第17話 メガ盛りプルコギと、南米のパン『アレパ』の休日
日曜日の昼下がり。
田村範朝は、1Kのアパートの自室で、ヨガマットの上に仰向けになり、重さ三十キロのダンベルを両手に持ってベンチプレスの動きを繰り返していた。
フンッ、フンッ、と規則正しい呼吸とともに、大胸筋と上腕三頭筋がはち切れんばかりに収縮と弛緩を繰り返す。休日のリラックスタイムにおける、田村なりの軽めのフィジカル・メンテナンスである。
「ワンッ!」
田村の顔の横で、柴犬の赤ちゃんの『ダイズ』が短い尻尾を振りながら、上下するダンベルに興味津々でじゃれつこうとしていた。
田村は「危ないぞ、ダイズ」とダンベルを床に静かに置き、汗ばんだ手でダイズの柔らかな頭を撫でた。ダイズは嬉しそうに田村の太い指をペロペロと舐め、そのまま田村の広い胸板の上に丸くなって寝そべった。
平和な休日だ。
前職のブラック企業時代には、休日に家で犬と戯れるなどという人間らしい生活は想像すらできなかった。月給百万円のマネージャー業務は確かに激務で、担当するアイドルたちは皆一癖も二癖もある問題児ばかりだが、確実に休日は取れるし、何よりやりがいがある。
ピンポーン。
突然、アパートのインターホンが鳴った。
田村はダイズをそっと床に下ろし、Tシャツの汗をタオルで拭いながら玄関へ向かった。宅配便を頼んだ記憶はない。モニターを確認すると、そこには見慣れた顔が映っていた。
「……イ・サラ?」
神無月のリーダーであり、お姉さん担当のイ・サラだった。
彼女はモニター越しに、おっとりとした笑顔で小さく手を振っている。その足元には、なぜか巨大な保冷バッグが二つも置かれていた。
田村はドアを開けた。
「こんにちは、マネージャー君。休日にお邪魔してごめんなさいね。近くまで来たから、少し寄らせてもらったの」
「近くまでって……ここは事務所からもかなり離れた住宅街だが。それに、俺のアパートの住所、誰かに教えたか?」
「ふふっ。タレントたるもの、優秀なマネージャー君のパーソナルな情報は、ちゃんと把握しておかないとね」
サラはニコリと微笑みながら、全く答えになっていない返答をした。
(事務所の資料でも見たか。セキュリティ面は後で注意しておくとして、とりあえず上げるか)
田村はひとまず彼女を部屋の中へと招き入れた。
「それで、その巨大な荷物はなんだ?」
「ええ。いつもマネージャー君には美味しいご飯を作ってもらっているから、今日はお礼に、私が手料理を振る舞おうと思って」
サラは部屋のローテーブルの上に、ドスンドスンと巨大なタッパーをいくつも並べ始めた。
蓋を開けると、強烈なニンニクとごま油、そして甘辛いコチュジャンの匂いが部屋中に充満した。
「韓国人留学生という設定を活かして、特製の『プルコギ』と『ヤンニョムチキン』を作ってきたの。マネージャー君の大きな体を維持するには、たくさんお肉を食べないとね。……ちょっと、作りすぎちゃったかしら?」
タッパーの中身を見て、田村は目を丸くした。
『少し』どころの量ではない。プルコギに使われている牛肉はどう見ても三キロ以上ある。ヤンニョムチキンに至っては、大ぶりの鶏モモ肉が二十枚以上は揚げられているだろう。相撲部屋のちゃんこ鍋もかくやという、暴力的なまでの『メガ盛り』だった。
(休日にまで韓国人留学生の設定を崩さないとは、プロ意識が高いな。それにしても凄い量だ。俺の体格を見て多めに作ってくれたのだろう。マネージャーとして、この厚意は残さず平らげるべきだな)
「すごい量だな。ありがたくいただこう。だが、これだけの濃い味付けの肉を白米だけで食べるのは少し重いな。……よし。せっかくの休日だ、少し趣向を変えて『特別なパン』で挟んで食べないか?」
「特別なパン……?」
サラが不思議そうに首を傾げた。
「ああ。南米でよく食べられている『アレパ』というトウモロコシ粉のパンだ。プルコギの濃い味と相性がいいはずだ」
田村は立ち上がり、小さなキッチンに立った。
戸棚から取り出したのは、『マサ・アレパ』と呼ばれる、あらかじめ加熱処理された白いトウモロコシ粉だ。メキシコのトルティーヤにも使われる粉だが、アレパはよりふっくらと厚みを持たせて焼き上げるのが特徴だ。
ボウルにマサをたっぷりと入れ、そこに塩をひとつまみ。そして、人肌程度に温めたぬるま湯と、少量のオリーブオイルを少しずつ加えながら、田村の分厚い手で力強く練り上げていく。
パシッ、パシッ、と生地を叩きつける小気味よい音が響く。
田村の太い前腕の筋肉が躍動し、粉と水が瞬く間に均一に混ざり合い、耳たぶほどの柔らかさの滑らかな生地へと変わっていく。プロのパン職人も顔負けの手際と力強さだった。
「わぁ……マネージャー君の腕の筋肉、すごく逞しい……。生地を捏ねる手が、なんだか……その……」
背後でサラが、田村の背中と腕の筋肉の動きを熱っぽい視線で見つめ、頬を赤らめて熱い吐息を漏らしている。
「生地は乾燥しやすいから、手早く丸めるのがコツだ」
田村は生地をピンポン玉より二回りほど大きいサイズに丸め、手のひらでギュッと押し潰して、厚さ一センチほどの円盤状に成形していく。
コンロに火をつけ、スキレットに薄く油を引く。
十分に熱したスキレットに成形した生地を並べると、ジュゥゥゥ……という音とともに、トウモロコシの素朴で香ばしい匂いが立ち上った。
中火で両面にこんがりと焼き色がつくまで焼き、さらに外側をカリッとさせるため、あらかじめ二百度に予熱しておいたオーブンに入れて五分ほど火を通す。
「よし、焼き上がりだ」
オーブンから取り出されたアレパは、表面に美しい焼き色がつき、ふっくらと膨らんでいた。
田村は熱々のアレパにナイフで横から切り込みを入れ、ピタパンのようにポケットを作る。そこに、サラが持参したメガ盛りのプルコギをこれでもかと限界まで詰め込み、さらにとろけるチーズをたっぷりと挟み込んだ。
「特製、プルコギとチーズのアレパだ。……それから、休日の昼下がりだからな。飲み物も少しオシャレなものを用意しよう」
田村は冷蔵庫から氷を取り出し、カクテル用のシェイカーを用意した。
注ぎ込むのは、ウォッカ、ピーチシュナップス、クランベリージュース、そしてオレンジジュース。
シェイカーの蓋を閉め、田村は両手でしっかりと握り込んだ。
シャカシャカシャカッ!!
チャッ、チャッ、チャッ!!
田村の分厚い胸板と上腕二頭筋が連動し、バーテンダー顔負けの正確で力強いスイングが繰り出される。氷がシェイカーの内側にぶつかる涼しげな音が、一定のリズムで部屋に響き渡った。
「お待たせした」
氷を入れたグラスに注がれた液体は、クランベリーの赤とオレンジジュースの黄色が美しいグラデーションを描き、南国の夕焼けのような鮮やかな色合いをしていた。グラスの縁には、カットしたオレンジとチェリーが添えられている。
「わぁ……すごく綺麗なカクテル。これ、なんていう名前のお酒なの?」
サラが目を輝かせてグラスを受け取る。
「『セックス・オン・ザ・ビーチ』というカクテルだ。フルーティーで飲みやすいが、ウォッカがベースだからアルコール度数はそこそこある。ペース配分には気をつけろよ」
田村がカクテルの名前を口にした瞬間。
「えっ……セ、セックス……!?」
サラの動きがピタリと止まり、彼女の顔が耳の先まで一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。
彼女の瞳からスッとハイライトが消え、視線が虚空を彷徨い始める。
「マネージャー君……休日の真っ昼間に、私を二人きりの密室に招き入れて、そ、そんな卑猥な名前のお酒を飲ませるなんて……。つまり、私にそういう『覚悟』を求めているってこと……?」
「ん? いや、ただのスタンダードなトロピカルカクテルの一つだが」
「ああ……どうしよう、私、心の準備が……でも、マネージャー君が私を求めてくれるなら、私、身も心も全部……っ!」
サラの呼吸が荒くなり、彼女の背後の空間が不自然に暗く沈み込んだ。
チカチカと部屋の照明が明滅し、壁に落ちたサラの影が、まるで八つの頭を持つ巨大な蛇のようにウネウネと蠢き始める。さらに、部屋の空気が急激に重くなり、耳がツンとするような気圧の低下が起こった。
(空きっ腹にアルコールを入れたせいで、酔いが回ったか)
田村は蠢く巨大な影や重苦しい気圧など一切気にも留めず、ただ目の前のサラの顔色が赤いことだけを気にかけていた。
「イ・サラ、落ち着け。少し酔ったな。深呼吸だ」
田村は立ち上がり、キッチンの換気扇のスイッチを切り、部屋の窓を大きく開け放った。
フワッと外の新鮮な風が入り込み、部屋にこもっていた重苦しい空気はスゥッと外へ流れていった。
「ほら、まずは何か胃に入れろ。このアレパを食べてみろ」
田村は、プルコギがたっぷり詰まったアレパをサラの口元に差し出した。
「あ、は、はい……あーん」
サラはハイライトの消えた瞳のまま、大きく口を開けてアレパにかぶりついた。
「……っ!!」
サラの瞳に、パッと光が戻った。
外側はカリッと香ばしく、内側はモチモチとしたトウモロコシ粉の生地。その素朴で優しい甘みが、強烈なニンニクとコチュジャンが効いたプルコギの暴力的な旨味と完璧に調和している。
肉汁ととろけるチーズが絡み合い、噛むほどに旨味が口の中で爆発する。さらに、セックス・オン・ザ・ビーチのクランベリーとオレンジのフルーティーな酸味が、口の中の濃厚な脂をサッパリと洗い流し、次の一口を強烈に求めてしまう。
「美味しい……! なにこれ、すごく美味しいわ、マネージャー君!」
サラは両手でアレパを持ち、無我夢中で頬張り始めた。
良質な糖質とタンパク質が胃に収まったことでアルコールの回りが緩やかになり、彼女の荒い呼吸も落ち着きを取り戻していく。背後に蠢いていた巨大な蛇のような影も、窓から差し込む太陽の光によって綺麗に消え去った。
「そうだろう。濃い味付けの肉は、トウモロコシの素朴な風味と相性が抜群なんだ。お前が大量に作ってくれたおかげで、最高の組み合わせを見つけられたよ。ありがとう」
田村がニコリと笑いながら自分もアレパにかぶりつくと、サラは顔を真っ赤にしてモジモジと身をよじった。
「そんな……私の方こそ、マネージャー君の手料理が食べられて幸せよ……」
「クゥーン」
美味しそうな匂いに釣られて、ダイズが田村の足元でピョンピョンと跳ねている。
「ダイズの分は、味付け無しのササミだぞ」
田村が犬用のおやつを投げ与えると、サラはふふっと優しく微笑んだ。
ヤンデレ気質な留学生の「重すぎる愛」を、絶品のアレパとカクテルのペアリングで完璧に包み込み、平らげてしまった田村。
霊感ゼロ・物理防御力最強のマネージャーの休日は、圧倒的な料理スキルと鈍感力によって、今日も平和に過ぎていくのだった。




