察知して、自力で柵をよじ登って脱出してきたらしい。
「おっと、ダイズ。寂しかったか」
田村がしゃがみ込んで両腕を広げると、ダイズは田村の分厚い胸板に思い切りダイブしてきた。
ちぎれんばかりに短い尻尾を振り回し、田村の顔中をペロペロと舐め回してくる。クゥーン、クゥーンと甘えるような高い声は、「ずっと待ってたんだよ!」と全身で訴えかけているようだった。
「よしよし。いい子でお留守番できたな。えらいぞ」
田村はダイズの柔らかな体を両手でしっかりと抱きしめ、そのミルクと日向の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
どんなヤンデレアイドルの重すぎる愛や、刃物を持ったストーカーの恐怖よりも、この小さな命の温もりこそが、最強のマネージャーである田村の心を最も強く揺さぶり、癒やしてくれるのだった。




